活動報告
渋沢栄一縁の深谷を訪れました。
紀行文
2024年 見学会報告
10月8日(火) 深谷・渋沢栄一ゆかりの地を訪ねる 担当(馬淵、太田(祐)、閑野、白倉)
10月初旬の見学会ということで秋晴れを期待していたが、生憎終日の雨模様となった。参加申込者数は申込締切り時点では募集人員を少し超えていたが、開催日近くになり体調不良や都合が悪くなってのキャンセルが相次ぎ、結局50名の参加者となった。予定通り7時15分に出発。関越自動車道を走り花園ICで下りて深谷市内に入り、最初の見学先である渋沢栄一記念館に9時40分到着。
今回の見学会見学先は一度の収容人員が少なく、2班に分けて見学した。渋沢栄一記念館は、渋沢栄一に関する多種多様の資料が展示されている。また渋沢栄一アンドロイドによる講義室があり論語に関する講義が聴けるが、残念ながら収容人員と時間の関係でパスした。
次に渋沢栄一の生家である「中の家(なかんち)」を見学。現在の「中の家」は、渋沢栄一が育った当時の家ではなく、家を継いだ栄一の妹夫婦によって明治28年に再建されたものである。二階建ての建物で規模が非常に大きい。ここでも渋沢栄一アンドロイドによる渋沢栄一に関する説明があった。1階奥の上座敷は、栄一が帰郷した際に滞在するために造られており、最上級の建材が用いられている。二階は養蚕に使われていた。
昼食は、近くの割烹「若菜」にて、この地の郷土料理である「煮ぼうとう」の定食をいただいた。
午後の最初は、渋沢栄一の従兄で論語をはじめ多くの学問の師である尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)の生家を訪れた。生家は江戸時代末期の商家の建物の趣を残している。尊王攘夷に関する謀議をしたと伝わる2階の部屋は、現在非公開ということで見学できなかった。生家奥の裏庭では藍が育てられていた。
次に、当初世田谷にあった第一銀行の保養・スポーツ施設集会所2棟の建物が取り壊されることになり、2000年に深谷に移築され保存復元された誠之堂(重文)と清風亭を見学した。それぞれ第一銀行頭取であった渋沢栄一と栄一の後を継いで頭取となった佐々木勇之助ゆかりの建物であり、大正時代を代表する建築物として高い評価を得ている。
最後に、かつて深谷では煉瓦が製造されており、その煉瓦を製造した旧煉瓦製造窯跡他を見学した。煉瓦製造の最盛期にはホフマン式輪窯と呼ばれる巨大な窯が6基稼働していたが、現在では1基のみが遺されている(重文)。平日は内部見学ができず、冊の外から見学した。明治28年に、煉瓦を製造施設から深谷駅まで運ぶ引き込み線が引かれ、その際窯跡近くを流れる備前渠に架かる鉄橋が造られ、今も遺されているその鉄橋(備前渠鉄橋(重文))を見学した。
以上で見学を終り帰途についたが、途中高崎線深谷駅を車窓から見学した。深谷の地で製造した煉瓦が東京駅にも使用されたことで、深谷駅は1996年に東京駅を模した橋上駅に改築されている。小金井には予定よりも早い17時30分に無事帰着した。
(参加者50名)
奥多摩・日原を訪れました
紀行文
奥多摩町・日原をたずねる 9月10日(火)
9月に入っても猛暑が続く中、涼を求めて東京都の西の端、奥多摩町日原をたずねた。
下見に行った際、窓口で「鍾乳洞内は急な階段が多く高齢者は転倒のリスクがある。けがをしても救急車が来るには50分以上かかる」と釘を刺されたので、見学案内に、足腰に自信のある方!と厳しく書いた。この為か参加者は47名だった。
予定より一本早い武蔵小金井8時27発青梅行で出発。青梅で奥多摩行に乗り換え、10時7分奥多摩駅に到着。鍾乳洞行のバスの追加をお願いしてあったので10時15分発の2台に分乗して鍾乳洞へ向かった。日原川沿いの道路を曲がりくねりながら10時45分に鍾乳洞到着。奥深い山を背景に記念撮影して、500m先の鍾乳洞入口に向かった。
日原鍾乳洞は関東でも最大級。総延長1,270m、高低差134m。洞内は年間を通じて気温11度で上着を着ても、真夏から真冬になった感覚、涼しいより寒いほど。天井が低く頭がつかえるところを通り奥へと進む。石灰岩が長い年月を経てつくり出した自然の造形に驚きを覚えた。昭和37年に発見された新洞は高低差と急階段があり健脚の方のみ挑戦、約40分の洞窟見学を終えた。
そして鍾乳洞上の洞門沿いのコンクリートに並んで昼食。目の前の小川谷の渓流や木々を眺めながらそれぞれ弁当に舌鼓を打った。12時10分からは近くの巨岩、梵天岩、燕岩、籠岩を見て、約2キロ先の森林館まで山々を眺めながら歩いた。途中の稲村岩は、高さ300mの巨岩で姿が美しい。
森林館には12時50分に着いたが、帰りの東日原バス発車時刻が13時15分なので駆け足の見学となった。奥多摩町は日本一巨樹が多い町だ。館内には、ミズナラの巨木のレプリカ、巨樹の写真や絵画などが展示されている。時間が無くてじっくり見学できなかったのが残念だ。2台のバスで東日原から奥多摩駅まで全員無事に戻った。温泉・もえぎの湯に行く人、ワサビを買いに行く人以外は、13時55分の電車で帰路についた。
評判が良かったのはトイレがきれいだった事。これは7年前に「オクタマ・ピカピカ・トイレ(OPT)」が発足、3名のクリーンキーパーが20ヶ所あるトイレを清掃しているとのこと。奥多摩町は自然もトイレも日本一美しく何度も来たくなる町だと思った。新規入会者2名、非会員2名 (参加者47名)
担当(森、太田義、太田祐、福崎)
館山を巡りました
紀行文
2024年08月27日 里見八犬伝の地・館山・南房総を訪ねる
愛犬八房の気を感じて懐妊した伏姫の数珠から「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八の玉が飛び出し、里見家を守る八犬士の若者となる。江戸時代の伝奇作家・曲亭馬琴が書いた「南総里見八犬伝」舞台の館山を訪ねた。
東京湾アクアラインから、館山道をとおり鶴ケ谷八幡宮に到着。この神社はかつての安房国の総社。拝殿の向拝には安房を代表する彫物大工後藤義光の彫刻がある。特に天井にある「百体の龍」は義光の代表作だ。
館山城は戦国武将里見氏の居城。里見氏は上野国の出で、15世紀末に安房を本拠とした。上杉管領、後北条氏などが入り乱れる戦国時代を戦い抜き徳川幕府の大名となったが、鳥取・倉吉へ国替えとなり、その後改易となった。
館山城八犬伝博物館へは、急な坂道を15分ほど登る。「滝沢馬琴とは本人は言っていません。曲亭馬琴です…」などと学芸員さんの案内で、展示を見る。天守を模した建物の最上階から館山湾、東京湾の絶景が見晴らせる。
海岸におりて、日本一長い「夕日桟橋」に向かう。豪華客船も寄港するという。先まで歩くと10分近くかかる。海風が心地よい。昼食は、漁師料理たてやまで海鮮料理を堪能した。
数日前から台風10号が来るぞとの予報があり、実施できるか心配した。思ったより「鈍足・迷走台風」で、影響がないことがわかった。アクアラインも桟橋も波はおだやかで予定通りの見学となった。
担当(垂水、閑野、織壁、桜井、間島) 参加者(45名)
上野・お茶の水博物館を訪ねました
紀行文
見学会紀行文
7月9日 上野とお茶の水の博物館等を訪ねる 担当(島田、塚田、垂水、太田(義)、白倉)
前々日は梅雨中での記録的猛暑になり、府中は40℃近くを記録し危険アラートが出た。そのため『参加者は少ないのではないか』と危惧したが嬉しいことに48名参加で、皆さん好奇心旺盛・会話を楽しむ。これらは日頃健康でなければできない。史談会々員は元気者ばかりと改めて感心した。今回は暑さ対策のために上野、お茶の水の博物館を訪ねた。
上野駅改札を出ると目の前が既に公園で、私事になるが、上野といえば西郷さん銅像、を想像する。周辺整備で隔世の感がした。小道を少し歩き日本最初の国立音楽教育を先導した奏楽堂(入り口横に滝廉太郎像)、その近くに西洋絵画の技法を広範囲に指導した黒田記念館(黒田清輝)。日本の黎明期で先駆者の努力が偲ばれる。
ここから徒歩10分程で東京国立博物館を見学する。入場は70才以上の証明証(健康保険証、マイカードなど)を提示すれば無料となり終日見学できる、国内外の美術品が網羅されていて、とても一日見学では困難なほどの展示がなされている。海外旅行者と思われる団体、家族の見学も多く、興味津々で日本文化に触れ神妙な気分で思案する姿が見られた。この建物前で集合写真撮影を行う。少し気温も上昇しはじめ、次のお茶の水へ向かう。
明治大学博物館では朝ドラの【虎に翼】展を開催していた。大学卒業生で52年前、史上初めて法曹の世界に飛び込んだ一人の女性三淵壽子が男世界の困難に立ち向かい道を切り開いた姿を描く。 他には恐ろしい犯罪・拷問道具、考古学の展示などガイドさんの説明を受けた。昼食時となり校舎の高層ビル・リバテイタワー17階でスカイラウンジの気分で学食を頂だき高揚感満点だった。
その後徒歩10分程にあるロシア正教会ニコライ堂で敬虔な説明を受け清楚な気分で現地解散した。小金井着4時半、天気予報の小雨には幸い会わなかった。 (参加者48名)
-
旧東京音楽学校
明治23年に建設された
旧東京音楽学校(現
東京芸大音楽学部)の
奏楽堂。重要文化財。 -
黒田記念館
日本近代絵画の父と
いわれる黒田清輝の
遺言を受けて建てら
れた黒田記念館。
昭和3年に竣工。 -
遮光器土偶
日本で最も有名な土偶
の一つ。極端に大きな目
の表現がスノーゴーグル
に似ていたことから遮光
器土偶と呼ばれている。 -
明治大学博物館
明治大学博物館にて。
古墳・埴輪について
ボランティア解説員の
説明を熱心に聞く -
ニコライ堂
キリスト教・正教会の
東京復活大聖堂(ニ
コライ堂)。日本で初
めてで最大のビザンチ
ン様式教会建築。
1891(明治24)年の
竣工で重要文化財 -
集合写真
東京国立博物館の本館。
昭和13年に開館。重要
文化財。2階で「日本美
術の流れ」を展示している
講演会を行いました
講演
小金井史談会歴史講演会
小金井史談会写真展の最終日7月1日、小金井宮地楽器ホール小ホールで10時より定期講演会を開催。演題「赤穂浪士の討入りと国学者荷田春満(かだのあずままろ)」。やや地味な内容で少し心配したが来場者は80名(会員45名、非会員35名)の募集定員ちょうど。國學院大學名誉教授根岸茂夫様を講師に迎え、100分の熱演でした。
荷田春満は筆名で本名は羽倉斎(はくらいつき)。赤穂浪士討入りの元禄十五年十二月十四日吉良邸での茶会開催情報をもたらしたのは春満、という今までの概念を覆す内容でした。元禄十五年十二月十三日大石三平宛の荷田春満の書状が赤穂大石神社蔵に保存されており、その写しが当日資料として提供されました。映画・ドラマ・小説の「赤穂浪士・忠臣蔵」は大高源吾が茶人山田宗偏から得た情報を基に大石良雄が討入りを決断、十五日未明に吉良義央の首級を獲る、というのが通説でした。講演では、荷田春満の歌人・国学者の人生や徳川吉宗の享保改革にも参画した業績に触れ、その人となりを勉強しました。
講師の根岸先生は今年3月國學院大學を退任されたこともあるのか、語り口調が柔らかく、独自の仮説を聴くことが出来ました。例えば、赤穂浪士は47人ではなく120人位だった(目的達成のため第2、第3弾の組織があったのでは)とか討入り当日は47人以上だったなど。これらを纏められて世に出されることを願います。 (参加者数
80人)
会津方面一泊で訪問しました
紀行文
6月16日(日)~17日(月) 会津若松方面の歴史と文化財を訪ねる 担当(織壁、馬淵、佐藤、垂水)
1日目
今回は、小金井からバスでの往復の見学会。朝7時15分、予定通りに出発することができて一安心。日曜日で道路は空いている。東北自動車道を順調に走行。最初の予定より1時間ほど早まったので、「大内宿」の前にサプライズとして用意していた「塔のへつり」を見学することができた。短時間ではあったが、阿賀川の浸食作用により生み出された塔が並び立つような奇観を、吊り橋を渡りながら眺めた。皆さんは到着直前に案内したので、おおよろこび。
その後、最初の見学先である重要伝統的建造物群保存地区「大内宿」を見学。現地下郷町観光公社のガイドに案内してもらう。明治期の鉄道開通により街道はさびれたが、「半農半宿の宿場」であったため宿場はすたれず、よく整備された茅葺屋根の家屋が立ち並んでいる。宿場の奥の見晴台から眺める宿場の眺めは絶景であった。昼食は、多くの人がこの地域で有名な「ネギそば」を食した。店の人から「どんぶりを顔に近づけてネギで食べてください」と言われた。
会津若松市に移動し、三時半に予約していた鶴ヶ城を見学。城は戊辰戦争で大きな被害を受け、当時の建造物はほとんど残っていないが、濠や石垣は立派である。本丸跡に土居晩翠の「荒城の月碑」が建っていたので、皆で「荒城の月」を合唱した。そして昭和40年に再建された天守に登り博物館となっている内部を見学。
初日の見学を終え、宿泊ホテルへ。休憩後、会津迎賓館で夕食をとり懇親を深めた。
2日目
朝8時15分にホテルを出発。最初に、白虎隊の若き隊士が自刃した飯盛山にむかった。隊士の墓は飯盛山の中腹にある。きつい坂を上る必要があるが、スロープコンベアがあり皆さん安心して登ることができた。墓近くに、隊士自刃の地があり、ここで隊士たちが最後に望んだ鶴ヶ城の天守を眺めることができた。
次に、白虎隊士の墓のそばにある「さざえ堂」を見学。ここは、旧正宗寺の観音堂で、今は個人所有となっている。さざえ堂の階段は、「二重らせん構造」で、上りから下りまで一方通行で、人とすれちがうことなく見学できる。近くの白虎隊記念館は希望者が見学した。
次の見学先は会津武家屋敷で、団体は見学と食事がセットになっており割安感がある。敷地は7千坪と広大。その中でも再建された家老西郷頼母邸は非常に立派であった。部屋数は28もあり、藩主を迎える書院造の「御成の間」もしつらえられている。
会津武家屋で昼食をとり、最後の見学先である猪苗代湖畔にある野口英世記念館を訪れた。以前は野口英世の生家だけであったが、現在は生家のそばに立派な本館がある。さらに感染症ミュージアムも併設。生家では、幼名清作が「てんぼう」といわれた左手に大火傷を負った囲炉裏が印象的。本館には子供の頃の成績やその後苦学して米国に渡り医学研究者として大成する過程が展示されている。
二時に野口記念館を出発し、帰途についた。その後バスは順調に走っていたが、東北自動車道は事故渋滞で、1時間近くノロノロ運転が続いた。小金井帰着は予定をやや過ぎ7時近くとなった。(参加者数
26名)
-
塔のへつり
南会津郡下郷町に
ある天然記念物
「塔のへつり」。へつり
とはこの地方の方言
で危険な崖を意味
する -
大内宿
重要伝統的建造物群
保存地区「大内宿」。
良く整備された茅葺屋
根の家が並ぶ旧街道
の景色 -
大内宿2
下郷町にある大内
宿は、江戸時代に
会津若松と日光
今市を結ぶ街道の
宿場町として栄えた -
ネギそば
大内宿の名物
「ネギそば」。「どんぶ
りを口に近づけてネ
ギを使って食べて
ください」と言われた -
鶴ヶ城
幕末の戊辰戦争
では、藩士たちが
立てこもった鶴ヶ城
の徹底抗戦は悲
惨だった -
集合写真
現在の城は昭和の
再建。天守閣の最
上階から会津盆地
の街並みが見わたせる -
白虎隊自刀の地
会津・飯盛山の中腹
にある白虎隊士自刃
の地。 -
飯盛山
白虎隊士は、飯盛山
の中腹から鶴ヶ城が
燃えていると思い
自刃したといわれる -
さざえ堂
飯盛山の「さざえ堂」。
1796年に建造された
旧正宗寺の観音堂で
、上りと下りが別々
のらせん状になっている -
復元された家老屋敷
会津武家屋敷の
復元された会津藩
家老西郷頼母邸
の表玄関 -
野口英世生家
猪苗代湖畔にある
野口英世記念館。
野口英世が上京
する19歳まで過ごした
生家が保存している -
集合写真2日目
会津武家屋敷入口
にて集合写真
東京湾唯一の自然島、猿島を訪れました
紀行文
6月11日(火)東京湾にある無人島「猿島探検記」 担当(太田祐、桜井、藤井、小林,閑野)
いまは無人島であるが、むかしの縄文・弥生時代には人が住んでいたという。三浦半島の付け根、横須賀から1.7kmに位置し、東北から南西に長く、全長約500m。広さは55ha、小金井公園の約2/3の面積である。
横須賀の新三笠桟橋から280人乗りの船で10分、砂岩の崩れかけた岸壁に到着する。海底に堆積した砂泥がいつしか隆起し39mもの高みになった。そこからの東京湾を見渡す景観と、まったく「無傷」の戦争遺跡を見ることができる。
島の地理的特徴が、江戸、東京を防御する適地と認識され、備えはペリー来訪時には始まり、明治・大正と続いた。この太平洋戦争で島に軍指令部を設置し、要所に高射砲を10数台据え付けた。弾薬庫をつくって大量貯蔵し、その補給路を敵に察知されないようにトンネルや切り通しで確保し、発電設備も設けた。それらのすべてをレンガで表装し万全であった。しかし、その機能が果たされることはなかった。米軍機は島の東を素通りして東京に向かい、一度も爆撃されることもなく、島の高射砲は一度も発することがなかった。米軍の情報収集力は優れており、この島を攻撃の対象とせず「素通りせよ」という指令を発したのであろう。残念であったのか、よかったのか。いまその無傷の戦争遺跡を見ることができるのである。
猿島という島の名について。鎌倉中期、日蓮聖人が千葉の上総から小舟で三浦半島に渡る途中、暗雲垂れ込められ方向を見失った。その時ここで白い猿に出会い、島の中央まで導かれたという。その上陸地点は当地に明示されているが、「危険」なので近づけない。今、島内には猿は一匹もいない。
小金井で58名が集合して武蔵小金井駅で乗車し、朝の雑踏時の新宿駅で乗り換えて品川駅に到着、京浜急行に乗って横須賀中央駅で再集結した。そこで参加者10人を加えて20分歩く。出発してから約3時間、一人の欠落もなく目的の新三笠桟橋に到着した。島内では自由行動で1時間、全員定刻までに帰着して船に乗り横須賀へ戻った。
終了後の自由参加の「軍港巡り」は秀逸であった。イージス艦を何艘も見た。(参加者68名)
牧野記念庭園、石神井公園を訪れました
紀行文
5月15日(水)牧野記念庭園・石神井公園を巡る 担当(森、嵯峨山、太田〔義〕、白倉)
五月晴れの中、牧野記念庭園、石神井公園を訪れた。参加人数は75名。約1万歩と案内していたので、参加者数は多くても60名と考え、念のため70部用意していたが、資料が足りなくなった。昨年のNHK朝ドラ牧野富太郎を主人公とした「らんまん」の効果は絶大であった。今回は、ご夫妻での参加が5組、非会員の参加が10名もあった。
練馬区立牧野記念庭園は、西武池袋線の大泉学園駅から約10分の地にあるが、武蔵小金井駅からは、西国分寺で武蔵野線に乗車して新秋津駅下車、約7分歩いて西武池袋線秋津駅へ行き、更に大泉学園駅へと、距離的には近い割に何度も乗り換えが必要であった。
大泉学園駅から歩いて10時前に牧野記念庭園に到着。入口には牧野博士が植えられた栴檀(せんだん)の花が見ごろで、我々を迎えてくれた。牧野博士の銅像前で記念写真を撮り、3組に分かれて、約1時間職員の案内でビデオ鑑賞、展示室、庭園を見学した。牧野博士の偉業を実感できた。
牧野記念庭園のみの方約10名とはここでお別れし、約25分歩いて練馬区立石神井公園ふるさと文化館分館へ到着。練馬区の文化人壇一雄などの展示や五味康祐の愛用したオーディオ機器などを見学した。続いて石神井公園に入り、豊島氏が太田道灌に敗れて自害した照姫を祀った姫塚を見学、塚にはシラカシの大木があった。三宝寺池は、三宝寺池沼沢植物群落として国の天然記念物に指定されており、カキツバタが咲いており、ゴイサギ、アオサギ、シラサギ、カイツブリなど水鳥も多数いて自然の豊かさを感じさせた。池の畔に石神井城址の碑があり、かつて石神井城を築きこの地域を支配した豊島氏を偲んだ。
12時45分から公園内のベンチで昼食。新緑の木陰の下で持参した弁当に舌鼓を打った。腹ごしらえした後は石神井公園に隣接する道場寺と三宝寺を見学。道場寺は南北朝時代の1372年豊島氏の菩提寺として創建。唐招提寺の金堂風の本堂、三重塔、鐘楼そしてサルスベリ、クロマツ、アカマツの巨木などがあり禅寺らしい静かな佇まいの寺であった。隣接する三宝寺は三宝寺池の名前の由来になっている寺で、豊島氏の祈願寺として創建された真言宗の寺院。午後2時15分頃ここで解散して根本大塔、平和大観音像、四国八十八霊場碑などを自由見学。三々五々JAあおばバス停から荻窪に向かった。(参加者75名)
吉見の百穴などを巡りました。
紀行文
4月2日(火) 埼玉・聖(せい)天宮(てんきゅう)、吉見百(ひゃく)穴(あな)、妻沼(めぬま)聖(しょう)天山(でんざん)見学 担当(織壁、島田、佐藤、藤森)
久しぶりの晴天に恵まれ、バスによる見学会が開催された。最初の見学地は埼玉県坂戸市にある国内最大級の道教のお寺、聖(せい)天宮(てんきゅう)。バスは圏央道坂戸インターを降り田園地帯を約1.5km走る。突然、車窓から黄色い屋根瓦と色鮮やかな龍の飾りが見えると参加者から歓声が上がった。聖(せい)天宮(てんきゅう)である。拝観開始時刻より早く到着したので、聖天宮入口前で依頼していたガイドさんを待つ。
聖天宮は台湾出身の康國典(大法師)が台湾から宮大工を呼び寄せ十五年の歳月をかけ平成七年(1995年)に建立した寺である。龍を主体とした彫刻、釘を使わずに楠材を組んで作った螺旋天井、楠の一枚板の扉の彫刻等、一見の価値あるものばかり。龍尽くしの装飾に彩られた聖天宮は辰年の今年にふさわしい見学会の場所であった。
次に向かったのは、今から百一年前の大正十二年(1923年)に国の史跡に指定された吉見百(ひゃく)穴(あな)。古墳時代末期(六世紀末から七世紀後半)の横穴墓である。太平洋戦争末期には、航空機エンジンの部品を製造する地下軍需工場が造られ、巨大なトンネルが数多く掘られたため、十数基の横穴墓が壊された歴史を持つ。ここでは、横穴墓、地下軍需工場のトンネル入口と横穴墓の一部に自生している国指定天然記念物のヒカリゴケをガイドの説明を聞きながら見学した。百穴と命名されているが、実際には二百十九基の横穴墓がある。
最後に熊谷市妻沼にある妻沼(めぬま)聖(しょう)天山(でんざん)歓喜院(かんぎいん)を訪ねた。二班に分かれてガイドの案内で見学した。宝暦十年(1760年)に再建された本殿「歓喜院聖天堂」は、平成十五年(2003年)から八年かけて行った平成の大修理により、傷みや剥落した色彩が甦り、平成二十四年(2012年)七月九日に国宝に指定された。日光東照宮を彷彿させる本格的装飾建築である。この本殿「歓喜院聖天堂」は、庶民の浄財によってできていることもあり、羽目彫刻には七福神、象、麒麟、龍、鳳凰、猿などの動物、四季折々の遊びに興じている子供等、平和な世の中での姿がモチーフとなっている。また技術的にも漆を何度も塗り重ねて精巧な表現がされていることにも目を奪われた。約一時間の見学を終えて、東松山インターから一路武蔵小金井に戻った。
今回は、第一級の芸術作品を鑑賞できた一方で、文化財や天然記念物を今以上に失ってはならないと再認識した見学会でもあった。 (参加者58名)
小金井公園で懇親バーベキューと文化財センター
紀行文
3月19日小金井文化財センター見学と小金井公園で懇親会バーベキュー 担当(垂水、織壁、役員全員)
