活動報告

佐倉を訪れました

紀行文

佐倉城下町と国立歴史民俗博物館を訪ねる       3月11日(火)   
佐倉は江戸と佐倉城および成田山新勝寺を結ぶ佐倉街道の交通の要衝にあり、城下町として栄えました。城跡や武家屋敷群が現存し、街並みは日本遺産に認定されています。
午前七時すぎに小金井を出発、東関東自動車道をとおり、最初に向かったのは佐倉順天堂記念館。NPO法人佐倉一里塚のボランティアガイドさんの解説で佐倉順天堂、旧堀田邸、武家屋敷を見学しました。わかり易くとても勉強になりました。
順天堂記念館では日本の医学の近代化に尽くした功績を伝えるため資料や医療器具などを展示しています。天保14年、当時の佐倉藩主堀田正睦が招いた蘭医の佐藤泰然(たいねん)が開いた医院で、蘭学塾。明治時代の医学を支えた人材が多数輩出され、現在の順天堂大学は、泰然の養子の佐藤尚中(たかなか)が開設したものです。
旧堀田邸は多くの大老、老中を輩出した佐倉藩の最後の藩主・堀田正倫(まさとも)の明治期の邸宅。玄関、座敷、居間、書斎、湯殿および、土蔵、門番所の七棟が国重要文化財です。庭園はさくら庭園という愛称で、自然の地形を利用した美しい造りで国指定名勝です。集合写真を撮りました。
佐倉武家屋敷は、道に面して門を設け、生垣・土塁を築き、その奥に玄関や庭があります。菜園をつくり、屋敷の境界には木を植え、背後の斜面は竹藪になっています。屋敷は、藩が所有し、藩士の家格や役職に合わせ貸しあたえられます。旧河原家は大屋敷で最も古い。旧但馬家は元からあった場所にあり中屋敷。旧武居家は百石未満の藩士が住む小屋敷にあたります。屋敷地の形状や植栽に当時の武家屋敷の特徴をよく残しています。
一時すぎに国立歴史民俗博物館に到着。レストランさくらで昼食をとり、見学しました。歴史学、考古学、民俗学の資料を展示し、日本最大級の規模を誇る博物館。佐倉城址の北側にあり、広大な敷地には、先史・古代から現代に至るまでの資料がテーマ別に、たくさん展示されています。とても時間がたりませんが、それぞれの興味で見学した後、三時半に現地を出発し帰途につきました。担当 垂水、織壁、白倉、塚田  参加者(45名)

2025年03月11日

日野と高幡不動を訪ねました。

紀行文

令和7年(2025年)2月5日(水)   土方歳三のふるさと日野と高幡不動を訪ねる
今回は、二班に分けて「日野新選組ガイドの会」の4名の方の案内で見学しました。日野宿本陣は名主を務め、土方歳三の義兄で新選組の支援者として知られる佐藤彦五郎の旧宅で、近藤勇、土方歳三、井上源三郎らも訪れた新選組ゆかりの建物です。本陣は宿屋と違って、大名や幕府役人など身分の高い人の宿泊所です。都内に残る唯一の街道の本陣建築で、東京都の史跡に指定されています。
土方歳三資料館は新選組副長である歳三が子供のころに住んでいた家の跡地にあります。歳三が池田屋事件で使用した鎖帷子、八月十八日の政変時に使用した鉢金、土方家伝来十文字槍(銘:助宗)、稽古に用いた天然理心流木刀、京時代使用の鎖帷子、さらに歳三も行商をした土方家の家伝薬である石田散薬に関する史料などを公開しています。館長の土方愛さんの解説で見学しました。その後、石田寺にある土方歳三の墓をたずねました。歳三は明治2年、北海道函館にて戦死。享年35歳でした。
井上源三郎資料館は新選組六番隊組長、井上源三郎の生家。八王子千人同心を代々務めた井上家。源三郎の兄・松五郎は佐藤彦五郎に天然理心流を紹介したと言われています。源三郎は、慶応4年鳥羽伏見での官軍との戦いで銃弾を腹部に受けて戦死、享年40歳。館長の五代目子孫・井上雅雄さんが天然理心流の型を見せてくれました。
高幡不動尊は真言宗智山派別格本山「高幡不動尊金剛寺」で関東三大不動の一つ、高幡不動尊として親しまれています。新選組土方歳三の菩提寺としても知られています。記念写真を撮り、午後1時解散しました。
                      担当(織壁、塚田、森、垂水、間島) 参加者(47名)

