紀行文
6月18日 悠久の社明治神宮、華族の館前田公爵邸、生活の美日本民藝芸館
担当 藤井、坂倉、白倉、島田、小林、織壁
想定外の未曽有の暑さ、6月観測史上記録を更新するなかで、悠久の杜明治神宮から華族の館前田侯爵邸、生活の美を謳った日本民藝館と、明治を巡る見学会でした。法外な暑さに参加人数を心配しましたが、それでも42名の参加、午後の部の駒場東大前に降り立った人数は精鋭31名、会員のエネルギーに圧倒される1日になりました。
明治神宮は初詣で知られていますが、その広大な規模、特に知られざるオアシスである荘厳な杜と庭園に焦点をあて、咲き誇る花菖蒲田のある御苑と百年の杜を歩きました。
午後は駒場に場を移し、東大教養学部を横目に歩き、前田侯爵邸のある駒場公園で前田侯爵の和館と洋館の壮大な邸宅に明治の絢爛と華族の生活を知り、次に隣接する民藝活動の拠点、柳宗悦が設立した日本民藝館で庶民に息づく用品の美を堪能し、終日の活動を終えました。
さて、少々のトリビア。
明治神宮は、加藤清正の加藤家の下屋敷敷地で、井伊家・前田家と大大名の下屋敷が並んでおり、新宿御苑は内藤家下屋敷であり、神宮外苑一帯から駒場公園は広大な加賀百万石下屋敷でした。
下屋敷は、大名家の下級武士や小物達を次の参勤交代まで住まわせるところで、大大名ともなれば供の人数も千人を優に超し、大変な物入りになります。そこで知恵を絞ったのが下屋敷での食料生産。下級武士は下屋敷で鍬を握り、国元から持参した郷土の作物を栽培して自給自足。それが江戸野菜として根付くのです。有名なのが内藤南瓜(かぼちゃ)、今では品種改良で見向きもされませんが当時は評判となっていました。自給自足から市販して小遣い稼ぎ、ひいては内々で商売という流れです。下屋敷というのは幕府の統制が緩く、そういったことが出来たのでしょう。ちなみに評判の内藤南瓜は江戸野菜として定着、当時の新宿御苑は南瓜畑だったとか。
御苑の菖蒲田は、水利を基に一面田圃で、加藤家の上屋敷・中屋敷の米を賄っていたようです。江戸という区域は今の東京と違い、千葉に広がる町で両国から深川を境に東に広がり発展しました。理由は今様に言えばロジスティクス、物流の便、端的に言えば川と運河です。その点山の手は、大多摩川のみで江戸の守り以外は伏流水となり生活に役立たない。稲作経済にこれは致命的でした。赤坂見附の地名通り、四谷周辺で江戸を区切りその外に広大に拝領させたのが下屋敷。西の守りと開発委託を担わせたようです。
そして明治になり、藩領は没収され明治政府と天皇家の所領となり、今に残る名園や史跡公園の多くが恩賜公園となり現代に引き継がれて、歴史と共に自然を残す貴重な遺産となりました。その代表となる明治神宮。明治天皇と昭憲皇太后を祀り、大正九年に創立され約70万坪の敷地に17万本の樹木を茂らせ、自然のままを残す貴重な百年の杜となっています。隣接する代々木公園は陸軍練兵場跡で、東に目をやれば表参道を通り神宮外苑、その先に赤坂御用地、東宮御所、迎賓館、そして皇居と続くグリーンベルトの要です。
そして江戸時代の加賀百万国、その末裔が明治を彩った華族文化を象徴する前田侯爵邸、隅々にまで華族の華やかさと贅の極みと過ぎし時代の残り香が漂っています。
更に、一転して隣接の地に、民衆が使い込み、使い込まれた故の美を見いだし世に知らしめる民藝運動に昇華させた柳宗悦の住まいであり、同時にそのコレクションを展示する日本民藝館、おりしも開催されていた日本有数のコレクションを誇る棟方志功展は圧巻でした。
暑さに苦しみながらも、終日熱心にお付合い戴いた皆さんに改めて感謝致します。
参加者 42名 (内31名は午後の部も参加)