桜の開花はいつだろう? と気にしながらの見学日となった。3月19日、小金井文化財センターで「小金井桜の今昔」と題して、生涯学習課の高木さんを講師に勉強会を行う。「今年は、小金井桜が国の名勝指定になって百年です」「小金井桜はヤマザクラ。開花の早いもの、遅いものがあります」「江戸中期、将軍吉宗の命で、川崎平右衛門が小金井の上水堤に奈良・吉野、茨城・桜川の苗を植えました」「桜は大正期には1400本もありました。戦後に玉川上水が止まると環境が悪化、700本まで減ったが、今は900本を超えるまで復活しました。」「整備は始まったばかり、桜並木とノカンゾウ、ニリンソウなど足元の草木が復活します」「府中農業高の生徒と市民団体が植樹、補植、苗木の育成をしています」などと小金井桜の昔と今を解説した。文化財センターは展示替えのため休館、3月22日からは季節展「名勝小金井桜」が行われる。
文化財センター・浴恩館前で記念写真を撮り、玉川上水の平右衛門橋をわたり小金井公園に向かう。この付近の上水はケヤキなどの大木が伐採され、土手、堤に背の低い桜が植えられている。将来が楽しみだ。10分ほど歩いてバーベキュー会場へ。昨年9月に行ったバーベキューが好評、春の実施となった。参加者それぞれ、食材と飲物を用意。5つのテーブルに分れて、調理。幹事がコンロ、テーブル、イスなどを売店で用意した。各テーブルでは食事をしながら懇談した。「BBQ盛況で楽しく歓談できました。2回目となれば皆さん慣れたもので 次回も期待します。準備段階からこまごまと気配りお疲れ様でした!」などの感想が寄せられています。春まだ浅く、少し寒かったが、皆さん楽しい時間を過ごした。参加39名(懇親会33名)
登戸研究所跡を巡りました
紀行文
2月14日(木) 秘密戦・登戸研究所を探索する 担当(嵯峨山、小林、福崎、中島、金澤)
2月14日はバレンタインデー。早朝より晴れ渡り3月下旬並みの暖かいとの天気予報。
1月の見学会後の案内や役員会で、「資料館内が狭くガイド2名、学期末試験中」などのネガティブな情報を流したにも拘わらず予想外の49名が参加されました。昨年7月4日の山田朗先生講師の講演会の反応がよかったからでしょう。
武蔵小金井→立川→南武線・登戸⇒小田急線・生田の行程で明治大学生田キャンパスを目指しました。キャンパスは高台にあるので北西門の地域産学連携研究センターの建物内のエスカレーターを利用するつもりが建物内工事で立入禁止。止む無く急階段を登る羽目に。史跡の1つである生田神社(弥心(やごころ)神社)前で、学内遺跡探索スタート組と資料館(陸軍登戸研究所第二課が研究施設として実際に使っていた建物の一つ)見学からのスタート組に分かれ、DVD⇒資料館内ガイド案内⇔学内史跡巡りという2時間のプログラムでした。
登戸研究所の研究内容やそこで開発された兵器・資材(風船爆弾・ウイルス兵器・生物兵器・毒物・スパイ機材・偽札・偽造パスポートなど)などは人道上・国際法規上に大きな問題を有するものが多数ありました。戦争の暗部ともいえる部分を直視し、戦争の本質や日本軍が行ってきた諸活動の一端を学びそして平和を考えるきっかけになれば幸いです。参加者49名(うち2名新入会員)
下谷七福神を巡りました
紀行文
1月10日(水) 下谷七福神めぐり 担当(坂倉、塚田、小林、岡田)
下谷七福神めぐりは、根岸~下谷~竜泉~三ノ輪にあり、およそ1時間30分で回れるコースです。
1月10日、お天気に恵まれ、8時47分、武蔵小金井駅を出発し、鶯谷駅の北口に出ると、私たちと同じような団体が何組か集合しており、狭い広場が大混雑でした。前もって依頼していた台東区のボランティアガイドさん5名と合流して、参加者は5つのグループに分かれて「いざ出発!」
寿老神の「元三島神社」は駅前にあり、蒙古襲来の折、勇将河野通有が夢のお告げで勧請したことが始まりです、寿老神は中国道教の神であり、延命長寿・福徳を授ける神とされています。
次は「恐れ入谷の鬼子母神」。朝顔市で有名です。言問通りを歩いていくと真正面にスカイツリーが見えます。鬼子母神は、安産、子育ての守護神として信仰されるようになりました。ここに祀られているのは福禄寿。中国の仙人に由来するといわれ、安産、子宝、金運、長寿の神です。
次は三面大黒天が祀られている英信寺です。浄土宗の寺院。三面大黒天は右に弁財天、左に毘沙門天の顔を持つ大黒様。ヒンズー教の神で出世・開運・商売繁盛などの御利益があります。
隣接して毘沙門天が祀られている法昌寺。法華宗、本門流の寺院です。元プロボクサー・コメディアンのたこ八郎の「たこ地蔵」が皆様の無病息災を祈願して合掌しております。毘沙門天はインドの神様で仏教の四天王の1人です。古代インドでは武人の神様、日本では財福の神様。
昭和通りを越え少し行くと、不忍池の姉妹弁財天である朝日弁財天があります。弁財天はインド由来の神様で、芸事、金運の神様。
次に国際通りを越えて、飛不動尊正宝院。「空飛ぶお不動さま」として旅人の守り本尊、災厄消徐の祈願寺として信仰され、「はやぶさ」の無事帰還のご利益でも有名です。ここは、日本由来の恵比寿神が祀られ、釣竿を持ち、鯛を抱える漁業の神様。商売繁盛の神様です。
少し歩くと一葉記念館です。地上3階・地下1階の構造。大人数の為、広場で記念館の職員さんが、2回に分けての説明。館長さんにも他の団体より優先していただくというご配慮を頂きました。そして、全員で記念撮影。
最後の寿永寺は徳川秀忠公の供養のために秀忠の正室お江の方の侍女寿永法尼によって建てられました。布袋尊は夫婦円満の神。大きく笑っているお姿は温かい気持ちにしてくれました。三ノ輪駅まで3分。福を頂き、午後1時前、無事終了。
(参加者64名)
三渓園をなどを巡りました
紀行文
12月12日(火) 三渓園と金沢文庫・称名寺の史跡を訪ねる
担当(太田、小林、白倉、垂水)
ヨーカドー前に7時10分集合なのに、20分も前に薄暗い雨の中、参加者が続々と集まり始めた。「トイレは済ませてください。バスの席取りはやめましょう」と大きな声で受付を開始。参加費の受領、釣りや資料のお渡しなど。テキパキと処理し、キャンセルもあったが、定刻の7時半には余裕で出発した。
少し渋滞がありながらも多摩川に沿って走り、予定通り1回の休憩をとり、定刻の10分前には三溪園に到着。天気に強いと自負する人達のお陰?で傘なし。現地のボランティアガイドによる解説・見学が始まった。
三溪園はこの千年間の日本建物園で、小金井たてもの園と姉妹園を思わせる? 野球場を4つも集めたほどの敷地にお宝の重要文化財の建物が17もある。かなり山や川があって、ステッキに頼りながら元気に登っていく。紅葉の時期は過ぎていたが、落ちた真っ赤なカエデの葉が雨に濡れて重なっている。
次の金沢文庫の見学時間も決まっており、集合は時間厳守、みなさんきっちりと集まる。旅慣れた集団だと改めて思う。金沢文庫は文字通り古文書ばかりで猫に小判? 係の解説にはみなさんの興味はそれぞれ。見学時間を持て余した人も。称名寺の池の周りを思いおもいに歩いた。
帰りは、行きより半時間も短縮、5時には帰着。心配していた傘もささずに晩秋のいい旅だった。
(参加者50名)
内藤新宿を巡りました
紀行文
11月14日(火) 晩秋の内藤新宿を菊薫る新宿御苑まで歩く
担当 (塚田、森、嵯峨山、坂倉、佐藤)
例年より寒いとの予報であったが、晴れの気持ち良い天気であった。出発は8時59分の始発。さすがに9時近くであり楽に座れたのだが、三鷹駅到着時、「西八王子・八王子間で支障が起き、急ぎの方は総武線・地下鉄線に乗り換えて」とのアナウンス。あわてて乗り換え、荻窪駅で地下鉄丸ノ内線に乗り換えた。
最初の見学地は花園神社。さすがに酉の市の本拠地、驚くほどの提灯の数。幕のかかった露店の隙間から僅かに見える熊手、3日前の酉の日に来たらさぞかし賑やかだったろうと思われた。この神社は牛込区の総鎮守である。南に出て、伊勢丹前に出る。ここは昔追分といわれ、甲州街道と青梅街道の分かれ道だった。この道を東へ5~6分行くと成覚寺・正授院。
成覚寺は内藤新宿の「飯盛り女」(遊女)の投げ込み寺として有名で小さいながら、いかにもという雰囲気がある。遊女と客で心中した男女18人を供養する旭地蔵や子供合祀碑という飯盛り女(宿主は遊女を子供と呼んだ)が病気などで亡くなった者達への供養碑もある。また、寛政の改革を皮肉って自死に追い込まれた黄表紙本の先駆者、恋川春町(本名倉橋格、静岡小島藩年寄本役120石)の墓もある。成覚寺の東隣が正受院。こちらは咳止めに効くと大評判で、お礼の真綿を頭に乗せた脱衣婆や、第二次世界大戦中に供出された当院の釣鐘が、米国に渡り残されており、17年ぶりに返却され、平和の鐘と呼ばれている。隣の寺と違い明るい寺であった。
正受院を出て南へ5分ほど歩くと内藤新宿の名の元となる内藤家(3万3千石)の菩提寺太宗寺である。江戸初期、新宿御苑も含めてこの地に膨大な下屋敷を持っていた内藤家は、太宗寺に8千坪近くの土地を寄進、また甲州街道の一宿目が高井戸で遠いとのことで、新しい宿を1698年に造ることになりこれにも協力した。ところがこの新宿が宿としてではなく遊里として発展、享保の改革で風紀粛正の為一度廃宿となりながら復興し、吉原や品川をしのぐ花街となってしまった。今の新宿も似たような所があり、太宗寺の内藤家の墓石も50数基あったものが今は3基しかなく、本堂が白く洋風で教会に見え、本坊(住職の住むところ)がホテルの様なのも、新宿の生命力なのかなと感心してしまった。
更に南に歩き新宿御苑北側を四谷大木戸へ向かった。この道には横に玉川上水が再現されており小金井橋の流れがここまで来ていたのかと感心。大木戸跡と水道碑を見て一時解散となった。御苑見学、新宿歴史博物館、帰宅と3組に分かれて帰途についた。 (参加数61名)
国立劇場歌舞伎鑑賞会
紀行文
10月13日(金)国立劇場歌舞伎鑑賞会
秋晴れの清々しい天候に恵まれた国立劇場に43名(残念ながら当日1名欠席)が参集。
劇場は昭和41年以来57年間を経て建て替えとなる。最後の歌舞伎公演となる10月は「初代国立劇場さよなら特別公演」として、義太夫狂言の名作「妹背山婦女庭訓」が9月に引き続き、2か月連続で通し上演された。この演目の歌舞伎での通し上演は平成8年以来だ。
もとは明和8 (1771)年、大阪竹本座で人形浄瑠璃として初演。同年歌舞伎にも移されて上演を重ね、人気演目となった。
舞台では尾上菊五郎が体調不良で休演となったが、藤原鎌足の蘇我入鹿討伐の史実に様々な伝説を取り混ぜて、架空と実在の人物を、時蔵・芝翫・菊之助・歌六などの役者が熱演、大満足だ。幕間で御膳をいただき、イヤホンガイドの解説に至福のひと時を過ごした。
(参加者 43名)
群馬・桐生を訪問しました
紀行文
10月17日(火) 織都(しょくと)の栄華をしのぶ・群馬桐生を訪ねる 担当 (織壁、桜井、閑野、馬淵)
桐生が絹織物の生産地ということは聞いたけど来たのは初めて、と多くの参加者の感想。
小金井を7時半すぎバスで出発、関越・北関東自動車道をとおり10時半すぎ桐生着。群馬大理工学部で、織都桐生案内人の会のガイドさん7名が迎えてくれる。早速、同窓記念会館の前で集合写真。「大正5年、桐生高等染織学校の講堂として建てられ、玄関アーチの意匠などにイギリス・チェダー様式の影響が見られます」とガイドさん。国の登録文化財だ。桐生天満宮は桐生54ヶ村の総鎮守。「ご存じ湯島天神などとともに関東五大天神の一つです。家康公からこの土地を賜り、ここから南に桐生新町の街並みが整えられました」「社殿の見事な彫刻にご注目ください。地元の名工関口文治郎によるものです」 文治郎は榛名神社、三峰神社、聖天宮(国宝)も手がけた名工。当初の極彩色は失われているが精巧な彫刻に一同感激。絹織物の工場が立ち並んでいた地域は国の重要伝統的建造物群になっている。ノコギリ屋根が特徴の工場。京風の店構えの商店。火災を防ぐ漆喰の外壁。銅板の屋根に白磁のタイルの豪華な金融業の事務所。近江商人が開いたという矢野園は酒、みそ、しょうゆの醸造をおこなっていた。これらの往時を思い起こさせる風景・建物をガイドさんの解説で見てまわった。矢野園には桐生ならではのお土産があり、店内は史談会で満員。見学時間の二時間はあっという間に終了した。昼食は、地元の名物だというヒレカツご飯とひもかわうどん。
ちょっと量が多かったけど美味しかった。2時すぎに桐生を出発、関越道をとおり5時前に小金井着
参加者の感想。「桐生の街並みを見てかつて栄えていたことがわかった。天満宮の彫刻素晴らしい。ボランティアガイドさんの解説とてもよかった。明治、大正、昭和の近代化を支えた絹産業を改めて勉強した。どこもそうだけど人通りなくさびしい。
車窓から見た赤城、榛名、妙義の山がきれい」 (参加者 54名)
小金井公園でバーベキュー
説明文
9月12日(火)たてもの園見学と小金井公園で懇親バーベキュー 担当(垂水、太田義守、島田、白倉、渡辺)
史談会の江戸東京たてもの園の見学は14年ぶりだ。今回は、見学後に公園でバーベキューを組み合わせた企画。午前10時たてもの園前に集合。園でボランティアガイドをしている史談会の会員が用意した招待券を一部使って入場した。3グループに分れてボランティアをしている会員が説明をした。
参加者に聞いてみると意外にも「たてもの園には何回も来たけど、きちんと説明を聞いたことはない」という人がほとんどだった。限られた時間でみどころ3棟を中心に解説。前川國男邸は日本の近代建築をリードした前川の自邸で昭和17年に建てられたモダニズム建築の傑作だ。三井邸は昭和27年に建てられた明治期の流行を反映した和洋折衷の住宅。高橋是清邸は栂(つが)を材料とした総栂普請。2階は昭和11年の2・26事件の暗殺現場だ。ウィークデーで一般の見学者は少ないが、目立ったのは外国人観光客。「ウェアーカムフロム?」と聞くと「イスラエル」という。建築を勉強しているとのことだった。
下町エリアの子宝湯前で集合写真を撮り、バーベキュー会場へ移動。
史談会でバーベキュー会をするのは初めて。参加者がどのくらいか心配したが、申し込みは40人ほどの大所帯になった。木陰に会場をセット。グリルも3台。幹事があらかじめ火を起こして待機。参加者は、肉、ウィンナー、魚干物、キャベツ、とうもろこしなどを持ち込んだ。幹事がバーベキューに腕をふるう。緑の木陰で、ビールやジュース、ワイン、酒、ブランデーなどを手に、食べながら、話がはずんだ。
「楽しい会だった。大成功!」という声が聞こえた。暑い一日だったけれど、会員どうしの交流・懇親も楽しくできた今回の見学会だった 。(参加者52名)
-
前川邸
近代建築の発展に貢献した建築家前川國男の自邸として昭和17年に
建てられた住宅。外
観は切妻屋根で、
吹き抜けの居間を
中心にした シンプル
な間取りです。 -
三井家邸
西麻布に昭和27年に
建てられた三井家邸宅。
客間と食堂部分は、
明治30年頃京都に
建てられもので戦後に
移築されたものです。 -
高橋是清邸
戦前の日本の政治を
担った高橋是清の住まい。
総栂(つが)普請です。2階
は書斎や寝室として使われ、
昭和11年の2・26事件の
現場になりました。 -
大和屋
植村邸は建物の前面
を銅板で覆う看板建築
です。太和屋は白金台
に昭和3年に建てられた
木造3階建てで、戦前
の乾物屋の様子を
再現しています。 -
子宝湯
東京の銭湯を代表
する建物です。神社
仏閣を思わせる大型
の唐破風(はふ)や、
玄関上の七福神の彫
刻、折上格天井など
ぜいをつくした造りとなって
います。 -
バーベキュー
史談会でバーベキューは初めて。40人ほどの大所帯になった。参加者は肉、
干物、野菜などを持ち
込み、ビールやジュース
などを手に、食べながら、
話がはずむ。
宝登山、長瀞、嵐山博物館を廻りました
紀行文
9月22日(火)埼玉・宝登山、長瀞、嵐山博物館を訪ねる 担当(垂水、織壁、佐藤、坂倉)
恒例の集合場所、三浦屋前の広場ではタワマンが作り出す日陰のおかげで涼しい風が頬を撫でる。7時半、これまた冷房のよく効いた大型バスは総勢47人を乗せ、長瀞町に向けスタート。
9時50分、「宝登山神社」に到着。幹事の坂倉さんの強い「コネ」により登場した禰宜さんから丁寧に神社の縁起を聴いた。権現造りの本殿(社殿)の左右にある欄間に施された、8話の親孝行話が描かれた彫刻の見事さにうなずく。
バスに戻り、「宝登山ロープウェイ」乗り場に。標高453.0㍍の山頂駅へ5分で到着した。山頂はとにかく涼しい。ほとんどの参加者は徒歩で「宝登山神社奥宮」へ進む。山麓駅より少し薄暗く、霊験あらたかな気がする。神社の「奥宮」は山頂駅から徒歩6分の距離で、参加者の健脚ぶりを発揮してお参りした。ロープウェイで下り、バスで昼食会場に着く。さっそく、「長瀞の岩畳」で集合記念撮影。帰りはお土産を買う参加者もいた。
今回の参加費(会員)は6800円。これは全国旅行支援の1000円を引いた金額。さらに2000円のクーポン券もついた。合計3000円の大判振る舞いに参加者から歓声が聞こえたような気がした。
釜めし、ざるうどん、天ぷらなどの盛りだくさんの料理が並んだ昼食。その後にお土産を買い込んで、名勝の「長瀞の岩畳」を散策した参加者も。宝登山神社や長瀞では渋沢栄一の足跡(功績)を目の当たりにした。郷土の埼玉県が生んだ名士である。
長瀞を後にしたのは13時50分ごろ。「嵐山史跡の博物館」のある嵐山町を目指す。長瀞町から嵐山町まで所要時間は約1時間。同じ埼玉県内だが、距離はある。この博物館は鎌倉時代の武蔵武士・畠山重忠が居住していたといわれる国指定史跡・菅谷館跡のなかにある。
冷房のよく効いた博物館本館を出て重忠像を目指して城郭跡を歩く。高さ10㎝位の草を踏みながらあるくと、久しぶりの「草いきれ」が。小金井の市街地ではそうは味わえない。ふと、松尾芭蕉の句「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」を思い出した。ここは奥州藤原氏とは何の関係もないが、城跡であることは間違いない。小金井に17時半帰着。(終)
甲州古道・府中大國魂神社・高安寺を訪れました
紀行文
7月11日(火)
甲州古道とディープな大國魂神社・府中宿・高安寺城跡を訪ねる
担当(閑野、森、坂倉、福崎、太田義)
前日は気温37度以上の猛暑となり、当日も同じような暑さが予想された。予報通り朝から蒸し暑く、酷暑となるのは確実の状況で、果たして何人の参加があるのか・・・。ある意味、興味津々だったが、結果は46名の男女が参集した。この方々はまさに史談会の岩盤会員なのだと思った。今度は熱中症の心配をしなければならなかった。
三浦屋前広場で受け付けを終えた方から、随時 バスで府中駅に向かった。数人の方は直接府中駅で受付。全員でケヤキ並木を通って大國魂神社へと歩き出した。
途中、源義家の像の近くで、並木の由来などについて簡単な説明を行なった。早くもみなさんバテ気味で、列は乱れがちである。いよいよ、大國魂神社の大鳥居をくぐり、参道に入る。まず参道中程左手にある、宮之咩(みやのめ)神社に参拝し、由来など簡単な説明を行う。安産の神様で、安産のお礼に奉納された底の抜けた柄杓がたくさん並べてあったのが印象的であった。次に、ご存じ川崎平右衛門が、享保年間に寄進したという随神門へ向かう。この門には「象」が飾られている。平右衛門が「象洞(ぞうほら)」という、象の糞で作った疱瘡の薬の販売で儲けたお金で寄進したことに由来するという。門をくぐったところで、六所宮(大國魂神社)の七不思議の説明を行なった。その後、拝殿で参拝し、本殿の周りを巡って行った。ご神木の大銀杏や、小造りで質素だが厳かな東照宮などが見られた。
一巡り終えると、暑さはいよいよひどくなってきた。水分補給は大丈夫か? 気分の悪い人はいないか? 幹事の心配はつのるばかり。結局、ここらで解散した方がいいということで、武蔵国府國衙跡の見学は中止とし、随神門を背に集合写真を撮って、解散式を行った。
残る行程の高安寺までは元気のある方だけ向かうことにした。しかし結局、岩盤会員のみなさんは、ほとんどの人が高安寺を目指して歩き出した。すさまじい根性だ。途中、くらやみ祭御旅所・問屋場跡・国鉄下河原線跡を通り、11時40分ころ最終目的地の高安寺に着いた。11時45分に鐘が鳴るということで、まだ少し時間があると思っていたら、入り口付近で鐘の音が聞こえた。タイマーが狂っていたのか、ここの鐘は全自動で3回しか鳴らないので、撞木の打つ様子は見ることはできなかった。最後に、寺の裏手にある「弁慶硯の井」を見学した後、ぼけ防止の地蔵様に一礼をして、三々五々家路についた。
幹事一同、熱中症や事故もなく、何とか無事に終えられたことに安堵した。ある意味、いい経験だったが、7月の歩きはかなり危険レベルだと痛感した。 (参加者46名)
写真展・講演会を開催しました
報告
7月1日から小金井宮地楽器ホールマルチパーパススペースで行われていた小金井史談会歴史見学写真展の最終日の4日、小ホールで10時から公開講演会を開催しました。
明治大学文学部教授・平和教育登戸研究所資料館館長の山田朗先生を講師に迎え、演題「秘密戦:本土決戦・登戸研究所・中野学校」を90分フルに語っていただきました。
定員を100名としましたが、新型コロナウイルス感染症の感染症法上の位置付けが5類感染症になったので申込者全員受け入れることにし、116名となりました。
日本軍の本土決戦準備の実態、そして登戸研究所・中野学校によって計画された秘密戦
本土決戦を想定しての秘密戦はどれほど準備されたのか、を主に講演が進められました。
〈秘密戦〉とは何か。それは戦争には必ず付随するが、歴史に記録されない(裏側の戦争)。戦時に限らず、平時においても密かにおこなわれている(水面下の戦争)。秘密戦の4要素〔防諜・諜報・謀略・宣伝(戦時プロパガンダ)〕。
米軍の爆撃は意図的に旧陸軍登戸研究所・旧陸軍中野学校を目標から外すなど、戦後に向けて設備・人材確保を目的としていたなども語られた。
最後に、本土決戦・秘密戦の記憶を残す重要性、決して幻ではなかった本土決戦、明治大学中野・生田キャンパスで戦争を語り継ぐ意義、を熱く語っていただきました。
この講演会を通して、ウクライナ情勢、台湾有事、北朝鮮など日本を取り巻く環境及び平和を考える一助になれば幸いです。
八戸などの2泊旅行を実施しました
紀行文
6月18日(日)~20日(火) 歴史と湊町の八戸と新緑の十和田・奥入瀬を訪ねる
担当 (織壁、馬淵、垂水、金澤)
【1日目】 東京駅発9時すぎのはやぶさ11号で約3時間、八戸駅12時着。駅で三八五交通の運転手・林さんがお迎え。八戸は梅雨の晴間の快晴だ。
南部の総鎮守として信仰を集めてきた櫛引八幡宮に向かう。本殿は江戸初期の再建で重文。彫刻が素晴らしい。目玉は国宝館の国宝の鎧、「赤糸威鎧」と「白糸威褄取鎧」の二つだ。南北朝時代に南朝の天皇から拝領したもの。高度な技術で作られており、保存状態も非常に良い。
八戸市博物館は考古、歴史、民俗資料の展示室で構成、八戸市の歴史が体系的に理解できる。学芸員さんの説明を聞く。
是川縄文館は縄文の展示品が充実している。「合掌土偶」は別格で国宝展示室に展示されていた。手を組む土偶はめずらしい。
夕食はホテルの料理屋で八戸の海鮮料理。食後、八戸の横丁を散策した。
【2日目】この日も快晴。蕪島神社に向かう。ウミネコの繁殖地で有名だ。鳥の多さと鳴き声の大きさにびっくり。ふ化したばかりのたくさんの雛も大騒ぎ。神社には糞よけの傘が用意されていた。ふんに直撃され、神社から「会運証明」のお札をもらった人も。種差海岸はリアス海岸、多様な地形が続く。ニッコウキスゲなどの美しい花が咲いて、きれいだ。
奥入瀬渓流に向かう途中の十和田市で馬肉料理店にて「馬肉バラ焼定食」の昼食。馬肉と大量の玉ねぎを甘いタレで炒めた鉄板料理。
昼食後、奥入瀬渓流を十和田湖へと向かう。途中でバスを降りて遊歩道を約20分散策、バスに乗っていては感じられない渓流の力強い音、そしてマイナスイオンを感じた。