2025年02月05日

新年の川崎大師を訪れました

紀行文

厄除けの川崎大師で初詣        令和7年1月14日(火)
 新年はじめての見学会は関東の厄除け三大師の一つである川崎大師での初詣です。川崎大師の正式名は「金剛山 金乗院 平間寺(こんごうさん きんじょういん へいけんじ)」と言います。
 その昔、平間兼乗(ひらま かねのり)が42歳の厄年のとき、夢のお告げに従い海中から引き揚げたお像をお祀りして供養を続けると、兼乗はそのご加護ご利益をいただき自身の厄が除かれました。そして、高野山の尊賢上人とともに平間寺を建立。以来、「厄除けのお大師さま」として全国的に知られ、厄除け、家内安全や交通安全、商売繁盛、健康長寿など諸願成就にご利益があると言われています。
その川崎大師と合わせて訪れたい表参道や仲見世商店街も魅力的です。
今では当たり前の「初詣」ですが、その発祥は川崎大師だという説もあります。三が日の初詣客は全国3位と言われるほどで、1月中は大変混雑するそうで、混雑が予想されることから、今回は川崎大師のみの見学会としました。
 8時30分にイトーヨーカドー前広場に集合し、3班に分かれて立川駅を経由して、JR川崎駅に行き、人数確認をして、京浜急行の川崎駅に向かいました。そこから5分ほど歩くと、京浜急行川崎駅です。電車で3つ目に京浜急行川崎大師駅があります。
川崎大師駅を降りてすぐに『京浜急行発祥の地』の碑がありました。関東で初めて、全国では3番目にできた電気鉄道の創設を記念して作られたものです。京浜急行電鉄が創立70周年を迎えた昭和43年に発祥の地である川崎大師駅に車輪をかたどったモニュメントが建立されました。モニュメントの下部には、開業当時の内容が書かれていました。「明治5年に日本で初めて鉄道が開通してから、新橋~横浜間を蒸気機関車が走り始めました。そこで川崎駅から川崎大師への参拝客の多さに注目した資本家の立川勇次郎が、明治31年に京浜急行の全身である大師電気鉄道を創設しました。開通日は川崎大師平間寺の縁日にあたり、参拝客以外の見物人が大勢押し寄せて、数十人の警官が整理に当たるほどのにぎわいだった」そうです。
この広場は整備されており、「けいきゅん」という京浜急行のマスコットキャラクターの木彫りのモニュメントもあり、ここで、集合写真を撮りました。
混雑を考慮して、ここで解散。それぞれが、川崎大師の初詣を楽しみました。
担当【佐藤(環)・閑野・中島・坂倉・間島】(参加者 33名)

2025年01月14日

港区高輪とその周辺を巡りました

紀行文

冬の寒さが厳しくなった朝、武蔵小金井駅前に早くから集まった元気な史談会会員は、朝の通勤ラッシュにもまれながら四ツ谷駅から白金台駅を目指した。
はじめに訪れたのは江戸時代に中国から伝えられた禅宗・黄檗宗の東京の中心寺院である瑞聖寺。高層マンションが立ち並ぶ都心の一角に大雄宝殿(本殿)が中国風の趣きある佇まいで静かに建っている。国の重要文化財に指定されている。庫裡は2018年に建築家隈研吾氏の設計により再建された。大きな水盤風の池が配され、美術館を思わせる壮麗な空間である。
港区立郷土歴史館は昭和13年に、東大安田講堂を設計した内田祥三による鉄骨・鉄筋コンクリート造。外観はスクラッチタイルで覆われたゴシック調の外観で威風堂々とした建物。旧公衆衛生院であったものを保存・改修し、港区の郷土歴史館として再生された。幕末維新期を中心とした展示物や建物の意匠は見どころ満載で3つの班に分かれて見学。この歴史的建物をバックに、全員で記念撮影。
隣の東京大学医科学研究所の正門を入ると、左に近代医科学記念館がある。レンガ風の建物は血清製造のため、多くの馬を飼育していた。その気高い命と栄光を讃えて当時の厩舎を模した建物となっている。北里柴三郎などの業績や伝染病研究の歴史的資料の保存と紹介をしている。
レストランが併設されて、そこで昼食をとった。事前に注文しておいたイタリアンレストランのカレーは美味しかった。
48人で赤穂義士の墓をお参りした
食後は地下鉄で白金台駅から1駅の白金高輪駅で下車。立行寺にある大久保彦左衛門と一心太助のお墓に詣で、旧細川家下屋敷跡にある大石内蔵助切腹の地を見学し泉岳寺へと向かった。白金・高輪は起伏にとんだ街で坂が多い。途中、高輪区民センターの直通エレベーターを利用して坂を登らず近道をした。このエレベーターは5階までの直通エレベーターで住民の通行路となっている。
泉岳寺で一次解散。帰宅組は先に高輪大木戸跡を見て高輪ゲートウェイ駅に向かった。
泉岳寺の見学組48人は赤穂義士の墓をお参りし、高輪大木戸跡を見て帰路についた。時計は15時半をまわっていた。 (参加者58名)
担当(塚田・白倉・岡田・坂倉・間島)  