十和田湖では、休屋から子ノ口まで十和田湖を遊覧。遊覧船からしか見えない200mを超す絶壁などが眺められ火口湖であることがわかる。我々以外に船客がおらず、結果的に貸切状態だ。最近観光客が減っているとのことであったが、やや寂しい。湖上遊覧後、ホテル十和田荘に荷物を預け、乙女の像と十和田神社を見学した。ホテルでは温泉を満喫した。
【3日目】快晴。朝一番に十和田湖随一の展望台といわれる標高631mの発荷峠に向かう。雲ひとつない眺望に一同感激。記念写真のあと奥入瀬渓流を八戸へ向かう。途中、渓流沿いの遊歩道を20分ほど散策。八戸駅で荷物を預け「八食センター」へ、ここで昼食。魚介類をはじめとした八戸の新鮮な名物が勢ぞろい。寿司屋など飲食店や、魚介類を購入し七輪で焼いて食べる七厘村がある。各々昼食をとった。八戸駅から午後3時すぎの「はやぶさ32号」にて東京駅へ(18時着)。(参加者
24名)
-
八幡神社拝殿
櫛引八幡宮の拝殿。
南部の一宮。国宝の
鎧がある。入母屋造、
銅板葺 -
1日目の集合写真
八戸市立博物館・
南部師行像の前
にて集合写真。 -
是川縄文館
是川縄文館は
縄文の発掘物を
展示。遺跡は世界に
遺産に指定された -
合掌土偶
国宝「合掌土偶」は
祈りの形とも、お産を
あらわしているとも
言われる -
ウミネコ
蕪島神社拝殿裏
のウミネコ。多くの
雛が育っている。
2,3万羽がいる -
開運照明書
ウミネコのフンは運
が良い。フンが当
たると、神社から
会運証明書が
もらえる -
2日目集合写真
八戸にある陸続き
の小さな島はウミネコ
の?殖地 蕪島神社
前にて集合写真、 -
国立公園・種差
ニッコウキスゲが咲く
国立公園・種差
海岸 -
奥入瀬渓流観光
奥入瀬渓流は十和田
八幡平国立公園を
代表する景勝地。
新緑が美しい -
十和田湖遊覧船
十和田湖の遊覧船。
紺碧の湖面をゆったり
と周囲の山々や湖上
から眺める -
十和田湖乙女の像
十和田湖畔に建つ
高村光太郎作の
乙女の像のシルエット -
3回目の集合写真
湖にのぞむ発荷峠
展望台。湖面と空
の青さが広がる。
絶景スポットで
集合写真
松戸のあじさい寺と戸定邸を訪ねました
紀行文
6月13日(火) 松戸のあじさいの寺と定邸(とじょうてい)を訪ねる 担当 (垂水、馬淵、太田(義)、岡田)
前日までは台風の影響を受けて天候が危ぶまれたが、当日は少し暑いくらいの好天となり見学会日和となった。武蔵小金井駅下り7時57分発に乗車し、西国分寺駅で武蔵野線に乗り換え、新松戸駅で常磐線各停に乗り換え、北小金駅で下車した(9時19分着)。この駅は改札を出たところのスペースが狭いので、駅のホームにて最終受付と点呼を行った。
最初の見学先である本土寺へ向かった。ほどなく杉木立の風情ある参道が続き、途中2軒の土産物屋があったが寺の帰りに寄ることにして、一路本土寺へ。本土寺は1277年に建立された日蓮宗の寺であり、境内も広く立派である。紫陽花と菖蒲の広大な庭園が有名で、6月のこの時期の拝観は有料となっている。本土寺の「本土」とは、法華経に説かれる「我此土(わがこのど)」つまり、本当の仏であるお迦様がお住まいになる国土、に由来するといわれる。
仁王門をくぐり、左手に五重塔を見上げ、本堂、歴代住職の廟などを巡ると周囲には紫陽花が咲き乱れており、坂を下ると現れたのが広大な菖蒲池庭園。庭園は菖蒲の花で埋め尽くされており、多くの見学者が感激していた。紫陽花と菖蒲を十二分に鑑賞し、寺からの帰り道土産物屋に立ち寄ったが、多くの方が楽しそうに買い物をされた。
北小金駅に戻り、常磐線で松戸駅に移動し下車。松戸市は人口約50万人で、松戸駅はその中心であり大きな駅である。駅前で各自昼食をとってから再び集合し、次の見学先である戸定邸に向かった。
戸定邸は、徳川慶喜の弟で、最後の水戸藩主であった徳川昭武が明治になって建設(1884年)した別邸であり、隠居後はここで過ごした。「戸定」は地名であり、戸定邸は江戸川をのぞむ高台に位置している。表座敷の南側は庭園になっており、西側は眺望が開けており当時は富士山が良く見えたとのことである。戸定邸は、明治前期における上流階級住宅として歴史的価値が高く、重要文化財に指定されている。23室もある広い邸内を4組に分かれて見学し、ボランティアガイドの方から丁寧に説明していただいた。邸内見学後は、邸の南に広がる東屋庭園に移動し集合写真を撮った。戸定邸を出たあとは松戸駅に戻り、ここで解散とした。 (参加者
51名)
相模国分寺を廻りました
紀行文
5月9日(火) 相模国分寺跡周辺を巡る 担当 (馬淵、森、中島、太田(義))
当日はコロナ対策が5類に移行し、新緑の時期の好天に恵まれ多くの参加者を得た。武蔵小金井駅下り8時03分発に乗車し、立川駅で南武線、登戸駅で小田急線に乗り換え、海老名駅で下車した。ここで、最終受付とトイレ・点呼を行いまず相模国分尼寺へ向かった。途中で、相鉄線と小田急線を跨ぐ跨線橋からJR相模鉄道の駅を含む海老名駅を眺めた。
相模国分尼寺跡は相模国分寺跡の北方約500mにあり、中門・金堂・講堂が一直線に並ぶ伽藍配置となっている。金堂跡には礎石も残っているが、江戸時代に作られた庚申塔が堂の中に保存されている。相模国分尼寺跡は、残念ながら当時の伽藍地の一部が住宅地などに開発されており、講堂跡そばには小田急線が走っている。
その後、南へ移動し相模国分寺跡を訪れた。ここは特徴が2つあり、伽藍配置が法隆寺と同じ形式である、国分寺は通常国府の近くに建設されたが相模国分寺は国府(平塚市と推定)と離れた場所にあった、などの説明を行った。国分寺跡と道路を挟んで隣にある海老名市立郷土博物館「温故館」ではスタッフから丁寧な説明を受け、創建当時の国分寺の伽藍模型などを見学した。広い相模国分寺跡を見学後、中門跡に移動し、ここの南側の敷地に14階建てマンションの建設計画がある、という残念な情報を伝えた。
次に、創建時の法灯を現在に伝える真言宗・相模国分寺を訪ねた。入口の「海老名の大欅」を見学。神奈川県指定天然記念物で、推定樹齢約580年、根回りは15.3mの巨木である。根元は枯れ気味であるが、新緑の芽が元気よく生えている。相模国分寺の重要文化財の梵鐘を見学。
ここで一次解散し、希望者約40名は、最後の見学先である瓢箪塚(ひさごつか)古墳へ移動した。この古墳は相模川を見下ろす座間丘陵上に形成された上浜田古墳群唯一の前方後円墳で墳丘長は約80m、4~5世紀の築造とされている。古墳の敷地内は公園になっており自由に墳丘に登ることができ、前方後円墳の形状を実感した。見学後、海老名駅近くに移動し解散した。 (参加者57名)
妙義神社と富岡製糸場を訪ねました
紀行文
4月11日(火) 桜の妙義神社、世界遺産の富岡製糸場を訪ねる 担当(塚田、織壁、島田、間島)
4月11日の桜の開花状況をネットで調べると妙義は「青葉!」となっていた。桜終わっている、残念! 参加者に妙義見学について説明する時は、桜から「新緑が美しい!」にかえた。
バスの萩観光より1週間前に、「全国旅行支援の対象です! 」 と連絡がきた。参加費も下げられるし、全員に地域クーポン2,000円も配れることになった。クーポンを受け取るにはワクチン接種3回以上の証明書の提示が必要。急きょ参加者に証明書を持ってくるよう連絡した。確認のため、添乗員が同行することとなった。添乗員は戸田さん。バスで「みなさん、ワクチン証明書ありますか? 見せてください、ハイありますね」と確認。QRコードが印刷されたクーポンを配布。苦労しながらスマホにダウンロードするが、半分以上の人があきらめ、一部の店で利用可能な紙クーポンを持って買物することとなった。
話題は桜ではなく「旅行支援・クーポン券」となった。よかった!
10時過ぎに妙義神社に到着した。新緑が美しい! 神社は鮮やかな朱色の総門、見事に装飾された唐門の奥には、黒漆塗り、権現造りの豪華絢爛な本社がある。予想通りの急階段の連続で、本社前は165段もある。重要文化財の本社めざして7~8割のひとが挑戦、登り切ってお参りした。戻りは、少し急でない女坂で下りた。やっぱりポール(ストック)を持って来るべきだった。(私は玄関においていたのに忘れた) 階段、坂を下りて、神社前の道の駅でクーポンを持って買い物をした。店は史談会会員で大混雑だった。
高速道路で富岡に向かい、12時過ぎに駐車場に到着。すぐ近くの和食「源氏」で名物刺身こんにゃくも入った松花堂弁当の昼食。一同満足。1時から富岡製糸場の見学。入口近くで写真をとって、ボランティアガイドさんの解説で場内を回った。
富岡製糸場は明治5年(1872年)に政府が日本の近代化のために設立した模範器械製糸場。維新後、富国強兵の財源のため力を入れたのが、生糸の輸出。生糸の品質改善と生産性向上、技術指導者を育成するため、お雇い外人をフランスから呼び、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場をつくった。
ボランティアさんは「工場は窓があり明るいです。工女は一日8時間、日曜は休みです。福利はしっかりしていました。何よりもこの製糸場は日本の近代化を支えたのです」と熱く語った。1時間ほどの見学を終え帰途につき、小金井に5時ごろに帰着した。
参加者の感想「階段急だったが上った。膝が悪いのに無理した。一人で来られるところではない、よかった。信越線でみた妙義がなつかしい。世界遺産になった富岡はきれいになった。ガイド付きの富岡は良かった。子どもの頃に見た鴨下製糸を思い出した。農工大の繊維博物館も見ると良い。32歳、教師志望で勉強中、神仏習合が勉強でき、製糸場は生徒たちに教えたい。95歳、参加でき良かった。久しぶりのバス見学、良かった。参加費が安くなり、2,000円クーポンよかった。ブラボー!でした。など」
(参加者52名)
町田を訪問しました
紀行文
3月16日(木) 町田を歩いて・見よう 担当(塚田、佐藤、島田、板倉)
3月に入り季節外れの気温上昇で、14日には東京都が国内一番の桜開花宣言が出た。当日は雲一つ無い青空で気温21°Cも今迄に慣れない気温で熱く感ずる程。3年間に渡ったコロナ感染予防のマスクの装着が13日より「個人の判断」による規制解除で気分的にも晴れ晴れとして気持ちの良い見学会となった(実際には終始全員マスクを装着していた)。
町田へは武蔵小金井駅8時31分発の下りに乗車、八王子駅で横浜線に乗換、町田駅到着9時30分。中央改札口を出て人数確認49名。最初の見学先会場の人数制限で二手に分かれ、A班は泰巌美術博物館へ。4年前に開館した織田信長関連資料、安土城5、6層天守閣の実寸大建屋、天下布武捺印資料、信長の映像シアター等々(入場料1,500円)。B班は町田市民文学館へ。町田市ゆかりの著者、特別展示中の森田MiW(いとしきモノ展)(入場無料)を訪ねた。
A, B班は共に午前予定した2件の見学が終了し再びここ中央改札口広場に集まり、各自昼食解散、1時半まで自由行動とした。2時に今度は小田急線で鶴川駅に向かう。駅からは見学先の武相荘を目指して徒歩組(15分ほど)とバス組に分かれて移動。全員到着し揃って46名入館した。戦後GHQとの交渉で吉田茂の顧問として活躍した白洲次郎、正子夫婦の住んでいた建物とその備品等(入場料1,100円)を見学。茅葺屋根の建物前で集合写真を撮影し、今回の見学会の予定を終了し3時に現地解散した。
この先は自由参加の西山美術館見学者と帰宅する者と二手に分かれた。見学希望者はバスで4時頃に綾部に到着し、27名で館内展示品の説明案内を受けた。展示品はロダンの制作した彫刻、画家ユトリロの代表作品の数々、世界中から集めた多くの銘石・パワーストン等(入場料800円)。さらに時間に余裕があればそこから徒歩10分程の町田市自由民権資料館(入場無料)を訪ねる予定であったが、閉館4時半を過ぎていたので中止し鶴川駅にバスで戻った。5時半鶴川駅から登戸駅、南武線で立川駅、中央線に乗り換え、武蔵小金井駅に7時頃戻った。 (参加者
49名)
浦安を巡りました
紀行文
2月14日(火)「青べか物語」の舞台・浦安を訪ねる 担当(織壁、閑野、中島、白倉)
「西の根戸川と東の海を通じる掘割が、この町を貫流していた。蒸気河岸とこの堀に沿って、釣舟屋が並び、洋食屋、ごったくや、地方銀行の出張所、三等郵便局、巡査駐在所、消防署―そして町役場などがあり、……」、と「青べか物語」で書かれた元漁師町・浦安を訪ねた。根戸川は江戸川、掘割は境川。
2月はまだまだ寒い。東西線の浦安駅で下車、交番の横で人数確認。59名の大人数だ。二つの班に分け出発、メトロセンター飲食街を抜けて西へ歩く。旧江戸川につきあたり、堤防上を下流の方に歩く。渡し場跡の看板、ここは明治から昭和15年まで昭和15年浦安橋が開通するまで、東京へ行くための渡し船の待合所があったところだ。さらに旧江戸川から分かれ東へと流れ東京湾にいたる境川を東へ歩く。分岐点に西水門がある。洪水調整用だ。桜の名所でもある。川の両岸はかつての漁師町だ。清瀧神社には「リンド水準標石」がある。オランダ技師リンドが明治5年に設置し、江戸川の水位の基準としたものだ。さらに行くとフラワー通り。昭和40年代まで漁師町のメイン商店街として賑わったところ。旧商家の宇田川家、江戸末期に建てられた大塚家、洋風建築の濱野醫院が保存されている。かつての賑わいはなく落ち着いた街並み。浅田煎餅本舗は明治21年創業のせんべいの店だ。生地を天日干ししている昔ながらの味。堅くて、歯が丈夫でないと食べられないらしい。でも参加者の半分が買ったようだ。豊受神社は1157年創建といわれ、地域住民の信仰を集める。境内には樹齢四百年の大イチョウがある。境川をさらに行くと10階建ての立派な市役所が見えてくる。ディズニーランドのある浦安は安定した税収により財政力は全国でも常にトップレベルだ。立派なのもうなずける。敷地の一角に郷土博物館がある。敷地内に実際の建物が移築されて、漁師町として活気あふれていた昭和
27 年ごろの町と生活の様子を再現している。県指定の有形文化財「三軒長屋」は当時の典型的な庶民の長屋だ。実際の「ベか舟」なども見られる。ここで記念写真を撮り、解散。それぞれ市役所10階の食堂などで昼食をとった。
(参加者59名)
歌舞伎を観劇しました。
観劇
国立劇場歌舞伎鑑賞会(1月20日)の開催報告 担当(嵯峨山、織壁、塚田、垂水、金澤)
穏やかな冬日が射す国立劇場で、小金井史談会初の初春歌舞伎鑑賞会を開催しました。参加者は57名(内11名が非会員)と見学会に比して遜色ない人数でした。 演題は、通し狂言「遠山桜天保日記」―歌舞伎の恩人・遠山の金さん― 尾上菊五郎、尾上松緑、尾上菊之助、中村時蔵など音羽屋一座の公演でした。
開催の発端は、令和3年11月 宮地楽器ホール大ホールで開催した講演会後の懇親会で、講師の大石学 東京学芸大学名誉教授が国立劇場などを傘下に置く独立行政法人日本芸術文化振興会の監事をされておられるとの一言でした。大石先生に公演内容の時代背景などを解説いただきその後、観劇するも一興かと盛り上がりました。初代国立劇場が今年10月までの興業で幕を閉じ、建て替えされるとの報を聞き、「国立劇場初芝居の見納めは桜吹雪の名裁き」と今回の企画を立ち上げました。ただ参加者数の壁に当たるも一応30席を確保。募集するや60名近くの応募があり、急遽、追加座席を確保し、入場料(1等席)、幕間での御膳(食事処
十八番)、イヤホンガイド含め団体扱いの割引率を引き出し、当日、参加費の返金という形で喜んでいただきました。キャンセル待ちが5名おられたのですが、残念ながら期待に応えられませんでした。
主だった出演者による手ぬぐいまきが舞台の最後を飾りました。観劇前の大石学先生による解説はなかったものの充実した1日を過ごしました。
新年亀戸七福神巡りを行いました。
紀行文
1月10日(火)亀戸天神、亀戸七福神を巡る 担当(太田(祐)、小林、金澤、佐藤)
秒速5mという天気予報の通り、集合場所の三浦屋前広場は風が強かった。寒さも一入だったが、参加者は引きも切らず40名以上に達した。コロナ禍にもめげず、盛況だ。9時49分に亀戸着。途中駅からの乗車者を迎え、55名に膨れ上がった。昨年後半以降で3番目の多さだ。下町の商店街や住宅地を抜けていく、見学会特有の長い列が始まる。最初は駅から10分ほどの亀戸天神社。菅原道真の末裔が江戸の本所亀戸村に道真の像を小祠に祀ったのが始まり。初詣の参拝客が散見された。梅や藤の名所と知られている。
横十間川に沿って5分程度歩くと龍眼寺(布袋尊)に着く。天台宗の寺で、眼病平癒の観世音として信仰を集め、龍眼寺と改名した。境内は見事なまでに掃き清められていた。更に、細い路地を行くと天祖神社(福禄寿)に出る。創建は推古天皇の(600年)頃で、現社殿は昭和4年に日本では初めての鉄筋コンクリート造りで再建された。
天祖神社から香取神社に向かう途中の北中間川沿いの道端に「梅屋敷跡」がある。これは江戸時代の豪商の別荘「清香庵」の跡地。最盛期には300株の梅の木が花と香りを競っていたとか。北川広重の「名所江戸百景」で取り上げられたが、現在は看板があるだけ。
なお、狭い路地を進む。普門院(毘沙門天)は真言宗智山派。境内にある伊藤左千夫の墓にお参りする参加者もいた。引き続き、路地を辿る。香取神社(恵比寿神、大國神)は立派な参道や鳥居、社が目立つ。源頼朝や徳川家康などの武将や武道家に篤い崇敬を集め、近年ではアスリートの参拝者も急増しているという。
路地から大通りを横切り、東覚寺(弁財天)に。弁財天の祀られているのは小さな祠。格子で仕切られた扉から有難いお姿を拝見しようとする、熱心な参加者が列をなした。香取小学校や香取公園を横に見ながら進んで、最終目的地の常光寺(寿老人)に到着。本堂左手の小さな堂内、格子戸の中の寿老人を拝もうとする参加者が目立った。
ここで見学会は終了。時刻は12時少し前。見学中はあまり気にならなかった風が出てきた。参加者は思い思いに亀戸駅を目指して散会していった。 (参加者55名)
国会議事堂・放送博物館などを巡りました
紀行文
12月13日(火)「国会議事堂、放送博物館を訪ねる」 担当(織壁、垂水、岡田、清水、閑野)
当日は集合時間朝まで降った雨も集合時間の9時30分までには上がり、武蔵小金井から荻窪乗り換えで国会議事堂前へ向かった。国会関係の見学は史談会会員である清水学市議会議員経由で、長島衆議院議員事務所の協力により段取りよく行えた。国会議事堂見学の時間的都合で、11時より早めの昼食を衆議院会館食堂で行い、国会名物のカレーを全員で食べた。自民党を中心に、会議ではこのカレーを食べながらの打ち合わせが恒例となっている。
昼食後希望者は売店でのお土産購入を済ませ、国会議事堂見学へ向かった。国会議事堂見学は、昔の馬車にあわせた高さの通路と馬の水飲み場、また冷房が無い時代、その水を利用した冷風を議事堂の冷房に使った話、有名な天皇陛下の御休所L字型のテーブルなどを見学した。サプライズで長島衆議院議員自ら、議事堂内の案内をして戴いた。さらに正門前では偶然台湾から帰国したばかりの萩生田政調会長にもお目にかかる事ができた。市議会議員で今回担当の清水学担当は萩生田事務所に在籍していたこともあるとの事で、政調会長から「清水をよろしく」との一声も戴いた。最後には長島衆議院議員を囲んで議事堂をバックに集合写真撮影を行った。
その後、電車で一駅移動し愛宕神社、NHK放送会館へ。愛宕神社は講談で有名な曲垣平九郎の出世の階段を見学。横の坂から登ったが、一部の参加者は出世の階段を上って愛宕神社へ。参拝後神社横のNHK放送博物館を見学。放送博物館はラジオの本放送が最初に行われた場所で放送の古里とNHKは呼んでいる。特にスタジオ体験コーナーは人気で、天気予報キャスターの雰囲気を味わった。博物館を各自見学後14時30分解散。
相模国一宮寒川神社を巡りました。
紀行文
11月16日(水) 寒川神社(相模国一之宮)と梶原景時の遺跡周辺を巡る
担当 (塚田、島田、太田(義))
前日は小寒い雨降りだったが、当日は打って変わり朝方少し北風吹くも日中は雲一つ無い秋の青空で気持ちの良い見学会となった。コロナ第8波の兆候が噂される中、参加者人数の予想が立たず武蔵小金井駅8時15分発の下りに乗車、八王子駅で横浜線に乗換、橋本駅で相模線に再び乗換、ようよう寒川駅に到着(この2回の乗換も含めて移動時間110分)。ここで点呼し参加人数36名を確認した。前日の雨天・コロナ不安・事前にアナウンスした昼食処の少ない点等々が影響したかと思われる。
前半は梶原景時に関連する箇所、後半は相模國一之宮寒川神社に絞り順次見て回った。梶原景時は今ドラマで『鎌倉殿の13人』を放映中なので関心が高く、最初に館跡鬼門の守り神一之宮八幡大神、そのあと南部公民館で寒川町観光協会案内の参考資料パンフレットを配布した。すぐ傍にある梶原伝七士の墓を見学。墓の目の前は分譲地の区画整理中であまりにも不釣り合い違和感があった。隣の梶原景時館跡で説明。ここは小さな公園でチッポケな社があり、長い歴史上、不忠の人として扱われた景時を物語る侘しさがある(近年見直され、不忠の人でなく生真面目な人と評価されている)。次に、一之宮小学校々舎内に併設されている寒川文化財学習センターでは、寒川町の縄文中期以降の土器、石器、古民家で使用していた農機具展示を見学した。寒川町は、縄文時代現在より海岸線が内陸に大きく入り込んで海、山、川からの食糧確保に恵まれたので大きな集落跡が存在した。
後半の寒川神社には一、二、三之鳥居を過ぎて12時頃到着し、華やかな七五三参りの家族で賑わってあちらこちらで家族写真を撮影中にて、我々36名の集合写真場所も無い程だった。寒川神社は1600年の歴史で、関東唯一の八方除け全ての悩み事を除いてくれるご利益がある。また太陽が通過するパワーポイントで有名、その天体観測渾天儀(こんてんぎ)を見学した。特別に本殿でお祓いご供養すれば奥の神苑が見学できたが今回は時間、経費の点で個人自由行動とした。1時近く現地で滞在し解散。希望者は食事処で昼食をとり、宮山駅から乗車して橋本駅、八王子駅で乗換えしながら午後4時頃小金井に戻った。 (参加者
36名)
中世の講座を行いました
講座報告
10月27日(木) 公開講座「平代坂遺跡と小金井の中世」 担当 (織壁、塚田、嵯峨山、中島)
市教育委員会生涯学習課の高木翼郎さんを講師に行いました。地味なテーマですが、NHK大河ドラマで中世に関心が高まっているためか、予想以上の参加者でした。
わが小金井には中世の痕跡は少ないものの、いくつかの遺跡が確認され、集落跡の柱穴や溝などと、地下式坑、蔵骨器、板碑が見つかっています。金井原古戦場、応永年間の薬師如来立像、市内に60余基ある板碑、国内、中国の陶器類や蔵骨器が発見された遺跡、修験道光明院跡、首塚・胴塚の伝承など中世の足跡について話されました。
今年、発掘された前原三丁目の平代坂遺跡では、室町時代の井戸や地下式坑、境堀が発見され、14世紀~15世紀の陶器・青磁の器、中国銭が出土しました。中でも複数の板碑(板石の塔婆)が重なって出土した「板碑廃棄土坑」は市内では初めてです。地下式坑について高木さんは「倉庫や墓などが考えられるが、宗教的な修行の瞑想の場ではないかと想像するのも面白い」と話されました。付近には修験の施設あったかもしれません。小金井の中世も興味が尽きません。(参加者
50名)
六義園などを巡りました
紀行文
10月11日(火) 六義園・旧古河庭園・旧渋沢庭園を訪ねる 担当 (馬淵、森、嵯峨山、白倉)
コロナ禍が小康状態で、秋の好天に恵まれ、65名と非常に多くの参加者を得た。武蔵小金井駅8時35分発の始発に乗り、新宿駅で山手線に乗り換え、駒込駅で下車。改札口を出た所で点呼を行い、最初の見学先である六義園に向かった。
六義園は、将軍側用人の柳沢吉保が将軍綱吉からこの地を拝領し、7年の歳月をかけて本格的な「回遊式築山泉水庭園」を造り上げたものである。吉保は和歌にも造詣が深く、紀州の景勝や和歌に詠まれた名勝などをこの庭園に映し出しているとのことであるが、知識に乏しい我々にはその理解は少し難しい。築山である標高35mの藤代峠に上り、六義園で最も眺望の良い所から園内の景色を楽しんだ。風情のある渡月橋を渡り、池の大泉水を一周し、出汐湊(でしおのみなと)で集合写真を撮った。
次に、駒込駅を通って北へ移動し、旧古河庭園を見学した。この庭園は、古河財閥三代目の古河虎之介が造らせた庭園で、傾斜地をうまく利用している。有名な洋館は、明治の英国人建築家のジョサイア・コンドルの設計である。ここでは、集合時間を決めて各自で自由散策を楽しんだ。バラ園では、秋のバラの花はまだ3割程度であったが、大いに楽しめた。傾斜面を下りたところにある日本庭園では、枯山水の枯滝や立派な雪見灯篭が存在感を示していた。旧古河庭園で見学を終了する参加者もいるので、庭園内で終了式を行った。
旧古河庭園を出たすぐの所で、途中で見学を終了する方に京浜東北線上中里駅への道を案内。見学を続ける方々は飛鳥山公園に向けて移動。その途中、西ケ原一里塚を見学。西ヶ原一里塚は日光御成道の二里目の一里塚で、江戸時代に設置された一里塚の姿を今にとどめており貴重である。保存には渋沢栄一も大いに協力したようである。旧渋沢庭園では、渋沢栄一が喜寿と傘寿の祝いに贈られた洋風茶室・晩香蘆、書庫・青淵文庫を見学。青淵文庫の外壁装飾タイルと窓のステンドグラスが美しかった。その後、飛鳥山公園を通り抜け、王子駅で解散した。 (参加者65名)
世田谷を巡りました
紀行文
9月12日(火) 世田谷大井町線 九品仏浄真寺・等々力・上野毛を巡る 担当 (塚田、森、佐藤(環))
世田谷区は23区1番の人口(90万人)、2番の面積(58km2、(小金井市は11.3km2))で、小金井から東南にある有名住宅地である。小金井からの直線距離はあまりないのだが、電車では「渋谷」経由か「立川」経由しかないので、空いていそうな南武線経由を選択し8時25分出発。途中2度乗り換えがあったので多少(かなり)混乱もあったが、全員10時前には九品仏駅に降り立ち最初の見学地、浄真寺に向かった。
この寺は、お経に説かれている「上品上生」から「下品下生」まで9段階の往生に導く、9種の印相(手の形)を持つ9体の阿弥陀仏が現存することで有名で、自分に合ったランクの阿弥陀さまにお願いすると願いが叶うといわれている。又、この地は、戦国時代は後北条氏被官である吉良氏の奥沢城であり、周囲には当時の土塁も残っている。その滅亡後江戸時代初期に寺となったので、歴史的にも面白いところであった。
次の見学地は等々力渓谷。九品仏駅より尾山台駅を過ぎ等々力駅となる。3駅とも小さな駅で、九品仏駅は列車の1両のドアが開かない。ホームが短くて車両が余ってしまう。又、九品仏駅から尾山台駅が見える。のんびりしていいなと思う。さて、等々力渓谷は都の名勝に指定されており、駅より2~3分歩き渓流にかかる橋の手前で階段を下り渓谷へと入る。ここは23区唯一の渓谷で谷沢川が侵食して形成された1km程の距離である。気温も周囲より2~3度低いといわれ、当日も親子づれが水遊びに来ていた。最下流の階段を上がると等々力不動尊があり、そこで休憩をとり次の目的地、野毛大塚古墳へ向かう。この古墳の形式は帆立貝式古墳という。あまり聞いたことの無い形であるが、この形式では国内最大規模とのこと。石棺が見つかり、副葬品も大量に出土し国の重要文化財として東京国立博物館に収納されているそうだ。どうせなら金持ちの世田谷区、立派な展示館をこの地に建てればと思ったが、発掘が明治30年と聞き、さすがの世田谷も当時はまだ田舎、と納得した。
最終見学地の上野毛自然公園は徒歩20分くらいで到着。国分寺崖線の最終地、崖下は二子玉川の賑わい。ここで解散式を行い、上野毛駅までの帰路で、東急電鉄元社長五島慶太・昇父子の邸宅の威容を見ながら、その敷地内の五島美術館見学組と帰途組に分かれ最終解散とした。
(快晴 参加者 66名)
榛名山・神社を巡りました
紀行文
8月24日(水)「群馬・榛名神社を訪ねる」 担当(織壁、桜井、坂本、垂水)
かつて小金井では榛名講をつくり榛名神社へ参拝していた。別名雨乞神社とも呼ばれ旱魃のときは榛名山の水をまき降雨を祈ったそうである。現在でも関野に講がある。コロナ禍、3年ぶりにバスを使っての見学を行った。ワクチン接種を参加の条件とし、大型バス使用で座席にゆとりを持たせた。また、幹事が用意した「過去の史談会見学ビデオ」「NHKBSの榛名山登山」などを上映し、会話を少なくした。ビデオは好評だった。
朝8時出発、関越自動車道の前橋インターで出て、11時前に榛名神社前に到着。門前(社家町)で昼食をとった。鳥居前で記念撮影。随神門からは山道となり杉木立の中を歩く。神宝殿は三重塔、しばらく行くと坂になり、その先は長い階段だ。右側に数十メートルの岩の間から水が落ちている瓶子の滝が見える。信玄が箕輪城攻めの祈願の矢を射たてた矢立杉を見て、社務所に到着。お札、おみくじがある。ここから双龍門に登ると本殿、神楽殿。神社全体は大修復中(2017年~2025年)で本殿は幕に覆われ、御姿岩を幕間から拝んだ。参道横を流れる榛名川の重厚な砂防ダムは国指定文化財。ダムのうしろに噴火によってできた四角い石を細長く積み上げた奇岩つづら岩がある。神社入口に戻って歴史民俗資料館で神社の歴史、榛名講、社家町、神社と武士などの展示を見学。昼2時前に出発、榛名湖畔で下車、見学した。伊香保温泉を通り渋川から関越道、午後5時半ごろ小金井に帰着した。
車内で感想を述べてもらった。「コロナ禍が心配だったけど、実現でき良かった」「3年ぶりのバス見学、やはり良い」「榛名は個人では来にくい、来れてよかった」「榛名神社、パワー感じられた」「神社は岩を信仰対象にしてびっくり」「山全体が神域で霊気を感じた」「家族に内緒できた、お土産でばれるかな(笑)」「本殿修理中で残念、3年後にまた来ましょう」「昔、母ときた思い出の湖」「コロナ禍でバス手配は大変だったと思う。ご苦労様でした」など(34名)
-
神社随臣門
神社の入口である随神
門から入る。仁王門で
あったが、明治の神仏
分離令により随神像
を安置 -
神楽殿
矢立て杉の隣に建つ
神幸殿(みゆきでん)
(重文)。毎年春の
大祭の期間に御神
体が本殿から遷座 -
双龍門
双龍門(重文)。総欅
造の四脚門で、扉に
龍の浮き彫があり
天井絵にも龍が描
かれている -
神楽殿
神楽殿(重文)。本殿
に向き合う位置に立て
られている。北側が吹
き放しの舞台、南側
が楽屋になっている -
堰堤と九折岩
榛名川上流砂防堰堤
(えんてい)。下流を土砂
災害から守るため昭和
30年に築造高さ17m、
幅69m。国指定。奥の
奇岩が九折(つづら)岩 -
集合写真
榛名神社入口で
集合写真
迎賓館など訪問しました
紀行文
7月12日(火) 迎賓館赤坂離宮他を訪ねる 担当 (馬淵、小林、島田、森)
当日は小雨と蒸し暑さが予想されたこと、そしてコロナのぶり返しで参加者人数が危ぶまれたが、多くの参加者を得た。武蔵小金井駅8時45分発の始発に乗り、四ツ谷駅で下車。四ツ谷駅を出た所で点呼を行い、その場所で「四ツ谷見附橋」の歴史などについての簡単な説明を行った。
その後、迎賓館赤坂離宮に向かい西門から入り、受付を行った。団体での受付も荷物検査等は個人参観者と同じであり、人数が多かったせいか30分程かかり、見学会の時間予定は最初から遅延となった。本館正面に移動し、ここで簡単な説明を行った。皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の東宮御所として建てられたがあまり使われず、戦後は国に移管され国立国会図書館などに利用された。その後外国賓客を迎える施設として昭和49年に改修されたのがこの迎賓館であり、平成21年には国宝に指定されている。そして、われわれが見学できるのは公用室の4室のみである。以上の説明を行った後、本館を背にして集合写真を撮った。そしていよいよ本館を見学。入り口で立派なパンフレットをもらい、2階に上がり、花鳥の間、大ホール、彩鸞の間、朝日の間、羽衣の間の順で見学。各部屋に1人のボランティアの説明員がいたが、団体見学の場合には1人では説明者が足りなかった。本館を1時間見学後、本館裏側の主庭を見学し、本館前庭に戻り正門から退出した。
正門を出たところに最近できた地下休憩所でトイレ利用含め休憩。ここで見学を終了する方もいたので終了式を行った。その後、赤坂御苑の縁を歩いて豊川稲荷東京別院に向かった。豊川稲荷は曹洞宗の高僧が感得した仏法守護神である「豊川吒枳尼眞天(だきにしんてん)」をお祀りしている。豊川稲荷は愛知県豊川市に本山があるが、江戸時代に大岡越前守忠相が日常信仰し、豊川稲荷の分霊を自邸で邸稲荷としてお祀りしていたことから、ここ東京別院が設立されている。境内には「豊川吒枳尼眞天」千本幟(のぼり)が多数奉納されていた。見学会の会費からお供えを購入(270円)し、見学者を代表してお供えした。
最後に高橋是清翁記念公園に移動した。昭和11年に発生した2.26事件で凶弾に倒れた高橋是清の屋敷跡で、往時の雰囲気を残している。記念公園の設立状況、邸は江戸東京たてもの園に移築され保存されていること、そして再建された高橋是清像の製作者(彫刻家の齋藤素巌)などについて説明した。その後、園内を散策して解散とし、それぞれ帰途についた。希望者は近くの赤坂地区総合支所4Fの食堂で昼食をとり、赤坂見附~四ツ谷経由で小金井に戻った。 (参加者55名)
講演会を開催しました
22年写真展を開きました
諏訪を訪れました
紀行文
6月12日~13日 諏訪大社と諏訪宿・高島城を訪ねる 担当(織壁 嵯峨山 馬淵 垂水 金澤)
下諏訪駅では、話し好きそうなボランティアガイドさんが待っていた。「お待ちしていました。下社秋宮から、中山道宿場を歩いて春宮まで行きます。史談会の皆さんですから、その前に梶原景時ゆかりの場所に寄ります」と始まった。「平安末この地域の豪族金刺氏は木曽義仲に従って戦った。そのため頼朝から罰を受けそうになった時に救ったのが梶原景時。『鎌倉殿の13人』で中村獅童が演じました」と町内にある小さな祠・梶原塚の前で語った。犬射馬場なども熱心に説明、下社秋宮に着いた頃には1時間以上はたっていた。
諏訪大社は信濃国一宮で全国25,000社の諏訪神社の総本社。上社本宮、前宮、下社秋宮、春宮の4社からなる。古事記にはタケミナカタが出雲の国譲りに反対して諏訪まで来たとある。下社秋宮8月~1月、春宮2月~7月に祭神が祀られる。一同拝殿にお参りした。「上社には大和朝廷の神は祀られていません、ここ下社にはあります」と成り立ちのちがいを語った。上社と下社は、仲が悪い時もあり武器をもって戦ったこともあった、神社の関係は複雑だ。
下諏訪宿は、中山道と甲州街道の交差点。下社の門前町で、温泉があることから栄えた。秋宮から中山道を上田方面にあるくと、大名が泊まる本陣、温泉宿や旧商家が軒を連ねている。少し上りの道を20分ほど歩くと春宮に着く。拝殿の前後左右に4本の御柱がある。ここで御柱祭の話「下社の御柱は霧ヶ峰のナガシマヤシマから切り出され、人力で運びます。下社は皮をむいて1年置いたものを運び、人をのせての木落しです」今年は6年に一度の御柱祭、熱を込めての説明。万治の石仏は春宮から5分、希望者だけが急いでお参りし、参道を駅方面へ向かった。途中エライ人も下馬した下馬橋、幕末の悲劇「魁塚」をみた。
駅でボランティアさんとお別れ、上諏訪へ向かった。ホテルで休憩や温泉に浸かったあと、夕食は駅近くのいずみ屋。ワカサギ天ぷら、豆腐料理、一口そばなどで舌づつみをうち、地酒真澄も少し(・・)いただいた。
翌日は上諏訪駅からまちなか観光ガイドの女性二人と高島城へ向かう。途中、諏訪の味噌蔵などを見ながら歩くと、堀の向こうに天守閣が見える。昔はすぐそばまで湖だったので「諏訪の浮城」と呼ばれていた。城は戦国をへて、徳川時代・慶長6年(1601)から270年諏訪氏の居城となった。明治の廃城後、昭和45年(1970)天守閣が復興された。天守からは諏訪湖や北アルプス、遠く富士山を見渡せた。
城から北に15分ほど歩くと貞松院があり、咎を受け高島城に預けられた徳川忠輝の墓を見学し、国道20号を酒蔵を見ながら駅に向かった。その後、それぞれ食事したり、片倉館の湯に入ったり、散策して見学会を終えた。武蔵小金井に5時ごろ帰着した。両日、青い空・暑いぐらいの天気にめぐまれた。(参加者18名)
-
梶原塚
木曽義仲に味方
した諏訪大社神官・
武士の金刺盛澄
(かねさしもりずみ)が
梶原景時に命を救わ
れ、建立した上座堂
梶原塚 -
秋宮
諏訪大社下社秋宮
幣拝殿 -
秋宮の御柱
下社秋宮 二之御柱。
幣拝殿、宝殿の周り
に一之御柱から四之
御柱まで、四本の
御柱が建っている -
万治の石仏
万治の石仏 建てら
れたのは1660年
岡本太郎が「こんな
面白いものは見た
ことない」と絶賛した。 -
下馬橋
諏訪大社下社
下馬橋。身分にかか
わらず馬から降りなけ
ればならいとされ、
今でも遷座祭において
神輿のみが渡る -
集合写真
諏訪大社下社
秋宮 神楽殿の
前で -
丸高味噌
諏訪市内高島城
三之丸跡に建つ、
丸高味噌(信州一
味噌醸造元)の
醸造蔵 -
高島城
昭和45年に復元
された高島城天守。
慶長6年から270年
諏訪氏が居城とした。 -
諏訪湖
諏訪湖と残雪の
北アルプスを望む -
貞松院
浄土宗貞松院、
初代諏訪藩主・
諏訪頼水の正妻
・貞松院殿の
菩提寺。 -
松平忠輝の墓
貞松院にある松平
忠輝の墓(寂林院
殿墓)。徳川家康
の六男であるが改
易され、長い間高
島城に預けられて
いた。 -
2日目集合写真
高島城天守の
前で
御嶽山御嶽神社を巡りました
紀行文
6月7日(火) 武蔵御嶽神社周辺を巡る
担当(森、嵯峨山、太田(祐)、櫻井、佐藤)
見学会前日は終日かなりの雨が降り、見学会は雨天決行とはいえ予定通り開催できるか懸念された。然し明け方には雨も上がり、集合時間には青空も見える天気に回復した。武蔵小金井駅から8時46分発青梅行直行電車に乗り、青梅駅から乗り継いで御嶽駅に9時57分到着。
10時2分発依頼しておいた増便のバスに乗ってケーブル下へ。ケーブル下バス停からケーブル滝本駅までの約300mが心臓破りの急坂で、10時20分発のケーブルカーに乗れるか心配だったが37名全員乗車できた。ケーブルカーは、標高差423mを6分で標高831mの御岳山駅到着。標高が高いため、御岳山は霧が立ち込めて少し雨も降りだした。約10分歩いて御嶽ビジターセンターへ。ここで御岳山の自然を紹介したビデオを15分、続いて学芸員からこの後訪れる武蔵御嶽神社宝物殿の国宝「赤糸威鎧(あかいとおどしのよろい)」(畠山重忠が奉納したと伝わる)について見どころを教示された。そして、ここから御岳山頂上929mまで約100mの標高差、神社の階段約330段を約30分かけて登った。ゆっくり歩きたい人5名はガイダンスを受けず幹事1名が付き添って直行した。
武蔵御嶽神社では、神職の黒田さんから神社の由緒、鎌倉を向いていた社殿が、家康の命で江戸の西の護りとして東向きに建て替えられたこと、更に狼を祭った社、旧本殿、家康を祭った東照社などを懇切に説明して頂いた。そして土日祝のみ開館の宝物殿を特別に開けていただき国宝の「赤糸威鎧」などを間近に拝観した。黒田さんは7月に史談会で講演頂く根岸先生と国学院でご縁があったそうで、説明に熱が入った由。
武蔵御嶽神社を後にして、13時に21軒ある宿坊の一つ「片柳荘」で昼食。自家製のこんにゃくなどの精進料理を味わった。片柳荘は江戸時代から続いており、片柳という姓は御岳山で一番多い苗字だそうだ。
14時10分のケーブルで下山、帰りも増便のバスで御嶽駅に到着。バス停から多摩川に掛かった御岳橋を渡り15時頃玉堂美術館に到着。入館前に解散式を行い、後は自由に好きなだけ川合玉堂の絵と、庭園を鑑賞してもらった。そして御嶽駅15時39分又は16時26分の電車で武蔵小金井に向かった。多少雨に降られたが、予定通り無事見学会を終了した。
(参加者37名)
江戸城を巡りました
紀行文
5月10日(火) 旧江戸城の内郭と内濠を歩く 担当 (馬淵、嵯峨山、中島、垂水)
新緑の候、好天にも恵まれ想定を超える多くの方に参加いただいた。当日朝は、8時35分発の始発に乗車し出発。東京駅の丸の内中央改札口を出た所で人員点呼。なんと68人で、用意した配布資料が足りず、一部役員の方に配布した資料を供出いただき、ご迷惑をかけしてしまった。
当時本丸への登城門であった大手門から見学を開始。典型的な桝形門で、渡櫓の大きさを実感。三の丸尚蔵館は現在新館建築中にて休館中で、見学できず残念であった。中之門跡に近づくと巨石で築かれた石垣が現れた。この門は本丸の正門玄関にあたり、江戸城で最大級の巨石が使用されている。本丸跡へ入る前に南端に位置する三重の富士見櫓を見学。本丸跡へ移動し、浅野内匠頭刃傷事件で有名な「松の廊下」跡を訪ね、蓮池濠に面して残る富士見多聞の内部を見学。その後、右手に表・中奥跡を、左手に大奥跡を見ながら広い本丸跡を横断し、本丸休憩所にて休憩。ここでは最近設置された天守の復元模型が見学できた。
休憩後、汐見坂から二の丸庭園を望んだ。当時は海が見えたことからこの名がついたといわれるが、想像以上の高低差が感じられた。坂を下りたところで本丸を見上げると、左手に家康時代に築かれた石垣が、右手には明暦の大火以後に築かれた石垣が見られ、築造時期の違いがよく解かる。梅林坂をのぼり本丸跡にもどり、天守台跡に登った。江戸城の天守は3度築かれたが、明暦の大火で焼失した後は再建されず、天守台跡だけが残っている。当時日本最大の天守といわれただけに、天守台の石垣も立派で非常に大きい。
北桔橋(はねばし)門から本丸跡を出て、国立公文書館を見学。明治維新後の公文書を保管しており、適宜公開している。見学当日は特別展「公文書でたどる沖縄の日本復帰」が展示中であった。同時に基本展示として複製品ではあるが「日本のあゆみ」も見学できた。ここは見学者が非常に少なく、ゆっくりじっくりと見学できる。その後、北の丸公園の中にある徳川御三卿清水家の表門であった清水門を見学。この門も桝形門で立派である。清水門で見学会は一次終了とした。
ここで見学会を終了する方は、九段下駅まで担当が案内。引き続き見学を希望する方は千代田区役所にて昼食。休憩後見学を再開したが30人強の方が参加。九段下駅から地下鉄で半蔵門駅まで移動し、半蔵門から桜田濠沿いを歩いた。桜田濠は広大で、日比谷方面に向かって緩やかに下っており、雄大な景色が楽しめた。途中、警視庁手前で内堀通りを横断し国会前庭へ移動して、日本の標高の基準となる地点である「日本水準原点」を見学。ここは旧彦根藩井伊家上屋敷があったところ。この屋敷跡から、井伊大老が暗殺された「桜田外の変」発生場所と登城門であった桜田門を望んだ。その後桜田濠に戻り、西の丸防御のために規模の大きな桝形門である桜田門を見学。桜田門を通り、皇居二重橋を左手に見て、東京駅に戻り解散した。 (参加者68名)
武蔵野の戦争遺跡を巡りました
紀行文
令和4年4月5日(火) 武蔵野の戦跡を訪ねる (柏倉、太田(義)、塚田、金澤、岡田)
同じテーマで2月に予定していた見学会は感染状況を考え中止したが、その後、蔓延防止措置も解除になった為、桜の花の下を歩こうと、1週早めて5日の実施にした。例年より早目に咲き、見学会の日に花が残っているか心配したが、残っており幸いであった。当日朝、雨は上がったが重い雲が立ち込める朝9時半、小金井駅を出発。武蔵境駅からの参加者と合流し、いよいよ見学会がスタートした。
今回のテーマは、廃線跡の公園や遊歩道を歩きながら、武蔵野市にある戦争の痕跡を訪ね、私たちの身近にあった戦争(大東亜戦争)を再認識するという事であった。
まず、武蔵境駅から少し歩いて線路跡特有の緩いカーブを描いて始まる「本村公園」に入った。境浄水場(大正13年開設)に砂をはこぶ引込線の跡であり、戦争も末期の昭和18年に一部を利用して中島飛行機武蔵製作所への専用引込線が引かれた。この中島飛行機武蔵製作所専用線は、戦後(昭和26年)に中島飛行機製作所東工場跡に出来た「東京グリーンパーク球場」への専用線、通称「武蔵野競技場線」として三鷹駅から変えられ、試合のある時のみの運行で東京駅始発の電車が走った。(現在の「堀合公園」、武蔵野競技場線跡の三鷹市部分)
「本牧公園」を歩き、新武蔵境通りを渡り「堀合公園」に入った後、引込線が玉川上水を渡る当時の橋台を使って新たに架けられた「ぎんなん橋」に着いた。橋台は当時から残る唯一の遺構であり電車が通っていた事を表す為、架けられた橋にはレール状の鉄が埋められている。その後、線路跡は武蔵野市に入り「グリーンパーク遊歩道」となる。しばらく歩き「高射砲陣地跡」についた。昭和19年11月24日にサイパンから飛来したB29爆撃機による最初の東京空襲が行われ、重要目標であった「中島飛行機武蔵野製作所」も爆撃された。関町には、高射砲陣地があり、高度1万メートルで飛来するB29には、効果的な迎撃は出来なかった。中島飛行機武蔵工場に対する精密爆撃(目標に対してのみ着弾することを目的とする爆撃)の着弾割合が4%ということで、周辺住民への被害は当然であった。ここでは、本土空襲の歴史と反撃の実態を学んだ。
その後、延命寺を訪ね、33回忌の昭和53年に建立された平和観音菩薩像や、不発弾処理された250キロ爆弾の破片を見て、近隣の源正寺にある戦争遺物、倶会一処の慰霊碑や、機銃掃射により破壊された墓石など、今に残る戦争の痕跡を学んだ。最後に中島飛行機武蔵製作所跡地である都立武蔵野中央公園を訪ね、米軍の工場爆撃時の爆撃照準点とされる地に立って、工場跡地が野球場になり、都営団地となり、あるいは駐留軍(米軍)宿舎やアメリカンスクールになりと、戦中戦後のこの地の移り変わりを見た。ここで写真撮影の後、解散。咲き残った桜の下で、お弁当を拡げたり、昼食後、関連の東伏見稲荷神社を訪ねたりと、思い思いに過ごして春の一日を過ごした。 (参加47名)
裏高尾の歴史と梅郷を巡る
紀行文
3月8日(火) 裏高尾の歴史と梅郷を巡る 担当 (垂水、柏倉、櫻井、太田(祐)、白倉)
前日まで春近しを感じていたが、当日はひと月も遡ったような天候であった。しかも、JR中央線は朝の人身事故にて遅延で、参加者が集合場所に来たら順次スタートさせる、車内ではかたまらないなど、会長からのリモート指令が飛んだ。それでも武蔵小金井駅のホームには迷うことなく全員集合し、4,5分ほど遅れてJR高尾行きに乗車、順調に高尾駅で乗り換え京王高尾山口駅に到着した。
いまの甲州街道を高尾山口駅からJR高尾駅方面に案内川沿いを10分ほど下り、小仏川沿いの遊歩道梅林小名路に差し掛かると、梅は一、二分咲き。2月22日の下見では5本の梅の木に1輪の開花ほどだったが、暖かい日が続けば、五分咲きくらいにはなるだろうと思っていたのだが。それでも、「裏高尾の歴史と梅郷を巡る」に誘われた皆さんは、杉の根が張る細道に気をとられて花を見る余裕もなく、大きな不満の声は聞こえてこなかった。高尾天満宮下では「菅原道真」の講釈を静かに聞いて学習した(史談会メニューである)。その後、旧甲州街道(日本橋から下諏訪)を歩いて、「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」、小仏関跡、駒木野宿(日本橋から12番目の宿場)を見学し、高尾駒木野庭園で集合写真をとり、終了した。その後、高尾駒木野庭園で食事をするグループ、高尾山口駅に戻りそこで蕎麦を食べるグループ、そしてJR高尾駅に向かうグループに分かれ、それぞれ帰途についた。帰路中央本線脇の小径では一時小雪も舞った。