2024年12月10日

ロケで有名な大森邸などを訪れました。

紀行文

見学会報告  有名なロケ地大森邸と東小金井散策
11月12日(火) 担当(閑野、太田(祐)、中島)
 久しぶりの東小金井駅集合です。天気は晴天、夏の歴史見学写真展でも大森邸を見学出来るのですか、
会員外でも参加できますかと聞かれたことから、人数が多くなりそうな予想はありました。
 事前に担当役員以外にも、受付等お手伝いお願いしました。会員だけでも74名となりましたので、2班に分け時間差を作り大森邸に向かいました。
東大通りを南に行きハケにぶつかる手前に大森邸はあります。重厚な表門、桜の古木が風情を与えています。ここは武蔵野公園・野川の散歩をする人の通り道でもあるので、中は如何なっているのか、気になっていた人も多かったのではないでしょうか。
大森邸は昭和40年に中野から移築されました。建物は大正期に建てられた近代和風建築です。一度に全員建物には入れないので、3班に分かれてもらい1班10分を目途に1階2階を見学してもらいました。
現在では手に入らない様な長い軒柱、広い廊下、大きなガラス窓、素敵な照明などを拝見しながら、思い思いに記念写真を撮っていました。残りの班は庭からの見学になりました。ここで名残惜しいのですが、次の見学場所に向かいました。大森邸を出て東に行くと西武多摩川線にぶつかります。
ここが、いちご橋です。東町の1丁目と5丁目を結ぶ橋でいちご橋との解説を聞きながら、トイレ休憩をお願いして置いた、公民館東分館のロビーで一休みした後、                
笠森稲荷に向かいました。赤く塗られたたくさんの鳥居を通り、参拝の後、もともとは屋敷内社で竹松稲荷と呼ばれていたが、明治42年の一村一社令で小金井神社に合祀され、昭和21年現在地に遷座した事、2月の初午には遠くからも参拝者が訪れていて賑わっているとの解説がありました。
次に南関野天神社に向かい参拝の後、本殿は小金井神社からの移築といわれる祠。扉の内側には梅とウグイスが描かれていて、正月には鶯が鳴いたとの伝説がありますと、貴重な写真を見ながらの解説を聞きました。ここで時間になり、一次解散とし、新小金井駅・東小金井駅を案内して解散となりました。
大森邸楽しんでもらえたと思います。(参加者99名)