梅の花が思うように咲いてくれず、企画者としては「今日はどうでしたか」と聞ける状況ではなかった。したがって、今回は追記で「いのはなトンネル列車銃撃事件」を取り上げたい。
この事件は、あと10日で戦争が終わるという時に起きた。国鉄中央線の列車の運行は3日前の八王子空襲で不通になっていたが、1945年8月5日の朝、全面開通し新宿発長野行き8両編成は、定刻から少し遅れてゆっくりと走り始めた。昼ごろ八王子を過ぎ浅川(高尾)を出た列車はまもなく米軍機に見つかってしまう。そして中央本線「いのはなトンネル」(現「湯の花トンネル」)付近を走行中に襲撃が始まり、2両目の途中がトンネルに入ったところで列車が停止した。後ろの客車が硫黄島から飛来した数機のP51戦闘機の機銃掃射を受けてしまう。現場近くには中島飛行機の倉庫があったが、そこがねらわれたかどうかは、わからない。
いのはなトンネル襲撃事件は、列車襲撃空襲の被害としては国内最大とされるが、被害実態についての調査結果は公表されなかった。事件当時の記録がほとんどないなか、事件発生後40年経過した1985年、八王子市郷土資料館が「八王子の空襲と戦災の記録」を発表して多くの人の知るところとなった。その7年後の1992年、地元浅川町の住民によって今の地に慰霊碑が建立されたが、被災から47年もたっている。
事件当時の資料では、死者52名、負傷者133名となっているが、後日死亡した人を含め、死者は65名以上になった。負傷者の一部は駒木野病院の前身小林病院(現在の高尾駒木野庭園)で手当を受け、それ以外の人は府中など近くの病院に運ばれた。現場に残された遺体は、翌日現場近くの川原で一括して荼毘にふされた。なお、国鉄浅川駅(当時)も5月25日には貨車が被害に合い、7月8日には駅舎が米軍機に襲撃された。今でも高尾駅2番ホームの階段付近の屋根の支柱に弾痕として残っている。
田無神社に初詣に行きました。
紀行文
1月11日(火) 田無神社で初詣 担当 (柏倉、佐藤(環)、閑野、中島)
令和4年最初の見学会は、前日からの生憎の雨と急拡大の感染状況の中、実施も危ぶまれたが、予定通り実施した。電車の遅れもあり集合時間を遅らせて10時を少し過ぎてから、参加者22名が駅を出て歩き始めると幸先良く雨も上った。
まず「旧惣代名主下田家の役宅」を訪ねた。江戸時代末期の安政年間に建てられた西東京市で最も古い木造建築物で、茅葺屋根を銅板に葺き替えた他は、ほぼ原形を残している。江戸時代には、幕閣重臣が立ち寄ったり、明治天皇がご休息をとった由緒ある建物で、西東京市の市指定文化財である。残念ながら、現住という事で外観のみの見学であった。また、敷地内にある飢饉対策の「稗倉(ひえぐら)」の一部と下田半兵衛富宅の業績を顕彰した「養老田碑」を見た。
その後、田無で最初の小学校である「田無小学校」敷地内にある「養老畑碑」と初代校長の「刑部真琴胸像」を見学した。事前に許可を得ていたので小学校敷地内に入り、養老畑碑とその説明板を正面から観察する事が出来た。(さらに副校長先生の挨拶を頂いた)
次に、玉川上水の田無分水跡の遊歩道と青梅街道をわたり「観音寺」に行った。田無山総持寺の前身三寺(西光寺、観音寺、密蔵寺)の一つで、境内では大型(高さ3.5m)でありながら、ほぼ完全な形で現存する貴重な宝篋印塔(六十六部廻国塔)を見た。4面が梵字で書かれている珍しいものである。他に近隣太子講の職人衆によって建立された「正徳太子像」を見学した。
玉川上水の田無分水跡の遊歩道「やすらぎのこみち」をたどって「田無山総持寺」を訪ねた。真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王である。前身は「西光寺」(再建に富宅の父、下田半兵衛富永が尽力した)と言い、明治の8年に(先に立ち寄った)「観音寺」と「密蔵寺」を合わせて「田無山総持寺」と寺名を改めた。総持寺には、西東京市の指定文化財になっている、田無と周辺の地には欠かせない人物「下田半兵衛富宅(とみいえ)」の像と田無神社の前名称扁額「尉殿大権現 神号額」がある。残念ながら実物は見られなかったので、持参の写真を見ながら担当者から説明をした。
最後に、交差点を渡って「田無神社」を訪れた。鎌倉期創建で、元は1km北の谷戸の宮山にあり「尉殿大権現」と呼ばれていた。青梅街道の開通に伴い現在地に遷座し、明治の神仏分離令で「田無神社」と名称を変えて、現在に至る。幸いにも参拝客は少なく境内を自由に動けた。まず、今回は見られなかったが、都指定文化財の「本殿」と「拝殿」の説明を聞き、その後に境内各所にある文化財を見た。本殿北東にある土俵「大鵬」と「大鵬石碑」。戦争の影を色濃く残す「楠正成像」。田無の人が織りなす歴史を感じさせる「日露戦役記念碑」等を見た後、令和4年初頭の見学会が無事実施出来た事を感謝しつつ、会長の挨拶と、次回の見学会の紹介をしたのち解散した。
令和4年1月の見学会参加者には、解散後、参拝の列に並ぶ人、おみくじを引く人、御朱印を頂く人と思い思いに田無神社のお正月を楽しんで頂いた。
(参加者 22名)
-
下田半兵衛の稗倉
旧下田名主役宅そばの
稗倉(ひえぐら)前で。
天保9年(1838年)飢饉に
備えて稗を貯える倉が
作られた。 -
養老畑碑
下田半兵衛富宅は、
安政元年(1854年)に
所有地を養老畑として
提供しその作徳金を
高齢者に平等に与えた。
田無小学校内。 -
総持寺
明治8年、三寺が合併して創建されたお寺で、関東三十六不動霊場
の第十番札所。新
東京百景にも選
ばれてる。立派な
山門と大きなケヤキ
のある境内。 -
観音寺の宝篋印塔
陀羅尼の全経文を
梵字で上部基礎に
刻んである。 -
田無神社
創立は正応年間(鎌倉期、
13世紀)のこと。谷戸山
に鎮座し、尉殿大権現
(じょうどのだいごんげん)と
呼ばれていた。ご祭神は
龍神様
。 -
集合写真
総持寺仁王門前での
集合写真
雨で中止の中、集まった人で武蔵境散策しました
紀行文
12月8日(水) 境村の杵築大社、観音院等を巡る 担当 (閑野、中島、柏倉、垂水)
見学会の前日の予報では終日雨、当日も雨が続き風も強くなるとのこと、また会員から参加できない旨の連絡もあり、担当間でメールをやりとりし、中止とした。役員にはその旨メールしたが、集合場所の武蔵境駅には一般の会員を含めて15人が集まった。そこで、有志による見学会とし参加費は集めずに説明を簡略にして、事故等に気配りし、見学予定コースをまわった。天候による中止というのはなかなか難しいと思わされた。
見学は、慶長年間に松江藩主松平直正が下屋敷とした境村に創建した杵築大社(出雲大社を屋敷神として創建)を最初に訪ねた。武蔵野八景碑を見学したが、富士塚は雨のため頂上には行かなかった。次の観音院では、境内墓地にある「贔屓(ひいき)の引き倒し」の贔屓を象(かたど)った像の説明と見学を行い、最後の武蔵野ふるさと歴史館では、学芸員から武蔵野市の歴史を原始・古代(武蔵野台地の遺跡、遺物)、中世(鎌倉街道と板碑)、近世、近現代などについて丁寧な説明を受けた。12時前に同歴史館にて解散した。
(参加者 15名)
-
杵築大社
出雲国松江城城主松平
直正が武蔵12町(13
08m)四方を下屋敷と
し出雲の杵築大社(
出雲大社)と稲荷社を
創建した事に由来する
神社。 -
武蔵野八景碑
明治32年(1899)停車
場開設10周年に地域
の名勝8つが記載され
ています。小金井花と
して小金井桜も入っ
ています。 -
観音院山門
承応2年(1653)に杵築
大社と同じく松平直正
により観音堂として建立
されました。境内の寒川
筆子塚には関野新田
9名の名前があります。 -
贔屓(ひいき)の像
楼門・鐘楼・諸堂建設碑
の前にある像は贔屓の引
倒しの贔屓です。 -
武蔵野ふるさと歴史館での見学
学芸員の方から旧石器
時代から戦中の中島
飛行機空襲までと武蔵
野市の地理的位置につ
いて説明を戴きました。 -
杵築大社で集合写真
黄葉の銀杏の絨毯
の上で記念写真
多摩霊園小金井門周辺を巡りました
史談会50周年の講演会を行いました。
説明分
今年初めの予定だった史談会50周年記念行事・講演会がやっと10月13日に開催できた。予定の小ホールが8月になってワクチン接種会場となり大ホールに変更となった。1時間少なくなり、記念行事や講演を短縮した。記念行事を成功させたいと考える一方、コロナ禍で集まれるかと心配だったが、参加は約160名と当初の予想を上回った。会員に誘われてきた人も多かった。参加者には感染対策をお願いした。西岡小金井市長の来賓あいさつ、1971年創立された史談会50年のあゆみ報告、見学会での写真表彰、大石学芸大学名誉教授の講演を行った。ロビーでの展示も行った。講演テーマは「江戸の教育力と小金井」。幕末に日本を訪れたフランス公使のロッシュは「250年もの間、日本の国内は平和で武器を持って戦うことはなかった。幸福な時代で世界に例がない」考古学者シュリーマンは「この国は平和で皆満足しており、社会秩序があり世界のいかなる国より文明国だ」。大石先生は江戸時代が遅れた封建時代という見方は間違い、明治維新が遅れた時代を変えたのではない、平和な江戸を支えたのが教育力と識字率の高さだと話された。小金井では、天保期に下小金井新田に坂本正義が算術塾を開き、門人が700人、塾の世話人は4人、2人は女性だった。曲眼堂(安政期)、渋谷家塾(文政期)、渡辺私塾(文政期)、月州堂(文政期)など江戸後期の手習塾の記録が残されている。小金井は教育先進地域だったかもしれない。参加者のみなさんは本日の講演にいやいや来たのではありません。これぞ教育力です、と締めくくった。ジェイコムテレビの取材があり、市長あいさつ、史談会のあゆみ報告、写真の表彰、大石先生講演と終了後のインタビューが放映された。また小金井新聞、市民運動新聞に掲載された。(参加者160名)
-
50周年記念講演の様子
宮地楽器大ホールで開催。約160人が参加。
会長挨拶、市長挨拶、いいね!写真展表彰、史談会のあゆみ報告と大石学東京学芸大学名誉教授の講演が行われた。 -
史談会の歴史を説明
当会は1971年創立
された。見学会、講演
会、研究会、公民館
講師、市共催昭和の
写真展、会報の発行
など史談会の50年の
あゆみを報告した。 -
写真展表彰式
7月の見学写真展で参加
者が撮影した写真を来場
者が投票。1位の忍野
八海、2位の富士浅間
神社、江の島、石見
温泉津、3位の多磨
霊園、筑波山、隅田
川を表彰した -
市長挨拶
西岡市長がお祝い
の言葉をのべました。
市民といにしえの
小金井をつなぎ、うる
おいをもたらす史談会
の活動が意義あること
と話された。 -
大石先生の講演
大石先生の「江戸の
教育力と小金井」の
講演。江戸時代が平和
であったことは教育と識
字率の高さによるもの
あると小金井の手習塾
も交えて話された。 -
展示風景
合わせて展示も行われ、
小金井の古地図、見学
会写真、郷土史研究
、いいね写真!に多くの
参加者が見入っていた。
玉川上水と小平の遺跡を巡りました
紀行文
10月6日(水) 歴史ある玉川上水と小平の遺跡を巡る 担当 (垂水、馬淵、佐藤(環)、閑野)
コロナ緊急事態宣言解除後であったが、「マスク着用、手洗い励行、車内・3カ所の館内は、会話を控え、密にならないように」をお願いして実施。今回の見学会は、平櫛田中彫刻美術館と鈴木遺跡資料館が火曜日休館日のため、6日水曜日とした。また、小平ふれあい下水道館が10時開館のため、イトー・ヨーカ堂前広場に9:00集合し、武蔵小金井駅からJRと西武線を経由し鷹の台駅で下車。まず、玉川上水に行き、本日の見学会の説明、玉川上水の歴史や小平監視所の役割などの説明を行った。その後、下水道館に行き、二組に分かれ説明を受けた。地下2階でくらしと下水のビデオ鑑賞や、地下5階までの見学を行った。また、外で記念撮影を実施した。玉川上水に戻り、秋風を感じながら木漏れ日の下、玉川上水と新堀用水間の遊歩道を歩き、小川水衛所跡で、水番人等の説明や名勝小金井ザクラの境界を示す杭を見た。その後、玉川上水沿いを平櫛田中彫刻美術館へ。日本近代彫刻の巨匠、平櫛田中の彫刻作品等を鑑賞した。ここで昼になり、まとめの会を実施し、一次解散した。一部は、西武線一橋学園駅へ行き帰途についた。次の鈴木遺跡資料館へは26人が参加、途中の喜平図書館で休憩した。後期旧石器時代の遺跡を中心とし、縄文時代と近世の遺跡も含む複合遺跡の鈴木遺跡資料館を見学、ビデオ説明を鑑賞した。13時15分頃終了、日立国際電気前のバス停などからそれぞれ帰途についた。(参加者
42名)
東村山の遺跡と文化財を巡りました
紀行文
9月17日(金) 東村山の遺跡と文化財を巡る 担当 (馬淵、中島、嵯峨山、垂水)
コロナ影響下を意識し、参加者には「マスク着用、三密を避ける、手洗い励行、車内会話は控える」をお願いして実施。イトー・ヨーカ堂前広場に08:20集合し、武蔵小金井駅からJRと西武線を経由し西武園駅で下車。先ず、旧石器時代から縄文時代を経て近世にかけての複合遺跡である下宅部遺跡が、発掘後に一部埋没保存され公園となっている「下宅部遺跡はっけんの森」を見学。続いて、遺跡から出土した遺物を保存展示している「八国山たいけんの里」を訪問、学芸員の方から説明を受けた。次に、すぐ隣にある北山公園を散策。ここ一帯はもともと水田地帯で水の豊かな地域であり、自然環境保護の観点から公園となったもの。6月の花菖蒲が有名であるが、9月であったので水田に稲が良く実っていた。ここから南へ移動し、正福寺を見学。正福寺は臨済宗建長寺派の禅宗寺院で、中世の禅宗様建築が良く保存されている国宝の地蔵堂(千体地蔵堂)が有名である(都内で唯一の国宝木造建造物)。入母屋造り屋根の端部が反りあがった外観は禅宗様の特徴であり、その他花頭窓など禅宗様の特色を観察。そして、境内にある都内で最大級の板碑「貞和の板碑」なども見学。正福寺のあとは東へ移動し、東村山ふるさと歴史館を訪問。学芸員の方から説明を受けた。東村山は、古代・中世と主要な街道沿いに位置しており、歴史館では多くの文化財や歴史資料が展示されている。ここで一次解散とした。体力の残っている方22名が、引き続いて徳蔵寺の板碑保存館を見学。住職より丁寧な説明を受けた。ここには多くの石器、土器、石碑、板碑が収集保存されているが、有名なのは重文指定の「元弘の板碑」である。新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす途中の合戦(1333年)で戦死した武者を弔う碑であるが、史実を裏づける貴重な碑である。ここで見学を終了し、東村山駅東口に移動。8月に新しく完成した「志村けん」の銅像を見学して各自帰途についた。 (参加者
35名)
-
八国山たいけんの里
下宅部遺跡から出土した
資料が保存・展示されて
いる「八国山たいけんの
里」を見学,漆工程出土
と製品が有名 -
北山公園
水の豊かな北山公園
を散策。見学が9月で
あったので水田に稲穂
が実っていた -
東村山ふるさと歴史館
東村山ふるさと歴史館
にて、東村山の近代の
開発に関する説明を受
ける -
板碑保存館
徳蔵寺の板碑保存館
にて、住職より板碑全般
そして「元弘の板碑」
に関する詳しい説明を
受ける。正面左が
「元弘の板碑」 -
志村けんの銅像
2021年8月、東村山
駅東口に新しく建て
られた「志村けんの
銅像」を見学 -
集合写真
国宝に指定されて
いる正福寺・地蔵堂
にて集合写真。室町
期禅宗様仏殿の
代表的な遺構。入母
屋作りの屋根の端部
の反り上がりが美しい
貫井村21
紀行文
8月24日(火) 貫井地区の遺跡・江戸時代の面影を巡る 担当 (閑野、柏倉、中島、織壁)
新型コロナ対策の緊急事態宣言延長の影響を受け、度重なる延期となったが、今回はマスクの着用や密回避を徹底し開催した。暑さ対策も兼ねて集合場所も貫井神社正面に9時集合。先ずはここから坂を上がり貫井遺跡の出土品見学で三楽会館を訪問、展示されている土器など遺跡の出土品を見学。坂を戻り明治政府の神仏分離令で分離された真明寺・貫井神社を見学。貫井神社では、かつて神社横の崖上を下り落ちていた用水にあった秋和水車の排水溝に掛かっていたと伝わる石橋「大正橋」が拝殿そばに移設されていること見た。そして大岡昇平「武蔵野夫人」に描写された貫井神社と今は廃止となり痕跡がなくなった用水を、原文を読み比べながら見学した。
次に享保8年10月24日造立の地蔵菩薩と、道しるべを兼ねた寛政6年の文字庚申塔へ。地蔵菩薩では最近まで念仏講が行われていた。また庚申塔には「右 小川 すな川道 左こくぶんじ道」と刻字されており、内容から寛政6年当時の宿場や中心地を見ることが出来た。小川は現在の小平市小川で、当時五日市街道の宿場として開発され、小平村となったときも小川の「小」と平らな地域として村名が決定している。続いて貫井共同墓地内の焔魔堂にて閻魔像を見学。首部に安永6年の墨書が確認されている。最後に千手院、筆子塚(曲眼堂)を見学。千手院は府中の高安寺の末寺で寺紋も高安寺と同じ足利氏家紋。天保年間に住職の泰嶺和尚桃雲禅範がこの地に寺子屋を開いた。筆子塚は、没後に貫井村など近隣の筆子(生徒)が遺徳を偲び建立したもの。
ここで解散したが、駅まで徒歩で帰る参加者は貫井「おおせど」跡と、園の命名と揮毫が犬養毅である滄浪泉園の標柱を見て、武蔵小金井駅まで帰った。 (参加者
32名)
-
貫井神社
貫井村の鎮守、江戸時代
の新編武蔵風土記稿にも
神社辨天社と記載。
明治政府の一村一社令で
貫井村の他社を合祀。
貫井神社なった。 -
貫井遺跡
縄文時代中期を中心
とした住居跡約50軒が
発見されている。三楽
集会所には貫井遺跡
より出土した、石器、
土器等を展示。 -
庚申塔
庚申塔。「絶三尸罪」と
表示ている全国的に
珍しい文字庚申塔。
道しるべをかね、
「左こくぶんじ道・右
小川すな川道」と
刻まれている。 -
焔魔堂
貫井共同墓地の閻魔
堂。安永6年(1777)の
木造閻魔王座像他を
祀る。祀られている十王
は2体が失われいる。 -
筆子塚
千手院曲眼堂
筆子塚。天保年間
に千手院で曲眼堂
(寺子屋)が開かれ、
貫井村他の筆子たちが
遺徳を偲び建立。 -
集合写真
貫井神社拝殿前で
集合写真
講演会「小金井の江戸時代と古文書」が開催されました
報告文
7月5日(月)講演会「小金井の江戸時代と古文書」講師 国学院大学大学院
客員教授根岸先生
江戸時代の文書から小金井を見る。小金井・貫井の二村が形成されたのは17世
紀の前期である。野川沿いの田畑が開発され、次第に南北の台地に畑を開墾し
ながら村を広げていった。18世紀前期からの享保改革の新田開発によって新田
も形成されていく。村は、本百姓が屋敷・耕地を持ち、自立して生活や生業に
従事していた。村は支配を受けながらも自治的な機能を持って運営した。年貢
の負担は軽くなかったが、村が請負っていた。しだいに人々の活動や視野が拡
大し、産業も発達しながら江戸との結びつきも強まっていった。近世中後期に
は、災害や飢饉に見舞われ、幕府も改革などを行ったが、それ以上に人々や村
が自治的機能を強化して行く。文書は支配・行政だけでなく文化、娯楽の文書
が増える。その中から近代への動きが見えてくる。(小金井宮地楽器小ホール
参加者80名)
歴史見学写真展を開催しました
報告文
当会では毎年7月に見学会の写真を展示しています。
今年は創立50周年を迎え記念の展示をしました。小金井の歴史探訪として
「旧是政、関野新田」「多磨霊園」、郷土史研究発表として「桜樹碑を読む」
「小次郎墓碑調査」「鳥八臼の分布の考察」など、「小金井の古地図」や
「短歌・俳句・川柳・漢詩」の展示を行いました。多くの来場者が見入って、好評
でした。
また、会員が撮った見学会の写真を「いいね!写真」として展示し、多くの
来場者に投票をしてもらいました。今年10月には結果をお知らせします。
しかし新型コロナウイルス感染の影響で昨年同様に多くの見学会は中止と
なり昨年11月、12月、今年4月の3回分の見学会展示となりました。
展示会に合わせて7月5日国学院大学根岸先生講演会「小金井の江戸時代と
古文書」を行いました。
講座「小金井の遺跡」を開催しました
4月27日予定の勉強会がコロナ緊急事態宣言で公民館閉鎖のため中止、5月25
日公民館東分館で開催しました。小金井市「まなびあい出前講座」の内、「小
金井の遺跡」を選択。教育委員会生涯学習課学芸員の高木翼郎氏を講師に迎え
、26人(定員30人)参加がありました。旧石器時代・縄文時代には国分寺崖線
に沿って遺跡が広く分布しているなど、講義は中世・近世そして昭和まで時代
が至り、画像を観ながら2時間という有意義な時を過ごしました。
杉並観泉寺、井草八幡宮、善福寺公園を巡りました。
紀行文
4月6日(火)杉並観泉寺、井草八幡宮、善福寺公園を巡る 担当(小林、織壁、太田、島田)
コロナ禍のもと全国的な緊急事態宣言は解除されたものの、大阪など3府県では再度「まん延防止等重点措置」が発令され、東京もジリジリと感染者が増加の傾向をみせている状態で、見学会を実施すべきかどうか役員会で議論されたが、この見学会は室内での見学は1ヶ所のみで、9割以上が外での見学なので実施をきめた。当日は晴れだが気温は3月並みの最低9度のなか、朝8時50分に三浦屋前広場に集合。
中央線快速で西荻窪で下車、点呼後出発したのは9時30分。25分ほどで荻窪八幡神社に着く。このあたりの鎮守の社で、参拝する人はほとんど無い。次に道路一つ隔てた向かいにある杉並アニメーションミュージアムを見学。区立で、アニメのできるまで、ヒット作品の主人公のフィギュアなどが展示されている。20分ほどで見学終了。20分ほど歩き、本見学会の目玉の観泉寺に行く。戦国大名だった今川氏は義元が桶狭間の戦いで織田信長に破れ没落したが、その子氏真(うじざね)は徳川家康の庇護を受け、氏真の孫直房(なおふさ)が家光からこの辺一帯の土地を賜り、観泉寺を建て菩提寺とした。境内の一角を石垣で仕切りその中に10基ほどの墓が並んでいた。30分歩き目玉の二、井草八幡宮に着く。敷地1万坪、今川氏尭(うじなり、直房の養子)
によって本殿は造られたという。荻窪八幡神社(2600坪)は旧村社なのに対し、こちらは郷社である。違いを見せつけられた感がある。
主要な見学は終わったのでバスで帰る人のことを考え、ここ井草八幡宮で解散式を行った。実際は次の徒歩5分の善福寺公園までは全員が行き、数人はここから別ルートで帰った。善福寺公園で10分の休憩をとり、はだしのオアシス(善福寺さくら公園)、トトロの樹(坂の上のけやき公園)を経て12時45分西荻窪駅に到着。流れ解散した。コロナ禍の砌(みぎり)、家まで帰り遅い昼食にした人もいたようだ。 (参加者44名)
史談会50周年会報48号を発行しました
小金井市民活動祭りに参加しました
多磨霊園を巡りました
紀行文
12月8日(火) 「多磨霊園正門(府中門)周辺を巡る」 担当(塚田、太田、垂水)
朝の集合時は寒かったが、多磨霊園の集合の10時15分には、気温も17℃の晴天であった。当日は、新型コロナウイルス感染対応の為、
必ずマスク着用で参加いただいた。三浦屋前広場からの参加者は、9時30分集合、9時47分と10時7分の多磨霊園駅行のバスに分かれて出発。
また、武蔵境駅や新小金井駅からの西武多摩川線、そして徒歩や自転車での参加者それぞれが多磨霊園正門に集合し、はじめに記念撮影を行った。
参加人数が想定を超えて53人となり、説明資料が足りなくなってしまった。霊園内である為、拡声器を使用し、故人の事だけでなく、
関連した事も説明した。
上原謙→甘粕正彦→夏目雅子→川合玉堂→中村歌右衛門→守田勘弥→児玉源太郎→東郷平八郎→山本五十六→古賀峯一→西郷従道→
北原白秋→三島由紀夫などの墓所で説明した。
時間の関係で予定していた、西園寺公望、徳大寺実則、高橋是清、長谷川町子の墓所は、場所のみの案内となった。
解散式は12時30分、霊園中央二十号地バス停(武蔵小金井駅南口行)近辺で行い、バスも2台に分けて乗車したりした。なお、
後発のバス乗車組には、与謝野鉄幹・晶子とディック・ミネの墓所での説明を実施した。 (参加者55名)
是政新田・関野新田を巡りました
紀行文
11月17日(火)「玉川上水に沿って是政新田・関野新田を訪ねる」 担当(織壁・柏倉・中島・曽根・閑野)
今回は小金井公園のSL広場前に9時30分 現地集合となりました。
三密を避けるという事で、4つの班に分け時間差を設けての見学会となりました。
小金井公園南側、旧関野用水跡の桜町遊歩道から東に歩きだしました。先ずは是政新田の氏神様である是政稲荷から見学です。新田開発で府中是政から来た人が祭った神社で初午の日には、小金井で一番古い嘉永6年の幟が揚げられていました。次に玉川上水に捕植された山桜に関係する「嘉永桜」旧鴨下製糸の庭にあった桜の接ぎ木である「鴨下桜」を見学しました。
続いて関野新田に入り旧関野八幡の跡を見ながら、真蔵院に入りました。
ここでは「小金井大緑地解放」の碑から見学しました。東京大緑地計画により昭和16年に買収により土地を手放すことになりましたが、戦後農地解放の一環で多くの土地が返還された記念に昭和23年に作られたものです。しかし後日談として昭和29年に小金井公園の設立が決まり又元に戻った様です。
次にお芝居にもなった有名な府中の名主出身の代官「川崎平右衛門の供養塔」を見た後
寺の名前「真蔵院」の由来が解る 関野新田の開発者 関勘左衛門の父親 甚五右衛門の法名「真蔵院勇寛義鋭」が刻まれている石碑を見た後、 現在の関野八幡を見学の後、全員の集合を待ち、記念写真を撮り12時前に解散となりました。
新型コロナウイルスの影響でしばらく見学会が出来ませんでしたが、役員会の中で対策を充分講じての実施ということになりました。全員マスク・会話は控えめにと今までとは少し違う見学会となりました。 (参加者39名)
令和2年歴史見学写真展を開催しました
説明文
歴史見学写真展を7月10日(金)~13日(月)に開催しました。
史談会では毎年7月初旬に過去1年間の史蹟・名勝・市内探訪見学会の様子を
写真展として、宮地楽器ホール・ロビーで市の後援を得て開催してきました。
しかし残念ながら新型コロナウイルスの影響で今年は3月から7月迄の見学会
は中止となり展示は昨年7月から今年の2月迄の8回分の展で示となりました
。
当会は来年2021年創立50周年を迎えます。そこで、昭和や平成初期の見学会
の写真をアーカイブとして追加展示を行い好評をいただきました。
来年は展示会も含め記念行事を考えております。
大宮氷川神社と鉄道博物館を訪ねました
紀行文
2月12日(水)「日本一の参道氷川神社と鉄道博物館を訪ねる」
担当(閑野、小林、宮崎、本田)
天気予報では日中の気温15℃程度が予定され、朝との気温差が心配される中、武蔵小金井駅8時30分発の下り電車で出発。西国分寺で乗り換え、いったん府中本町へ戻り始発に乗車し、南浦和、大宮とJRを乗り継ぎ、ニューシャトルで一駅目の鉄道博物館駅で下車。鉄道博物館入り口で記念写真撮影を行った。10時に鉄道博物館ボランティアガイドの方と合流。4班に分かれて博物館展示物の説明を受けた。御料列車とお召し列車の違い、東北新幹線の台車雪対策、SLの仕組みなど説明を聞かなければ見逃す内容の連続で大いに感動。その他、最近まで中央線で走っていた前世代のクモハ101形電車(101系電車)が展示されていたが、行先表示はなんと「武蔵小金井」となっており少し感激するなど、充実の2時間を過ごす。12時になり昼食は、博物館4階の食堂や各地の駅弁を購入し現役時代そのままの特急車内でとった。13時に鉄道博物館を後に、徒歩で氷川神社へ向かった。氷川神社は武蔵一宮で、参道は日本一の2kmの長さを誇る。かつては大宮公園も境内地に含まれ、「大いなる宮」から「大宮」の地名がついた。また、明治天皇は東京遷都の際に、桓武天皇の平安遷都の際の賀茂神社行幸に習いここ氷川神社に行幸され、武蔵国一宮とされた。拝殿でお参りした後、有名な見沼溜井の名残の神池と御神泉を見学し、解散式を行った。その後、長い参道を歩き大宮駅に戻り帰途についた。
(参加者54名)
新春の浅草・隅田川を廻りました
紀行文
1月7日(火)新春 浅草と隅田川を訪ねる 担当(織壁、岡田、佐藤(夕)、小林、垂水)
前日が寒の入りで、当日は曇り空の寒い日和であった。朝8時15分に三浦屋前広場に集合。8
時42分の上り始発に乗り、神田駅下車、東京メトロで浅草に。地上に浮かび上がって、浅草文化観光センターでトイレ休憩と点呼を行ったところ、参加者は75名にもなっており、多少時間を要し、10時10分見学へ出発した。当日の見学予定は先ず浅草七福神として、浅草神社、待乳山聖天(まつちやましょうでん)、今戸神社の3寺社、隅田川を渡って隅田川七福神の長命寺(ちょうめいじ)、弘福寺(こうふくじ)、三囲神社(みめぐりじんじゃ)の3寺社、郷社の牛嶋神社の7寺社である。
先ず5分ほどで浅草寺境内にある三社祭で有名な浅草神社へ。資料によれば恵比須神ということになっているが、正月の御開帳でも秘仏とかで見せない。一応お参りしてすぐ出ようとしたら、境内の一角で猿回しが始まり、その面白い仕草を見ていたら30分も時間をとってしまった。15分で待乳山聖天。毘沙門天は本堂内の扉の開いた厨子の中に納められていた。年に一度の大根まつりの日で大勢の人で賑わっていた。つぎに15分ほどで今戸神社へ。福禄寿は本堂正面の良く見えるところに祀られていた。境内に今戸焼発祥の地の石碑と、新撰組沖田総司終焉の地の石碑が並んで建てられていた。
隅田川を渡り、今戸神社の対岸に当たる場所に、隅田川七福神の長命寺(弁財天)、弘福寺(布袋)が建っている。長命寺は裏門から入るのが近いのだが、その横に『山本や』が二百数十年の味を伝える名物の桜餅を売っており、多くの参加者が飛びつき相当時間を費やした。長命寺の弁財天、弘福寺の布袋はいずれも本堂の正面の見やすい場所に祀られており、また隅田川七福神は参拝客も少なかったので時間は取らなかったが、それでも弘福寺で既に12時を過ぎていた。数分で三囲神社に着く。この神社は、三井越後家(三越などの創業家)の守護神として崇敬を集め、三井家先祖をまつる霊社や三井邸から移設した三角石鳥居やライオン像が境内に安置してある。恵比須神、大国神の二神は、境内の本殿左手の末社月読命(つくよみのみこと)
祠に祀られていた。
ここで12時40分だったので、解散式を行い以後は自由とした。しかし牛嶋神社までは、ほぼ全員が行動を共にした。この神社は郷社ではあるが、江戸時代には将軍家の崇敬が厚く、明治10年刊行の「東京名所図会」にも名所として記載されている。参拝後言問橋を渡り、午後1時過ぎ浅草寺へ帰ってきたが、小雨が降り出していた。ここで実質解散になり各自昼食をとり帰宅した。
(参加者75名)
渋谷を廻りました
紀行文
12月10日(火)「渋谷を歩く」 担当(柏倉、本田、中島、森)
夜来の雨が上がり青空が見え始めた8時33分、小金井駅始発の電車で移動開始。吉祥寺から合流の参加会員とともに井の頭線で渋谷へ到着。
まずは、「忠犬ハチ公」に挨拶し、再開発の駅周辺を眺めた後、スクランブル交差点を渡り、いよいよ渋谷を代表する「道玄坂」を歩き始めた。与謝野鉄幹、晶子ゆかりの「東京新詩社跡」を見た後、さらに道玄坂を上り坂上にある「与謝野晶子歌碑」を見て、関西から嫁いできた晶子の苦労に思いをはせ、また「道玄坂供養碑」を見て、道玄坂の由来と供養碑の意味を知った。
東急開発の街、というイメージの渋谷であるが、関東大震災の後、西武の前身の「箱根土地開発」が被害を受けた都心の有名店を誘致した「百軒店(ひゃっけんだな)」(今はその面影も無くなってしまった)を歩き、時期を同じくして宮益坂から遷座した「千代田稲荷神社」(もともとは太田道灌が伏見稲荷を江戸城に勧請した)にお参りをした。
次に「渋谷区立松濤美術館」を訪問。学芸員から建築家「白井晟一(せいいち)」の設計による美術館についての詳しいレクチャーを受け、その後自由に建物と開催中の「サラ・ベルナールの世界展」を鑑賞した。美術館正面にて集合写真撮影後、近隣の「松濤公園」を散策。時代に伴って変わってきたこの地の歴史を感じたところで、この見学会のハイライトともいえる「陸軍衛戍刑務所跡」に向かって松濤の坂を歩いた。途中「国木田独歩旧宅跡」を見て、NHKスタジオパークの道を挟んだ「二・二六事件慰霊碑」(陸軍衛戍刑務所跡)に到着。何故この地なのか、由来と設置団体等について学んだ。その後、刑務所の南端に位置する「陸軍用地」と刻まれた境界石を見て、当時の刑務所の敷地の広さを想像した。その後、駅に戻る道の途中今は無くなってしまった「恋文横丁跡」を確認して終了。
今回の見学会は多数の方に参加して頂いたのだが、混雑する渋谷の街中で通行人等に迷惑を掛ける場面があったのは、反省点のひとつであった。
尚、この見学会の場所とコースの原案は、本年11月にお亡くなりになった奥村氏によるもので、多数の方の参加を頂いた事を生前に報告出来なかったことは大変残念でした。ここにあらためて故人のご冥福をお祈りいたします。合掌。 (参加者 57名)
-
ハチ公像
渋谷駅といえば「忠犬
ハチ公」像。これを見て
出発 -
千代田稲荷神社
太田道灌が伏見稲荷
を勧請したのが始まりで
、かつては江戸城内に
あったが、関東大震災
にて百軒店に遷座。 -
渋谷区立松濤美術館
美術館を設計した
建築家「白井晟一
(せいいち)」に関する
説明を学芸員から
熱心に聞く -
鍋島松濤公園
この付近一帯は、
江戸時代は紀伊徳川
家下屋敷、明治になり
鍋島家が所有。茶畑を
経て宅地分譲地になった
が、この一角は東京市に
寄贈され、その後
渋谷区に移管された -
二・二六事件慰霊碑
かつて陸軍衛戍(えい
じゅ)刑務所があった
ところに建っている。
煉瓦は陸軍刑務所
の外塀跡といわれる。 -
集合写真
渋谷区立松濤美術館
の石造りの壁の前にて。
前面の建築費だけで
全体の予算を越えたと
いわれる。使用している
石材は韓国産の紅雲石
講演会を開催しました
講演会説明
小金井史談会 講演会 11月16日
2年ぶりに令和元年11月16日土曜日14時から16時、萌え木ホールで今年刊行された小金井市史を記念して講演会を開催しました。テーマは「江戸時代 小金井市域の文化の展開」 講師は小金井市史 Ⅳ近世第7章の執筆者の一人 中元幸二氏(現・国分寺市ふるさと文化財課職員) ①書の家 持明院家と大久保台六郎 ②国府算額名所の記述の変遷 ③俳諧師宝雪庵可尊という内容でレジュメではかなりの難解さが予想されたのですが、講師の巧みな口調で聴取者を飽きさせず会場は熱気に包まれました。小金井市及び小金井市教育委員会の後援をいただき、市報(11/1)・「市のお知らせ」を掲載しました。そして会員の皆さんの友人・知人などへの広報の結果、参加者69名になり成功裡に終わりました。
看板建築の町石岡と筑波山を訪ねました
紀行文
見学会報告
11月12日(火)「看板建築のまち石岡と紅葉の筑波山を訪ねる」
担当(織壁、塚田、馬淵、宮崎、松下、嵯峨山)
小金井を7時に出発、午前10時前に石岡に到着、晴天にめぐまれ筑波山がきれいだ。茨城県石岡は古代国府が置かれた常陸国の中心、常陸国分寺跡と看板建築をボランティアのガイドで見学した。石岡は昭和4年に市街地の四分の一を焼失する大火にみまわれた。その復興建築に使われたのが看板建築、現在国登録有形文化財6戸を含め約30戸が現存する。看板建築とはなんじゃ? 疑問を持ちながらボランティアの話を聞く。関東大震災後に東京の市街地で再建に看板建築が大流行。石岡はそれが伝播したものだ。東京では職人の名は伝えられていないが、石岡で多くを手がけた左官職人・土屋辰之助の名が残る。防火のために銅板やモルタルの壁面は凝った装飾風仕上げたので見栄えがする。コリントやイオニア様式の柱頭飾り、アールデコ風のレリーフ、ガラス戸の瀟洒な組子、ドイツ下見張の銅板など。参加者世代はなんともノスタルジックな景色に感動「なつかしい!」を連発した。昭和大火でかろうじて焼け残った江戸期の元染物屋「まち蔵藍」も見学した。
昼は、市内老舗料亭でお弁当を食べ、名産品、野菜などを土産にバスで筑波山に向かった。かつて筑波山は江戸や多摩地域からも良く見え、浮世絵にも描かれてランドマークであった。この日は快晴、真っ青な空を背景に筑波山の男体山、女体山の二峰がくっきり見える。ロープウェイで女体山に登る。6分で到着し、頂上へは徒歩10分ほど。年寄りがつまずいては大変なことになると、登った人は7割ほど。頂上からは関東平野全体が見渡せ、水面が光る霞ヶ浦が美しい。筑波山名物のガマの油を売る売店をウィンドウショッピングしながら帰途に着いた。小金井には6時過ぎに到着。(参加者55名)
-
常磐国分寺
常陸国分寺境内を見学。
このお堂は「都々一坊扇
歌堂」(昭和8年築)。
江戸末期に一世を風靡
した都々逸の祖として知
られる都々一坊扇歌を
記念して建てられた -
看板建築
石岡市内の看板
建築で一番古い
「平松理容館」(昭和
3年築)。見学当日は
休館だった。 -
森戸文四郎商店
市内の看板建築
「森戸文四郎商店」
(昭和5年築)。現在は
生花店。柱のレリーフ、
縦長の窓などアールデコ
調の外観は看板建築の
好例 -
丁子屋
江戸末期築の染物
屋「丁子屋」。昭和
4年の大火で焼失を
免れた。現在は観光
施設「まち蔵藍」
となっている。 -
女体山よりの眺望
筑波山「女体山」山頂
からの景色。霞ケ浦と
関東平野を望む -
記念撮影
筑波山ロープウェイ
女体山駅の広場にて、
集合写真
鎌倉幕府ゆかりの地を訪ねました
紀行文
見学会報告
10月8日(火) 「鎌倉幕府ゆかりの地を巡る」 担当(馬淵、島田、閑野、中島)
当日は、雨予想から幸い秋の好天に恵まれた見学日となった。会費徴収の際に、4種の中から昼食の注文を取った。武蔵小金井駅8時04分始発の上りに乗車。途中、安全確認が行われたため徐行運転が続き、新宿駅到着が遅れ予定していた湘南新宿ラインに乗車できず、鎌倉駅には計画より10分以上遅れて到着。駅改札口を出たところで点呼を行い、最初に若宮大路の段葛を歩き鶴岡八幡宮へ向かった。大石段の元で、平成22年に倒木した大銀杏から生えた若木を見上げる位置で集合写真を撮った。その後大石段を登り本宮に参拝。参拝を終えた後、鎌倉国宝館脇の道に出ると「一昨日この道で流鏑馬(やぶさめ」が行われたばかり」とのことで、後片付けをしていた。
鎌倉幕府の最初の将軍居館であった大蔵幕府跡(碑)を確認し、源頼朝の墓(法華堂跡)を訪ねた。頼朝の墓は幕府跡に驚くほど近い。石段を登り質素な石塔を見学。石段を下り、その奥の石段を登り北条義時法華堂跡を訪れた。健脚組は、さらに奥の階段を登り大江広元他の墓も訪ねた。鎌倉駅到着が遅れた関係で、残念ながら荏柄天神社の参詣はパスし、昼食を団体予約していた蕎麦屋「宮前」に丁度間に合った。先付けとして出てきたこんにゃく玉や大豆の煮物が非常においしく、また蕎麦や天丼も味が良く、最後にデザートとして水ようかんも出て来て、皆さん(特に女性陣には)大変満足していただいたようだった。
昼食後は永福寺跡を見学した。ここは源頼朝が奥州平泉を攻めた際に亡くなった将兵の鎮魂のために無量光院を模して建てた寺院跡で、中心の堂である二階堂が現在の地名由来となっている。最近発掘整備が進み、基壇と庭園、池が復元されている。その次に、そばにある護良親王の墓を訪れた。この墓は200段近い急階段を登る必要があり、入口のみを見学。その後に護良親王を祀る鎌倉宮を訪れた。事前に団体案内を予約していたが、神職の方から土牢や宝物館にて非常に丁寧な説明をしていただいた。鎌倉宮には鎌倉駅行の始発バス亭があり、一部の方がここでリタイアしたいとのことで、無料休憩所にて終了式を実施。
休憩後、北条氏の邸跡であった宝戒寺境内入り口を通り、東勝寺橋を経由して東勝寺跡を訪れた。ここは北条得宗家の氏寺跡で鎌倉幕府・北条一族終焉の地であり、その奥にある「北条高時腹切りやぐら」を見学。ここは一族郎党が最期を遂げた場所といわれ、今なお妖気が漂っている感じがした。ここから若宮大路幕府跡(碑)を通り鎌倉駅に戻り、午後5時すぎに小金井に帰着。 (参加者40名)
狛江を巡りました
紀行文
見学会報告
9月10日(火) 「狛江を巡る」 担当(柏倉、坂本、門川、馬淵)
当日は、前日の台風一過にて南の暑い空気が流れ込み生憎の猛暑となったが、多くの元気な方の参加を得た。8時36分発の下りに乗車し、西国分寺、
府中本町、登戸にてそれぞれ乗換え、小田急線狛江駅で下車。狛江駅構内で点呼を行った。
最初に「むいから民家園」を訪れた。ここには狛江市内の古民家、旧荒井家住宅主屋と旧高木家長屋門が移築されている。民家園の職員の方に説明をしていただいた。「「むいから」とは麦藁のことで、狛江では茅葺屋根に一部麦藁を使用していたので「むいから屋根」と呼ばれていました」、「旧高木家長屋門内には機織り機が展示されていますが、この機織り機はテレビ番組「やすらぎの刻~道」にてロケに使用されました」など。次に兜塚古墳を訪れた。ここは都指定史跡で、墳丘の残存直径約43m、高さ4mの円墳で、多くの古墳が残る狛江地域の中でも保存状態が良好な古墳である。幸い墳丘頂へ登ることが出来、多くの参加者が登頂し古墳の大きさを実感した。
その後は、この古墳からほど近いところにある伊豆美神社を訪れた。寛平元年(889年)に建てられた古社であり、もともとは多摩川沿いにあったが天文19年(1550年)の洪水で流失し、現在地に移転している。宮司には事前に説明をしていただく予約をしていたが、境内の説明に加え、拝殿内に上がらせていただき鏡や格天井に描かれた歌など、神社の由緒含め詳しい説明をしていただいた。最後に参詣の土産もいただいた。
次に、多摩川近くに移動し玉川碑(万葉歌碑)を訪れた。江戸時代に建てられたが、文政2年(1829年)の洪水で流失。大正13年に拓本を元に現在地に建てられたものである。そして多摩川沿いにある水神社を訪れた。この神社は、天文21年(1550年)の洪水により流失した元の伊豆美神社があったとされる場所にある。その後狛江駅に戻り、駅周辺で各自自由に昼食をとった。
午後は、狛江駅のすぐそばにある泉龍寺を訪問。東大寺開山の良弁(ろうべん)僧正草創と伝わり、現在は曹洞宗の寺院となっている。昭和19年までは「まわり地蔵」と呼ばれた各地域を回る巡行仏が有名であった。事前に拝観と案内の予約をしており、前住職から説明をいただいた。非常にきれいな本堂内、清楚な境内と墓所、そして平成23年に開館した泉龍寺仏教文庫(仏教関係の書籍の他、泉龍寺伝来の文化財を収蔵している)も見学、それぞれ丁寧に説明していただいた。前住職は仏教における学識が非常に深く、またお話も大変上手であった。(後で知ったことであるが、前住職(菅原昭栄氏)は東大史料編纂所の教授を務めた歴史学者であり、現在も私立大学の教授を務めている)
猛暑のため泉龍寺で解散。当初予定していた泉龍寺別院、弁財天池は希望者のみの見学とし、午後4時ころ小金井に帰着。 (参加者46名)
足尾銅山を訪ねました
紀行文
(1) 8月20日(水)「わたらせ渓谷鉄道と足尾銅山を訪ねる」担当(塚田、織壁、馬淵、嵯峨山)
作家立松和平は、足尾線(現わたらせ渓谷鉄道)を子どものころ訪ねている。「大間々をすぎたあたりから、山の中に入る。渡良瀬川に沿った美しい風景を幼い私は車窓にもたれながら眺めていたものだ。したたるような緑の中をすんだ水が流れる…『旅の暮らし』」と書いている。
6:15集合。小金井の高齢者パワーは朝に強い、6:20バスで出発。圏央道、関越道を通って順調に9時桐生駅に到着した。窓ガラスのないオープンな車両と普通車両の2両・トロッコわっしー号に分乗して出発。通洞駅まで1時間半の列車の旅。緑の美しい風景が広がる車内で昼食をとった。
通洞駅で集合写真をとり、二班に分かれて見学に向かった。古河足尾歴史館では館長さんが「足尾は鉱毒であまりにも有名になったのですが、今は緑の山々です。鉱山の歴史についても知っていただきたい」「山がはげ山になったのは、精錬から出るガスのせいもありますが明治20年の大山火事も原因です」などと語った。江戸時代の初めが全盛期で、足尾銭と言われた寛永通宝も作っていたという。明治になり衰退していた銅山を復活させたのが古河市兵衛、明治の富国強兵を支えた。
次に、足尾銅山観光に向かう。およそ5分のトロッコ列車に乗り坑道に進む。奥には約1,200㎞に達する坑道があり、東京・博多間とおなじだという。トロッコを降りひんやりした坑道を見学した。江戸時代の手掘りから、近代化された機械による掘削までリアルな人形が作られていた。坑道の外には江戸時代の鋳銭座跡の展示館があり、寛永通宝の鋳造の様子が展示されていた。
次は「鉱都足尾の迎賓館・古河掛水倶楽部」に行く予定であったが、都合で見学できず、車窓から旧精錬所跡、銅親水公園や足尾の山並みを見学して、帰途についた。渡良瀬川の川沿い、北関東道・関越道などをとおるも、時折激しい夕立にみまわれ、更に圏央道の事故不通にて渋滞に遭遇。予定より少し時間を要し、午後6時半ごろ無事小金井に帰着した。(参加者54名)
青梅を巡りました
紀行文
7月9日(火) 青梅を巡る 担当(森、島田、佐藤(夕)、宮崎)
梅雨の真最中で、朝は長袖だけでは寒いくらいの気温であったが、幸い雨は降らず終日曇。案内にアップダウンがあり長距離を歩くと書いたので、参加者は健脚自慢の35名。8時45分発の青梅行きに乗車。青梅駅のホームから改札に向かう通路には、「最後の映画看板師」久保板観さんが描く昔懐かしい手書きの映画看板が並んでいる。まずは旧青梅村の総鎮守住吉神社へ。女坂を登って境内に着くと、眼下に青梅の市街地が広がる。この神社はこの下にある延命寺を開山した季竜が、故郷摂津の国住吉大社の神を勧請したもので今年創建650年になる。
青梅は昭和をテーマに町おこしをしており、この後「昭和を楽しむ三館」を見学。昭和レトロ商品博物館では、昭和30~40年頃の駄菓子や薬などのパーケージが展示されており、子供の頃を懐かしく思い出した。二階は小泉八雲の怪談「雪女」発祥の地がここ青梅で、資料が展示されていた。赤塚不二夫会館では、昭和を代表するギャグ漫画家赤塚不二夫作品の原画や当時新発売された少年マガジンや少年サンデーも展示されており、毎週発売を楽しみにしていた往時の記憶が蘇ってきた。昭和幻燈館では、美空ひばりなど往年の銀幕スターのブロマイドや、有田ひろみ・ちゃぼの青梅猫町商店街ジオラマ、猫ばかりの作品を鑑賞、癒しの時間を過ごした。
三館見学後、延命寺や津雲邸のある路地を歩き、多摩川の畔の釜の淵公園にある青梅市郷土博物館へ向かった。学芸員から青梅の歴史や産業等の説明を聞き、特別展「青梅のいきもの」を見学した。また博物館に隣接して移築され国の重要文化財に指定されている19世紀初頭の農家「旧宮崎家住宅」を見学。この古民家前で記念撮影。久しぶりに弁当持参で、梅雨で水嵩を増した多摩川の流れを見ながら、そして鶯やホトトギスの鳴き声を聴きながらベンチで弁当を広げた。
昼食後、多摩川がこの地で巾着形に大きく曲がって流れていることを確認して青梅駅に向かった。青梅駅から河辺駅までJRで移動し塩船観音まで歩く予定であったが、その後青梅駅からバスで塩船観音まで行けるルートが見つかり、全員午後1時42分のバスに乗車。塩船観音はつつじが有名だが、この時期は本堂の東側斜面一杯に紫陽花が見事に咲いていた。約20名が一番高所に立つ観音像に行き、眼下に塩船の名前の由来となった舟形の地形を確認、遠景も楽しんだ。ほぼ全員が午後3時8分の小作駅行バスに乗車して帰路に就いた。午後4時30分小金井帰着。 (参加者35名)
北口本宮浅間神社と忍野八海を巡りました
紀行文
6月11日(火)北口本宮冨士浅間神社と忍野八海を巡る 担当(小林、間島、桜井、池田)
6月7日の入梅から四日目で、天気予報は雨だったが、幹事の念力が通じたのか、明け方まで降っていた雨は集合時間には上がり、日中は日差しも出て快適な見学会となった。朝8時10分に60人乗りの大型観光バスで小金井を出発。キューピー富士吉田工場には予定時刻10時30分より40分も早い、9時50分に到着。2班に分かれ、1班(29人)は1時間のキューピー工場見学、もう1班(28人)はバスで10分程の北口本宮冨士浅間神社を約1時間見学した。これはキューピー工場の受け入れ人数に制限があった為である。昼食は全員で浅間神社横の茶屋で名物のほうとう鍋を食べ、午後は見学先を入れ替えて見学した。
キューピー富士吉田工場は、さすがに食品工場というに相応しい清潔な工場である。見学通路と工場はガラスで完全に仕切られており、おかゆの製造では、一袋づつ米の投入、水と調味料を混ぜ加熱して粥にし、冷やして後パッキング、段ボール箱への積込みが無人で行なわれる。見学後は、試食室でおかゆ、トロピカルミックス(酢のジュース)などを試食し、最後にドレッシングとおかゆのお土産付きで、皆大いに満足した。
北口本宮冨士浅間神社は、浅間神社の格としては低いが、吉田口登山道の起点であり、平成25年(2013)富士山が世界遺産に登録された時、神社・登山道がその構成資産になったため、大いに羽振りを利かしている。境内の説明はガイドさんにお願いした。面白かったのは本殿の経緯で、始め武田信玄が造営した本殿を豊臣秀吉が横に退けて前よりも大きい本殿を作り、徳川家康がまた退けて更に大きな本殿を造った。そのため本殿の四方にある樹齢千年と言われるご神木が邪魔をしているので屋根を切欠いている。本殿、拝殿などほとんどの建造物が国指定の重要文化財である。鬱蒼とした杉木立の中の神社は荘厳な雰囲気に満ちていた。両班合流して忍野八海へ。
忍野八海とは、富士山の雪解け水が地下の溶岩の間で約20年の歳月を経てろ過され、湧水となって8か所の泉をつくる。古くは信者たちが富士登山前にここで水行を行ったとされるが、その後荒廃していた。天保14年(1843)、長百姓大寄友右衛門が忍野八海、富士講を再興し、各池に守護神の八大龍王を祀り、石碑に和歌を刻み巡礼路を整備した。平成25年世界文化遺産に登録。近年個人が人工の池を作り、多くの観光客がこの人工の池を忍野八海と誤認しているようだ。3班に分かれ、本来の忍野八海をガイドさんの説明で巡った。観光客も少なく池の底から湧水が静かに噴出るのが見えた。
15時30分忍野八海発、17時20分小金井着。 (参加者57名)
松江・出雲・石見銀山の歴史史跡を巡りました
紀行文1
5月20日(月)~22日(水)「島根 松江城、出雲、石見銀山を訪ねる」その①
担当(塚田、織壁、間島、嵯峨山、佐藤(夕)、馬淵)
史談会初めての飛行機を使っての見学会、出雲と石見を訪ねた。20日朝7時35分発の日航便で出雲縁結び空港に向かい、9時に到着、地元の一畑観光バスが出迎え。空に雲がやや多く、少し波が荒い宍道湖を右に見ながら松江中心部に向かう。途中、斐伊川をわたる。「この川はヤマタノオロチの神話の川です」と運転手さん。出雲は神話の国だ。ホテルに荷物を預け松江城に見学に行く。
松江城天守が2015年に国宝に指定されたことから、ボランティアさんの解説にも力が入る。「この城を作った大名は誰でしょう? 堀尾吉晴です。秀吉恩顧の部下で築城に優れていました」城の中に入ると、国宝指定の決定打となった祈祷札は「慶長拾六年…」とあった。1611年に築城されたことが証明された。「この階段は桐材です。火に強く、丈夫です」急な階段を登り天守最上階へ。四方の見晴らしがよい。南には宍道湖が見え、北には武家屋敷が連なる。
松江と言えば小泉八雲、『怪談』などの著作で知られる。旧居には八雲が使った机などがあり、純和風の家だ。「ここで怪談・民話を書きました」「一神教の西欧ではない日本が好きでした」。松江城の「掘川めぐり」ツアーは「橋は背を屈めないと通れません、注意!」と船頭さん。堀から見上げても見えるのは石垣ばかりだが、城の天守も少し見える。小一時間の船旅を終え、ホテルにもどり温泉につかる。この日、松江城山稲荷神社の渡御際ホーランエンヤの期間。10年に一度、約100隻の舟が大橋川と意宇川を舞台に繰り広げる大船行列。渡御の舟を見ることはできなかったが、堀川めぐり事務所で記念の手ぬぐいをタダでいただいた。いい記念だ。夕食は居酒屋で松江名物を味わう。
二日目はホテルを8時に出発、50分ほどで足立美術館に着いた。9時開館前なのにたくさんの観光バス、すでに団体客は入場開始、人気だ。足立美術館の名は聞いているが、創立者の足立全康氏は知らない。貧農に生まれ、丁稚奉公などをへて実業家として成功したとある(ひとことでは言えない)。貧しい時、横山大観の絵にふれ、絵画にめざめた。収集日本画を展示する美術館をつくるにあたって、何よりも庭園に力を入れ、背景の山々も借景にした日本庭園を造った。米国の日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」による庭園ランキングで、16年連続日本一に選ばれている。この日空は真っ青雲一つない、奇跡の晴天。日本庭園の美しいこと。横山大観をはじめとする日本画家の展示に圧倒され、一同感激。
5月20日(月)~22日(水)「島根 松江城、出雲、石見銀山を訪ねる」その②
5月21日昼頃、足立美術館を出た後は、宍道湖の水面を見ながら、大田市の石見銀山に向かう。今日は波もおだやか。宍道湖畔で昼食の後、1時間40分で石見銀山駐車場に到着。ここから先は環境保全のため電動自転車を使う。世界遺産・石見銀山ガイドの会のみなさんがお迎え。「この銀山は小金井とも関係が深いのです。川崎平右衛門は江戸中期ここにきて銀山の再興に力を発揮しました。その後3代にわたり代官をつとめました」そこから間歩(坑道)に向かう。山は緑に囲まれウグイスの声が聞こえる。「あれが千の山、山を中心に銀鉱脈があります。戦国時代「灰吹き法」が朝鮮から伝えられ生産が一挙に増えました。大名間の争奪がはげしくなりました」と銀山の歴史と銀製法を説明。電動自転車に慣れ、坂道を上って龍源寺間歩に到着。坑道にはライトがついているが暗い。暗い坑道を味わいながら約40分、鉱脈跡、横穴、立坑、水抜き坑などの解説を受けた。他のグループは熊谷家など石見銀山のお膝元で発展した大森の町並みを訪ねた。
二日目の宿は温泉津(ゆのつ)温泉だ。戦国、江戸時代は銀の積出港として、また温泉地として栄えてきた。温泉津の町は江戸の頃から配置がかわらず、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。「外湯は薬師湯と元湯があります。ぬるいほうは43度、少し熱いのは46~7度でしょうか」と仲居さんの話。えぇっ!これは大変だ。入りに行ったのは数名らしい。
三日目は、さらに青空、雲一つない。出雲大社に向かう。今回は事前に申込、正式参拝となった。特に認められて、神主さんの先導で瑞垣の中、本殿前まで行き拝礼。そして大社についての説明を受ける。「こんな晴れは珍しい。出雲は八雲たつと言われるように雲と湿気が多いのです」と神主さんは開口一番。「大社は正式にはオオヤシロと言います。今年は60年に一回の遷宮。出雲大社は、建物の建て替えではなく、檜皮のふき替えなど補修が中心ですが、檜の皮を集めるだけでも大変。総額百億円以上かかります」「祭神は大国主命です。大黒天とは違います」「朝と晩、新鮮な食事、贄と言いますが毎日お供えします」などと歴史や式年遷宮についての話を聞く。
島根県立古代出雲歴史博物館は、出雲大社を中心とした古代出雲についての展示をしている。主な展示物は、荒神谷遺跡より出土した銅剣358本・銅矛16本、銅鐸6個(以上国宝)、加茂岩倉遺跡より出土した国宝の銅鐸39個、平安時代の出雲大社本殿を再現した10分の1の模型などであり、石見銀山など旧石見国も含めた島根県全体の歴史についての展示もある。中央ロビーには、2000年に出雲大社境内から出土した宇豆柱(うづばしら)。
帰りの羽田便は、残念ながら2グループに分かれた。16時15分発のグループは博物館見学後空港から羽田に向かい、19時25分発のグループは島根半島の西端に位置する日御碕(ひのみさき)神社、古代出雲歴史博物館を見学し羽田に向かった。
紀行文2
5月20日(月)~22日(水)「島根 松江城、出雲、石見銀山を訪ねる」その②
5月21日昼頃、足立美術館を出た後は、宍道湖の水面を見ながら、大田市の石見銀山に向かう。今日は波もおだやか。宍道湖畔で昼食の後、1時間40分で石見銀山駐車場に到着。ここから先は環境保全のため電動自転車を使う。世界遺産・石見銀山ガイドの会のみなさんがお迎え。「この銀山は小金井とも関係が深いのです。川崎平右衛門は江戸中期ここにきて銀山の再興に力を発揮しました。その後3代にわたり代官をつとめました」そこから間歩(坑道)に向かう。山は緑に囲まれウグイスの声が聞こえる。「あれが千の山、山を中心に銀鉱脈があります。戦国時代「灰吹き法」が朝鮮から伝えられ生産が一挙に増えました。大名間の争奪がはげしくなりました」と銀山の歴史と銀製法を説明。電動自転車に慣れ、坂道を上って龍源寺間歩に到着。坑道にはライトがついているが暗い。暗い坑道を味わいながら約40分、鉱脈跡、横穴、立坑、水抜き坑などの解説を受けた。他のグループは熊谷家など石見銀山のお膝元で発展した大森の町並みを訪ねた。
二日目の宿は温泉津(ゆのつ)温泉だ。戦国、江戸時代は銀の積出港として、また温泉地として栄えてきた。温泉津の町は江戸の頃から配置がかわらず、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。「外湯は薬師湯と元湯があります。ぬるいほうは43度、少し熱いのは46~7度でしょうか」と仲居さんの話。えぇっ!これは大変だ。入りに行ったのは数名らしい。
三日目は、さらに青空、雲一つない。出雲大社に向かう。今回は事前に申込、正式参拝となった。特に認められて、神主さんの先導で瑞垣の中、本殿前まで行き拝礼。そして大社についての説明を受ける。「こんな晴れは珍しい。出雲は八雲たつと言われるように雲と湿気が多いのです」と神主さんは開口一番。「大社は正式にはオオヤシロと言います。今年は60年に一回の遷宮。出雲大社は、建物の建て替えではなく、檜皮のふき替えなど補修が中心ですが、檜の皮を集めるだけでも大変。総額百億円以上かかります」「祭神は大国主命です。大黒天とは違います」「朝と晩、新鮮な食事、贄と言いますが毎日お供えします」などと歴史や式年遷宮についての話を聞く。
島根県立古代出雲歴史博物館は、出雲大社を中心とした古代出雲についての展示をしている。主な展示物は、荒神谷遺跡より出土した銅剣358本・銅矛16本、銅鐸6個(以上国宝)、加茂岩倉遺跡より出土した国宝の銅鐸39個、平安時代の出雲大社本殿を再現した10分の1の模型などであり、石見銀山など旧石見国も含めた島根県全体の歴史についての展示もある。中央ロビーには、2000年に出雲大社境内から出土した宇豆柱(うづばしら)。
帰りの羽田便は、残念ながら2グループに分かれた。16時15分発のグループは博物館見学後空港から羽田に向かい、19時25分発のグループは島根半島の西端に位置する日御碕(ひのみさき)神社、古代出雲歴史博物館を見学し羽田に向かった。 (参加者 23人)
-
集合写真
松江城天守を背景に
集合写真 -
松江城
大手門跡から三の丸
へ進む階段。左上が
太鼓櫓 -
乗り合い小船に乗船
乗り合い小船に乗船し、
松江城の堀を巡る
「堀川めぐり」を体験。
左上に松
江城 -
天守閣からの風景
松江城天守最上階
の5階より、宍道湖を
望む -
小泉八雲旧居
小泉八雲旧居
入口 -
足立美術館
足立美術館の
日本庭園、枯山水庭 -
石見銀山
石見銀山「龍源氏間歩
(りゅうげんじまぶ、
坑道)」の入口
「灰吹法」と呼ばれる
精錬法で銀を
取り出していた。 -
薬師湯
温泉津温泉の
外湯「薬師湯」
人気の温泉 -
出雲大社拝殿
注連縄(しめなわ)の
長さは6.5m、重さ1t -
博物館
奥は荒神谷遺跡
から出土した銅剣
・銅矛(国宝)、
手前は加茂岩倉
遺跡から出土した
銅鐸(国宝) -
出雲歴史博物館の
島根県立古代
出雲歴史博物館の
平安時代の出雲大社
本殿(高さ48m)の
1/10模
型 -
集合写真
出雲大社本殿
を背に集合写真
武蔵野の古代中心地と中世近世要地を巡りました
紀行文
5月14日(火)「武蔵国の古代中心地と中世近世の要地を巡る」 担当(馬淵、嵯峨山、中島、岡田)
令和に替わり最初の見学会となった。小雨模様のせいか参加者数が少なかった。武蔵小金井駅8時38分発に乗り、西国分寺駅にて下車。
最初に訪れたのは「東山道武蔵路遺構再生展示施設」。線路に近い場所に、発掘されたままの姿で保存展示されている。ここから真っすぐに南に伸びる武蔵路跡を歩き、想像していたよりも大きな道路を実感しつつ市立歴史公園「史跡東山道武蔵路跡」を訪れた。ここには、かつてここから見えた東山道武蔵路と武蔵国分寺の景色を描いた絵が掲示されており、鑑賞。その後、「武蔵国分寺伽藍地北辺の溝跡」を見学し史跡の駅に移動。ここでボランティアガイドの方から武蔵国分寺資料館、国分寺、武蔵国分寺七重塔跡・金堂跡・講堂跡の説明をしていただいた。金堂跡では基壇と須弥壇が、講堂跡では基壇がそれぞれ復元されており、着実に史跡の整備が進んでいる。説明の最後に武蔵国分寺資料館に集まり、集合写真を撮った。
武蔵国分寺跡から西に歩き武蔵野線の高架下付近にて、このあたりにはかつて東山道武蔵路が通っていたことを確認し武蔵国分尼寺跡に到着。金堂跡の復元整備が進んでおり、金堂基壇(版築)の断面を見学。北府中駅から府中本町へ移動。最近整備が進んでいる駅横の「武蔵国府跡
国司館地区・徳川家康府中御殿跡」を見学。終了後、駅周辺にて各自自由に昼食をとる。
午後はまず「武蔵国府跡 国衙地区」を訪れ、国府官庁街の中心であったことを確認。国府跡から出土した瓦や塼(せん、古代のレンガ)、灰釉陶器などを展示している「ふるさと府中歴史館」を見学。ここで空模様が怪しいため、残念ながら高安寺見学の省略。その後、大國魂神社を参拝し、府中本町から西府駅に移動。「武蔵府中熊野神社古墳」を訪れた。この古墳は7世紀中頃の築造で、下の2段が方形で上段が円形の上円下方墳で非常に珍しい形。最近、古墳全体が石で覆われた築城当時の姿に復元整備され、非常に美しい姿を見せている。展示館ボランティアガイドの方から古墳に関する説明を受けた。古墳見学後、展示館にて出土遺物などを見学。「七曜文(しちようもん)」が刻まれていた鞘尻金具(さやじりかなぐ)である。また、この展示館には復元された石室模型が併設、頭にヘルメットをつけて見学した。展示館敷地内で終了式を行い、解散。武蔵小金井駅には15時50分に帰着した。 (参加者数
44名)
-
武蔵国分寺七重塔跡の礎石。
創建時は3間(10m)四方
の礎石建物で、高さは
60mと推定されている。 -
武蔵国分寺創建時のジオラマ
武藏国分寺跡資料館
に展示されている武蔵
国分寺創建時の
ジオラマ(情景模型) -
国司館地区・徳川家康府中御殿跡
武蔵国府跡 国司館
地区・徳川家康府中
御殿跡。
最近整備された。 -
熊野神社古墳
武蔵府中熊野神社
古墳。下段2段が
方形、上段1段が円形
である珍しい
「上円下方墳」。 -
復元玄室(模型)
武蔵府中熊野神社古墳展示館に設置されている、復元玄室(模型)
玄室から鞘尻金具
(さやじりかなぐ)出土。
「七曜文(しちようもん)」が刻まれていた。 -
集合写真
武蔵国分寺跡資料館
の正門(長屋門)を
背景に集合写真
常陸桜川と真壁を訪ねました
紀行文
4月9日(火)「常陸桜川と雨引観音、真壁の町並みを巡る」 担当(織壁、関口、曽根、塚田)
前日と翌日が天候不順なのに、この日は快晴、絶好の花見日和となった。朝7時20分に小金井を出発し、首都高速、常磐道を経て予定どおり桜川磯部稲村神社に到着。桜川市ヤマザクラ課の渡邉さんが出迎えてくれ、小金井との桜の交流について話された。「江戸時代に苗木が桜川から隅田川や小金井におくられています。小金井桜のふるさとです」おりしも神社の糸桜が満開、山桜もきれいに咲いていた。宮司さんも話され「紀貫之が和歌に桜川のことを詠み、平安時代から都に知られていました」など由緒を語られた。神社の拝殿と桜を背景に宮司さんと集合写真を撮った。
20分ほどで雨引観音・楽法寺。「一に安産、二に子育て・・」と詠まれる寺。参加者は何を願うか? とにかくお参りした。開祖は飛鳥時代との伝説もあるほど歴史のあるお寺。大きな観音堂、多宝塔、仁王門など多くの建物があり想像していたよりはるかに大きく、一同感心。幸運にも境内にいるといわれる孔雀を見ることができたのは10人ほどだった。真壁の町に入り、歴史的建造物の伊勢屋旅館で田舎料理の昼食。けんちん汁、桜でんぶ飯などを味わう。真壁の町は茨城・石岡から栃木・真岡へ通じる要衝、歴史ある町だ。戦国時代までは真壁氏、江戸時代は浅野氏などが治めた。江戸はじめの町割りが400年も変わっていない。木綿や絹の流通で栄えた。「幕末から明治になると商家などが立派な門を構えました」と真壁のボランティアさん。田舎の三越と呼ばれる「潮田家」や笠間藩御用達「星野家」など国の登録有形文化財を見学。15時に帰途に就き、18時前に小金井帰着。 (59名参加)
杉並の南部を巡りました
紀行文
3月12日(火)「杉並の南部を巡る」 担当(馬淵、森、柏倉、佐藤(夕))
急に暖かくなり好天に恵まれ、絶好の春の見学会日和となった。天候が良かったせいか多くの方の参加を得た。
武蔵小金井駅8時42分の上り始発に乗車し、吉祥寺経由で井の頭線永福町にて下車。最初に訪れたのは杉並区立郷土博物館。若い学芸員の方から常設展示と庭の移築古民家について、丁寧な説明をしていただいた。杉並区は、善福寺川や神田川など多くの河川が東流していることから、古代から中世、近世、近現代まで人々の営みが継続しており旧跡が多いが、説明を聞いてよく理解できた。この付近一帯は善福寺川両岸に広がる広大な和田堀公園となっており、博物館を出た後に公園内の各所を訪れた。松ノ木遺跡は、非常に多くの縄文時代から古墳時代の住居跡が埋まっているが、現在は松ノ木中学校などが建っており遺跡の雰囲気はないものの、復元住居が展示されている。残念ながらコンクリート製であった。その後、バードウォッチングが出来る和田堀池をゆっくりと一周し、大宮遺跡を訪れた。ここは高台にあり当時から神聖な祭祀域であり、時を経て大宮八幡宮の境内と重なっている。隣の大宮八幡宮は広大な境内を有し、社殿も非常に立派である。八幡宮を出た後は西永福駅まで歩き吉祥寺経由で荻窪駅へ移動、12時10分着。駅周辺で各自昼食をとっていただいた。
午後は13時20分に再開。先ず明治天皇荻窪御小休所を訪れた。明治天皇は何度かここを利用されたが、明治16年4月23日観桜のために小金井へ行幸された折もここで休息されており、小金井とは縁のあるところである。
次に訪れたのは大田黒公園。音楽評論家であった大田黒元雄氏の邸跡で、広い日本庭園が保存・維持されておりゆっくり散策できた。池には小千谷市から贈られた立派な錦鯉が泳いでいる。レンガ色の瀟洒な記念館の前で集合写真を撮った。公園敷地の隣では現在3階建ではあるがマンション建設中で、景観の面で少し残念である。歩いて5分ほどで角川庭園に到着。ここは角川書店の創始者である角川源義氏の旧宅を杉並区が寄贈を受けて改修し公開している。職員の方から庭園について詳細な説明をしていただいた。庭に実っていたキンカンを「皆さんどうぞ食べてください」と言われビックリ。おいしくいただいた。庭の片隅にある水琴窟は、雅な音色を出していた。
その次に訪れたのは荻外荘である。ここは、首相を3度務めた近衛文麿が昭和12年から住み始め、多くの重要な政治会談を行った場所で、政治に関する遺跡として国の史跡に指定されている。邸の周りは残念ながら金網の柵で囲われておりそばには近づけない。当時の客間や応接部分を含む邸宅の一部は、現在豊島区に移築されているが近い将来再移築し、元の姿に復元する計画が進んでいるようである。邸の南側には当時大きな池があったが、今は子供が遊ぶ芝生となっている。
(皆さんかなり歩いて疲れていたため、この後予定していた与謝野公園はパス)
最後に訪れたのは光明院。この寺の辺りは、昔は「荻」が生い茂っており荻寺と呼ばれ荻窪の名の由来になったといわれている。現在は残念ながら荻寺の面影はない。境内で終了式を行い、荻窪駅で解散。武蔵小金井駅には16時20分頃帰着。 (参加者 61人)
房総の村と加曽利貝塚を訪れました
紀行文
(1)2月19日(火)千葉 房総のむらと加曾利貝塚を訪ねる 担当(塚田、桜井、島田、織壁)
小金井を8時15分に出発。早春の小雨が降る中、バスで3時間ほどかけて印旛郡「房総のむら」に到着。ここは千葉県有数の規模を誇る龍角寺古墳群が
ある。まず岩屋古墳。ボランティアガイドさん「地山を利用、三段作りで一辺108mの大きな方墳を作りました。周囲に二重の堀があります」
「石室が見えます。それで岩屋と名付けられました」。次に明治32年建築の旧学習院初等科正堂を見る。重要文化財。隣村に三里塚御料牧場があった
縁で譲り受け、小学校講堂として使っていたそうだ。101号古墳は小さな古墳だが、埴輪が再現・陳列されていて見ごたえがある。ここで発掘された
埴輪の実物が風土記の丘博物館に展示されている。博物館には古墳の石室や鉄剣、鏃、古代寺院・龍角寺の瓦などを展示。「霞ケ浦周辺は古代に栄えた
時代があったのです」と。また房総のむらには江戸時代の武家屋敷、大きな農家や佐原市などの古い商家を16棟再現した町並みがある。小学生たちが
遠足にきていた。商家の町並みで集合写真。農家レストランで二色カレーセットの昼食。うまい!と評判だった。
午後、1時間ほどで加曾利貝塚に着く。待ち受けた学芸員が「国の特別史跡です。物でいえば国宝です」と誇らしく話す。ボランティアガイドさんの
解説でまわる。「全国2400の貝塚の三分の一が東京湾沿岸です。この地域は数だけでなく規模が群を抜いています」。博物館には貝類、土器、土偶、
装飾品などを展示。土器は加曾利式の名にもなった。貝類だけでなく、人骨、獣骨なども出土。「犬の骨はそろって出土、大切に狩りにつれていった
ようです」。140mと190mの環状の南・北貝塚は東京ドーム2個ほどある。貝塚断面観覧施設がある。イボカサゴ、ハマグリ、アサリなどの貝類、
犬の骨も見える。貝殻のカルシュウムで土壌が中和され、動物の骨が良好な状態で保存されているのが特色。「ここは住宅地などになる危機があり、
保存運動が行われたことも知ってください」と話す。雨も上がって3時半出発、5時半過に小金井に帰着。
(参加者58名)
東海七福神とその周辺を巡りました
紀行文
1月8日(火)初詣 東海七福神とその周辺を巡る 担当(小林、織壁、間島、岡田)
快晴だが寒中の季節通りの気温で、特に朝8時10分の三浦屋前広場の集合時には手先がかじかんだ。8時33分の始発に乗り、京急線の新馬場駅に10時10分着。
7班に分かれ、それぞれにガイドさんが付き巡った。点呼後出発。徒歩15分ほどで、まず訪れたのは近代硝子工業発祥の碑である。明治6年(1873)
この地に日本最初の近代硝子工業所が設立されたが、経営不振から解散した。碑のみが道端にひっそりと立っている。小道を入り数分で東海寺の大山墓地に着いた。東海寺は徳川家光が沢庵を招聘して創建。幕府による手厚い保護を受けていたが、明治維新後、寺領は新政府に接収され衰退。墓地は残り、沢庵墓(国史跡)、国学者賀茂真淵墓(国史跡)、鉄道の父と言われた井上勝、新しいところでは品川出身の島倉千代子の墓など
多くの有名人の墓がある。
七福神巡りの第一番は、新馬場駅横の丘の上の品川神社(大黒天) である。この神社も徳川家の保護を受けていたが、現在まで生き残って、当日は会社の団体の参詣で賑わっていた。拝殿の奥の方の正面に20cm位の大黒天が鎮座していた。参拝後、社の後ろを回った所に、板垣退助の墓があった。見学後山を下り数分で養願寺(ようがんじ、布袋尊)
に着く。天台宗の小さな寺で本尊は虚空蔵菩薩。布袋尊は本堂の賽銭箱のすぐ前に安置されていた。次の一心寺(いっしんじ、寿老人) は養願寺から30mほどの所にあり、同じような小さな寺で本尊は不動明王。寿老人は同じように前面の見やすい場所に安置されていた。次の聖蹟公園は品川宿本陣跡という石碑のみ見て通過。5分ほどの荏原神社(恵比寿)
は、和銅2年(709) の創建で、現在でも府中の大國魂神社の神職は例祭のくらやみ祭りに際し荏原神社に参詣し禊を行うほどの由緒ある神社である。残念ながら拝殿の扉は締切ってあり、恵比寿は何処に祀ってあるのか全くわからなかった。また歩いて20分程で品川寺(ほんせんじ、毘沙門天)
に着いた。真言宗醍醐派の別格本山で、本尊は水月(みづき)観音だが秘仏のため前立として通常は聖観音が置かれている。が当日は聖観音の代わりに毘沙門天が置いてあった。12時半だったのでガイドさんはここで終了。付近で各自自由に昼食をとった。
午後は京急線で立会川まで乗車。駅そばの天祖諏訪神社(福禄寿) に詣でる。1mほどの福禄寿の木像は、拝殿の中ではなく横の事務所の一部を改造し置いてある。拝んだ後その頭を撫でるとご利益がありますと札が下がっていて、皆撫でていた。また京急線に1駅乗り大森海岸駅そばの最後の七福神、磐井神社(いわいじんじゃ、弁財天)
に着く。この神社は平安時代に編纂された延喜式神明牒に記載されている古社。社殿の左の池の中に弁天島が作られており、小さな社の扉は開かれ、中に琵琶を持った弁財天が祀られていた。境内の一廓で終了行事を行い、14時30分現地解散した。(参加者59名)
アイテムデータがありません。
大磯を巡りました
紀行文
12月11日(火)師走の神奈川県大磯町を歩く 担当(関口、島田、塚田、佐藤(環))
気温が今季最低水準だった朝。2台のバスに分乗して、中町のリサイクルセンターを午前8時に出発。10時15分過ぎにJR大磯駅のロータリーに到着した。67名の大所帯のため、A,Bの2班に分かれて見学を始める。A班は、まず島崎藤村の墓に向かう。承和4年(837)
の創建と伝えられる地福寺の境内にあり、梅の古木に囲まれて静かに眠るその傍らには妻の静子さんの墓も。墓碑は文化勲章の受章者で建築家の谷口吉郎博士の設計になるもので、簡素なものだった。曇天の中、新島襄の終焉の地へ歩みを進める。石碑は愛弟子の徳富蘇峰の筆によるもので、熱心に見入る参加者もいた。そこから数分の鴫立庵へ。西行法師の歌で名高い「鴫立沢(しぎたつさわ)」に、寛文4年(1664)小田原の崇雪という人が草庵を結んだことが始まり。京都の落柿舎(らくししゃ)、滋賀の無名庵と共に日本三大俳諧道場と言われる。ここまでに1時間を要した。B
班と合流すべくJR大磯駅や澤田美喜記念館に向かう。ちなみに、B班は澤田美喜記念館を最初に見学して、地福寺、新島襄終焉の地、鴫立庵へと回っている。三菱財閥初代総帥・岩崎彌太郎の孫である澤田美喜は、戦後、混血児教育に情熱を傾けた。生前の遺思を引き継ぎ、この記念館は開設された。戦前・戦後の40年に亘って同氏が蒐集した江戸時代の隠れキリシタンの遺物や関連資料などの貴重な資料ばかりで、参加者は西田館長の説明に熱心に聞き入っていた。この後、バスに分乗、大磯港にある駐車場へ。寒さの中、参加者はバスの中で持参した昼食を済ませた。
午後は12時50分、明治記念大磯邸園の見学から始まった。明治維新150年記念として一般公開を始めた旧大隈重信邸や旧陸奥宗光邸の邸園などを参観した。公開は今年末までで、以後の公開は未定という。貴重な機会だった。次の県立大磯城山公園にある旧吉田茂邸は吉田茂首相の養父が建てた別荘が始まり。平成21年に焼失したが、平成28年に再建された。和風建築の粋を集めた造作には素晴らしいものがあった。また、次の旧三井邸城山荘をモチーフにした郷土資料館は健脚組のみが見学した。吉田邸の見学あたりから細かい雨が降り出す。朝からではなく、見学会終盤で助かった。雨の小金井に帰着したのは5時半過ぎだった。 (参加者67名)
-
澤田美喜記念館
戦後混血児教育に
情熱を傾けた
沢田美喜を記念して
建てられた。 -
記念館にて説明を聞きました。
記念館にて、隠れ
キリシタンの貴重な
資料について館長
よりの御説明を
聞く -
湘南発祥の地碑
「湘南発祥之地
大磯」の石碑 -
鴫立庵
西行法師の歌で
名高い”鴫立沢野秋の
夕暮”にちなみ崇雪が
草庵を結んだのが
はじまり。 -
旧吉田邸
外交官をへて、昭和21年から29年まで5次にわたり総理大臣。
サンフランシスコ講和
条約に調印。ワンマン
宰相として知られた。
焼失した建物は
平成28年に再建。 -
明治記念大磯庭園で集合写真
伊藤博文邸、陸奥
宗光邸、大隈重信
邸などを期間限定
で一般公開。大隈
が書斎として使って
いた「神代の間」の
前で集合写真。
多摩の酒造会社を訪ねました
紀行文
11月14日(水)多摩の酒造会社を訪ねる 担当(間島、馬淵、嵯峨山、柏倉)
この見学会は、日本酒を飲まない方、特に女性の参加者は少ないかなと少し心配していたが、お酒が飲めない方でも十分楽しめますとの企画と宣伝が功を奏したのか、結果的に多くの女性含め46名の参加を得た。当日は晩秋の見学会にふさわしい絶好の日和に恵まれ、快適な一日を過ごすことが出来た。朝8時15分に集合、8:44分発の青梅行きに乗車し、拝島駅で下車。ゆっくりと多摩川方面に歩き、約15分で石川酒造に到着。
石川酒造の正門を入って正面の杉玉が吊るしてある酒蔵の前でまず集合写真を撮った。その後、石川酒造の職員の方から敷地内の建造物や酒蔵内で丁寧な説明を受けた。酒蔵では、「三段仕込み」の理由や作業内容、「大吟醸」はお米の外側を削る精米の割合が50%以上、等々いろいろな詳しい説明を受けた。説明後は皆さんが楽しみにしていた試飲となった。新酒の他、日本酒で造った梅酒もいただけた。今回の昼食は、全員が一緒に食事できるようにとの間島幹事の企画を、石川酒造さんの特別の計らいで、国の登録有形文化財建造物(「向蔵ビール工房」の二階)を使用させていただいた。この二階は落着いた雰囲気のある非常に大きな広間となっており、予約していた仕出し弁当の素材も味も良く、大変好評であった。食前酒には、一階ビール工房の出来立て地ビールや「多満自慢」の新酒を飲むことが出来た。
石川酒造から徒歩で拝島駅に戻り、羽村駅まで青梅線で移動。羽村駅に到着する直前に塚田役員から、羽村駅北口にある「まいまいず井戸」見学の飛び入り提案がなされ、急遽見学。その後、駅南口に移動し多摩川を目指して歩いた。羽村取水堰は、多摩川の河口から54kmのところにある玉川上水の取り入れ口である。玉川上水は1653年に完成したといわれ、取り入れ口のほとりには開削に尽力した玉川兄弟の像が立っている。ここから玉川上水に沿って歩くと、ほどなく第三水門と羽村導水ポンプ所が見えてきた。ここで山口貯水池と村山貯水池への導水と玉川上水とに配分しているので、ここからの玉川上水は急に狭くなる。その後、非常に静かで緑豊かな上水沿いの小道を、途中休憩をとりながら25分ほど歩き、ようやく煉瓦煙突が見えてきた時には歓声が上がった。田村酒造に到着である。田村酒造の酒蔵には、かつての酒蔵のシンボルである「煉瓦煙突」が残っており、大変美しい姿を見せている。ここでは、酒蔵見学の他、敷地内見学で田村分水の取り入れ口も見学できた。田村分水は玉川上水からの数少ない個人分水であり、当時は敷地内にあった水車で、精米や発電に利用していたそうである。田村酒造見学の最後も、皆さんが楽しみにしていた試飲で締めくくった。併せて多くの方が「嘉泉」の新酒を購入していた。
最後に、田村酒造から徒歩5分の所にある「旧ヤマジュウ田村家住宅」を訪問。事前に小金井史談会の名前で団体予約をいれていたが、見学人数が約50人とのことから福生市教育委員会文化財係長以下4名の方から非常に親切丁寧な説明をいただいたので見学予定時間をだいぶ超え、武蔵小金井駅帰着は17時半となった。 (参加者46名)
稲城市の寺社を巡りました
紀行文
10月9日(火)稲城市の寺社を巡る 担当(坂本、佐藤(環)、中島、閑野)
JR武蔵小金井駅を8時32分に出発。西国分寺で武蔵野線に、府中本町で南武線に乗り換え、矢野口駅に9時過ぎに到着、下車し点呼。
ボランティアガイドさん2名の歓迎を受ける。今回の見学会は全工程をこの2名のガイドさんにガイドして頂いた。感謝。9時20分出発。
先ず駅の北側にある14基の馬頭観音像、矢野口渡し跡を見学。南に転じて、穴澤神社へ向かう。急峻な男坂とやや緩やかな女坂と二つの
道がある。44名の参加者中約10名が勇気を奮って男坂へ。女坂組とは頂上のお社で合流した。延喜式にある武蔵国多磨郡穴澤神社に当たると
言われている古社だ。下りは男坂組も女坂を選んで下りた。途中に「東京の名湧水57選」にも選ばれた湧水と小さな洞窟があった。
京王相模原線の高架を潜って、妙覚寺へ向かう。ここでも本堂までは踏み込みの広い階段が続く。境内には筆塚と板碑、鐘楼があった。
板碑は緑泥片岩製で享徳3年(1454)の銘があり相当古いモノだった。少し歩いて京王相模原線の京王よみうりランド駅から1駅乗車し稲城駅で
下車。天台宗妙見寺と妙見尊は明治以降も神仏習合を続けている珍しい状態で、妙見尊を妙見寺が今でも別当寺として管理している。
妙見寺から急な階段を登って、11時55分に妙見尊に辿り着く。妙見尊の星祭りは有名。境内にある星供養百年祭記念碑(大正10年(1921)の銘)には
小金井村からの3名、手水石(明治11年(1878)の銘)には1名の名を確認できた。多摩川を越えた交流の跡を示しており、この地が小金井からの
信仰の対象となっていたことがわかる。大分お腹も空いてきたが、お昼の前に訪れたのが「常楽寺」。阿弥陀堂外陣の鏡天井には、
江戸時代中期の絵師、相沢五流による飛天図が描かれており、稲城市観光課長の協力と寺側の好意で史談会一行に公開された。
午後1時前に稲城市役所に到着。地下の職員食堂で観光課長からの歓迎の挨拶を受けながら、お昼をいただく。約1時間の休憩の後、延喜式内社の
一つとも言われる青渭神社は向かう。途中、漢学者の窪全亮が明治13年(1880)に設立した私塾「奚義塾」跡に建つ頌徳碑も見学した。
10分ほどでJR稲城駅に到着。14時45分現地解散。解散後、駅横の売店でてんでに名物の梨のアイスクリームや土産物を買う姿が
目立った。約16000歩。よく歩いた。 (参加者44名)
-
穴澤神社
延喜式神名帳に記載され
ている神社の一つと
言われている。本殿の
建築は江戸時代初期の
もの。神社の南側丘陵
には大沢城址がある。 -
妙見寺
妙見寺は天台宗神
王山観音院と称し、
宝永年間に寺格に
引き上げられ妙覚寺
となったと寺院明細帳
には記されています。 -
妙見尊
妙見山の頂上にある
妙見尊は今でも妙見
寺が別当寺として管理
し神仏混合を今も残して
います。星祭りが有名で
星供養百年祭祈念碑
には小金井の人名も3名
手水石には1名の名。 -
妙見尊で集合写真
妙見尊鳥居前での
集合写真。8月7日
の蛇より行事は、ここ
で行われます。
冬至に行われる星
祭りには鉄舟揮毫の
幟が立てられます。 -
青渭神社
昔この付近に大きな
青い沼があり、その
御神霊をまつったのが
期限と言われています。
農耕や生産に霊験
あるとされています。 -
穴澤弁天社
穴澤神社の入り口
にある弁天社。
江ノ島を巡る
紀行文
6月12日(火) 江の島の見どころを巡る 担当(小林、門川、宮崎、柳澤、佐藤(環))
明け方まで台風の影響を受け雨が降っていたが、三浦屋前広場に集まった時は曇り空になっていた。混雑する新宿での乗り換え時間を考慮し、
8時に集合、8時19分の始発に乗った。新宿で下車、混雑する地下道でトイレと点呼を行い、9時30分発の小田急藤沢行に乗車。
電車はガラガラでホット一息ついた。10時42分片瀬江ノ島着。江の島の見どころ巡りの出発。先ず橋長389mの弁天橋を渡る。
急に道幅が狭くなり両側に土産物店が並ぶ弁財天仲見世通りを抜けると、大きな朱塗りの鳥居があり、江島神社の辺津宮(へつみや)への
入口であった。ここで集合写真を撮る。辺津宮へはここから相当数の階段を上るのであるが、最近はエスカーと称するエスカレーターが
造られていて今回はこれを利用した。辺津宮の祭神は宗像三女神の三女の田寸津比賣命(たきつひめのみこと)。本殿の左横に小さな奉安殿が
建てられていて、そのなかにかの有名な裸弁財天(本当の名は妙音弁財天)と八臂弁財天が祀られている。江戸時代には弁財天を本尊とする寺
であったが、明治維新後の神仏分離により寺は壊され、神社が前面に出て、弁財天は脇役となった。参拝後、またエスカーに乗り中津宮に着く。
祭神は宗像三女神の二女の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)。またエスカーに乗り、島の頂上にあるサムエル・コッキング苑に入場する。
明治期アイルランド人サムエル・コッキングが造った庭園を戦後藤沢市が買収し公開した。苑内には展望台があり、丁度その頃は快晴となり
上ると四方が見渡せた。退場後、三々五々昼食。13時30分奥津宮に集合し、参拝。2~3分歩いた所で健脚組と非健脚組に分かれ、
健脚組は白波が立ち岩礁に覆われた稚児ヶ淵に向けて急峻な階段を下る。突然、100m以上も続くオープン・スペースが視界に入る。
晴れた日には富士山が望めるそうだが、この日は雲が厚く見えない。ただただ、潮騒の音が響いていた。そのまま、歩いて第一岩屋の入り口に着く。
これは波によって浸食され造られた洞窟で、足元を照らす蝋燭を借りる(無料)。内部は年間を通じて摂氏15~18度で、ヒンヤリとした空気。
第一を出て、長さがほぼ三分の一の第二岩屋に回る。帰りの階段の登りは流石にきつく、息も絶え絶えに集合場所に辿り着いた。
非健脚組は平坦な道を歩き龍恋の鐘を見物した。帰りはダラダラとした下り坂を歩き、弁天橋のたもとで15時少し前に現地解散した。
(参加者49名)
世田谷西部を訪ねる
紀行文
5月8日(火) 新緑の世田谷・次太夫堀公園、静嘉堂文庫を訪ねる 担当(織壁、門川、小林、米山)
明け方まで激しく降っていた雨は、幸運にも集合時間の8時15分には止んで見学会中は傘を使わないで済んだ。武蔵小金井駅を8時42分に出発、
井の頭線、小田急線と乗り継いで成城学園前駅で下車、点呼後10時から歩き始めた。いわゆる成城学園を中心とするお屋敷街は駅の北側であるが、
こちら南側も称号の前に成城学園と付けアピールするマンション、商店が目立った。約30分で最初の見学地・次太夫堀民家園に到着。本園は
昭和63年(1988) 世田谷区立として野川沿いのこの地に開園した。名主屋敷(主屋1棟、土蔵2棟)、民家2棟、表門、消防小屋などを復元し、
公園内の次太夫堀や水田とあわせて、江戸時代後期から明治時代初期にかけての農村風景を再現している。ボランティアガイドさんの2班に分けた
丁寧な説明があった。各自軽い昼食後11時45分出発。野川の川岸を25分歩き永安寺へ。この寺は室町時代、第4代鎌倉公方足利持氏の家臣、
二階堂信濃守の子孫清仙大和尚により、延徳2年(1490) 開基(実際は再興)した。この寺で感心したのは、本堂の障子が1mほど開けてあり、
薄暗い中に本尊千手観音菩薩が電光に照らされくっきりと浮かんでいた。次に約10分で大蔵氷川神社へ。祭神は大己責命(おおなむちのみこと)、
素戔嗚尊(すさのおのみこと)。大蔵町の鎮守である。また10分で岡本公園民家園へ。世田谷区の有形文化財第1号に指定された旧長崎家主屋と
土蔵1棟、椀木門(うでぎもん)を復元し江戸後期の典型的な農家の家屋を再現している。裏門に位置する椀木門を出て、急坂を数分上り13時頃最後の
見学地静嘉堂文庫美術館に着いた。三菱財閥の創始者岩崎彌之助、息子の岩崎小彌太が収集した国宝7点、重要文化財84点を含む、
およそ20万冊の古典籍と6,500点の東洋古美術品を収蔵する美術館。当日は「酒器の美に酔う」という企画展が催されていた。注目の国宝
「曜変天目(稲葉天目)」が出品されていた。鑑賞時間は個々に異なるため、入場前に解散式を行い、鑑賞後は自由に退場帰宅とした。
14時頃には大部分は退場した模様。 (参加者42名)
小田原城などを巡りました
紀行文
4月10日(火) 小田原方面、大雄山最乗寺と小田原城周辺を巡る 担当(塚田、馬淵、桜井、嵯峨山)
当日は晴天となり、春らしい絶好の見学会日和に恵まれた。リサイクルセンターを8時15分にバス2台を連ねて出発。
中央道-圏央道-東名高速を走り、中井PAにてトイレ休憩し大井松田IC経由で、最初に大雄山最乗寺に向かった。
最乗寺では、ボランティアガイドの方がいらしたので、急遽ガイドをお願いした。バス駐車場からの参道はかなりの急坂であったので、
登坂が無理な方は無料の移動車両を利用いただいた。老杉が生い茂る参道を登り、多くの堂舎に関する解説を聞き、最後に有名な赤色の
「世界一の大下駄」を見学したが、ガイドの丁寧な解説により予定見学時間を大幅に超えてしまった。
小田原漁港に移動し、各自自由に新鮮な魚介類の昼食をとった。昼食後は、石垣山一夜城を見学。かなり急坂なところもあり、
健脚コース組と平坦コース組に分かれて歩いた。健脚コースでは、西曲輪跡、天守台跡、本丸跡、物見台、二の丸跡、井戸曲輪跡を見学。
物見台では小田原市内、特に小田原城天守閣や小田原漁港などが遠望できたが、皆さん小田原城天守閣を見つけるのに一生懸命であった。
一夜城は、野面積(のづらづ)み石垣を含め築城当時の姿がかなり残っており、小田原城はよく行くが一夜城は初めてという方が多く、
想像していたよりも遥かに規模が大きく立派であった、との感想が多かった。
最後に小田原城址公園を見学。ボランティアガイドを予約していたが、予定時間に大きく遅れていたため40分程度での短縮解説をお願いした。
銅門、常盤木門を通り抜け、本丸内の天守閣前広場にて集合写真を撮影。その後、天守閣に登り足早に展示資料を見学し、最後に最上階から
小田原市内、相模湾を360度遠望した。
今回の見学会では3カ所を巡ったが、どこも非常に見ごたえのある場所であったこと、また帰途の中央道にて事故渋滞に遭遇するなどして、
予定時間を大幅に超えて18時15分に小金井帰着。
(参加人員63人)
夢の島公園と葛西臨海公園
紀行文
3月20日(火)夢の島公園と葛西臨海公園を巡る 担当(島田、奥村、佐藤、米山)
彼岸の中日で、当然その日は、春の陽気と思って計画したのに、真反対の冬日の気温と冷たい雨。
(但し、一日違いの翌21日は、東京では32年ぶり降雪真冬日で運が良いのか悪いのか迷う)。当日38名の参加で一安心、予定通り
8時42分の始発で小金井を出発。東京駅地下ホームから京葉線新木場駅で下車。第五福竜丸展示館までは寒い雨の中徒歩10分、
待機していたガイドさんの説明を受ける。昭和29年(1947)、木造のマグロはえ縄漁船第五福竜丸はビキニ環礁付近で操業中、
乗組員38人全員が米国の水爆実験の放射能の灰を浴び、無線長の久保山愛吉さんが亡くなられた。昭和51年(1977)この地に廃船になった
第五福竜丸の船体、漁具類、久保山さんの船員手帳などが展示されている。約45分の見学後、次の植物館に向かう。
雨の中を歩いて来たので温室植物館に入りホット一息入れる。館長さんの温室内の暖房は夢の島内のゴミの焼却場からの熱を利用している
との説明と植えてある熱帯植物の簡単な解説があり、自由に約50分見学した。椰子、バナナ、マンゴー、カカオ、パンノキなどの大木が
植えられ実をつけていた。また水性植物、食虫植物、小笠原諸島の固有種も面白かった。
すぐ隣のBumB(ぶんぶ、文武の意という。都営スポーツセンター)内のレストランで昼食。食後の満腹感で体力・気力も回復して、
次の一駅先の葛西臨海公園に向かう。水族館入口で写真撮影。水族館は久し振り童心にかえり皆さんかなり真剣な表情で 泳ぎ回る
シュモクザメ、エイ、カツオ、マグロなどの群れに見入っていた。1年半ほど前クロマグロなど160匹が水槽内で全滅した。現在は
その後追加投入された魚達が元気に泳ぎ回っていた。丁度餌を与える時間にぶつかり、水槽の上からアジ、イカ、イカナゴなどの餌が
投入されマグロが食べるシーンが見物できた。約90分の見学後退館。15時現地解散する。希望者はクリスタルビューから東京湾を展望した。
寒さと雨の中、大変思い出に残る見学会となった。 (参加者38名)
早稲田・千駄木・根津を巡りました
紀行文
2月14日(水)明治・大正の二大文豪記念館を巡る 担当(馬淵、嵯峨山、岡田、松島)
気温の低い日が続き天気が心配されたが、当日は晴天で温かくなり絶好の見学会日和に恵まれた。8時42分武蔵小金井駅始発に乗車、
東西線早稲田駅にて下車。最初に穴八幡宮へ向かった。何故穴八幡宮を訪れるのか、との質問があったとのことで、漱石の癇癪持ちが少しでも
和らぐようにと鏡子夫人が「蟲封じ」の御参りをしたといわれる、文豪に関係する場所である、と説明。
その後、漱石誕生の地の石碑を見学し、漱石山房通りを歩き昨年9月に開館したばかりの漱石山房記念館を訪れた。ここは、
漱石が没するまでの9年間を過ごした住居(漱石山房)跡である。漱石山房は、戦災で焼失した。庭園を散策し、漱石像を囲み集合写真を撮った。
入館後、この記念館の目玉である再現された書斎の前でボランティアガイドの説明を受けた。当時撮った写真にそっくりにできている。
記念館見学後は神楽坂駅まで歩き、駅周辺で分散して昼食。昼食後、東西線・千代田線で根津駅へ移動し、漱石・鷗外両文豪ゆかりの
根津神社を訪れ、両文豪が腰掛けたという「文豪憩いの石」、「鷗外の石」と称する水飲み場などを見学した。その後、近代文学史上重要な
史跡といわれている、鷗外と漱石が時期を前後して住んだ住居跡の石碑を見学。そして緩やかな上り坂である薮下通りを歩き、鷗外が
30歳から亡くなるまでの30年間を過ごした住居である「観潮楼」跡に建つ森鷗外記念館を訪れた。記念館の方より「観潮楼」と展示資料に関する
説明を受け、庭園も散策。当時のまま残る数少ない遺物である「三人冗語の石」も見学。鷗外が住んでいた頃はここから品川沖が見えたとの
ことであるが、現在はビルの間からスカイツリーが見える。記念館を出た後は、団子坂を下り谷中界隈を歩き、岡倉天心記念公園にて
終了式を行った。その後全員で谷中銀座まで歩き、ここで午後3時ごろ解散した。 (参加者52名)