2024年11月12日

渋沢栄一縁の深谷を訪れました。

紀行文

2024年 見学会報告

10月8日(火) 深谷・渋沢栄一ゆかりの地を訪ねる      担当(馬淵、太田(祐)、閑野、白倉)
10月初旬の見学会ということで秋晴れを期待していたが、生憎終日の雨模様となった。参加申込者数は申込締切り時点では募集人員を少し超えていたが、開催日近くになり体調不良や都合が悪くなってのキャンセルが相次ぎ、結局50名の参加者となった。予定通り7時15分に出発。関越自動車道を走り花園ICで下りて深谷市内に入り、最初の見学先である渋沢栄一記念館に9時40分到着。
今回の見学会見学先は一度の収容人員が少なく、2班に分けて見学した。渋沢栄一記念館は、渋沢栄一に関する多種多様の資料が展示されている。また渋沢栄一アンドロイドによる講義室があり論語に関する講義が聴けるが、残念ながら収容人員と時間の関係でパスした。
次に渋沢栄一の生家である「中の家(なかんち)」を見学。現在の「中の家」は、渋沢栄一が育った当時の家ではなく、家を継いだ栄一の妹夫婦によって明治28年に再建されたものである。二階建ての建物で規模が非常に大きい。ここでも渋沢栄一アンドロイドによる渋沢栄一に関する説明があった。1階奥の上座敷は、栄一が帰郷した際に滞在するために造られており、最上級の建材が用いられている。二階は養蚕に使われていた。
昼食は、近くの割烹「若菜」にて、この地の郷土料理である「煮ぼうとう」の定食をいただいた。
午後の最初は、渋沢栄一の従兄で論語をはじめ多くの学問の師である尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)の生家を訪れた。生家は江戸時代末期の商家の建物の趣を残している。尊王攘夷に関する謀議をしたと伝わる2階の部屋は、現在非公開ということで見学できなかった。生家奥の裏庭では藍が育てられていた。
次に、当初世田谷にあった第一銀行の保養・スポーツ施設集会所2棟の建物が取り壊されることになり、2000年に深谷に移築され保存復元された誠之堂(重文)と清風亭を見学した。それぞれ第一銀行頭取であった渋沢栄一と栄一の後を継いで頭取となった佐々木勇之助ゆかりの建物であり、大正時代を代表する建築物として高い評価を得ている。
最後に、かつて深谷では煉瓦が製造されており、その煉瓦を製造した旧煉瓦製造窯跡他を見学した。煉瓦製造の最盛期にはホフマン式輪窯と呼ばれる巨大な窯が6基稼働していたが、現在では1基のみが遺されている(重文)。平日は内部見学ができず、冊の外から見学した。明治28年に、煉瓦を製造施設から深谷駅まで運ぶ引き込み線が引かれ、その際窯跡近くを流れる備前渠に架かる鉄橋が造られ、今も遺されているその鉄橋(備前渠鉄橋(重文))を見学した。
以上で見学を終り帰途についたが、途中高崎線深谷駅を車窓から見学した。深谷の地で製造した煉瓦が東京駅にも使用されたことで、深谷駅は1996年に東京駅を模した橋上駅に改築されている。小金井には予定よりも早い17時30分に無事帰着した。      (参加者50名)

2024年10月08日

奥多摩・日原を訪れました

紀行文

奥多摩町・日原をたずねる 9月10日(火)
9月に入っても猛暑が続く中、涼を求めて東京都の西の端、奥多摩町日原をたずねた。
下見に行った際、窓口で「鍾乳洞内は急な階段が多く高齢者は転倒のリスクがある。けがをしても救急車が来るには50分以上かかる」と釘を刺されたので、見学案内に、足腰に自信のある方!と厳しく書いた。この為か参加者は47名だった。
予定より一本早い武蔵小金井8時27発青梅行で出発。青梅で奥多摩行に乗り換え、10時7分奥多摩駅に到着。鍾乳洞行のバスの追加をお願いしてあったので10時15分発の2台に分乗して鍾乳洞へ向かった。日原川沿いの道路を曲がりくねりながら10時45分に鍾乳洞到着。奥深い山を背景に記念撮影して、500m先の鍾乳洞入口に向かった。
日原鍾乳洞は関東でも最大級。総延長1,270m、高低差134m。洞内は年間を通じて気温11度で上着を着ても、真夏から真冬になった感覚、涼しいより寒いほど。天井が低く頭がつかえるところを通り奥へと進む。石灰岩が長い年月を経てつくり出した自然の造形に驚きを覚えた。昭和37年に発見された新洞は高低差と急階段があり健脚の方のみ挑戦、約40分の洞窟見学を終えた。
そして鍾乳洞上の洞門沿いのコンクリートに並んで昼食。目の前の小川谷の渓流や木々を眺めながらそれぞれ弁当に舌鼓を打った。12時10分からは近くの巨岩、梵天岩、燕岩、籠岩を見て、約2キロ先の森林館まで山々を眺めながら歩いた。途中の稲村岩は、高さ300mの巨岩で姿が美しい。
森林館には12時50分に着いたが、帰りの東日原バス発車時刻が13時15分なので駆け足の見学となった。奥多摩町は日本一巨樹が多い町だ。館内には、ミズナラの巨木のレプリカ、巨樹の写真や絵画などが展示されている。時間が無くてじっくり見学できなかったのが残念だ。2台のバスで東日原から奥多摩駅まで全員無事に戻った。温泉・もえぎの湯に行く人、ワサビを買いに行く人以外は、13時55分の電車で帰路についた。
評判が良かったのはトイレがきれいだった事。これは7年前に「オクタマ・ピカピカ・トイレ(OPT)」が発足、3名のクリーンキーパーが20ヶ所あるトイレを清掃しているとのこと。奥多摩町は自然もトイレも日本一美しく何度も来たくなる町だと思った。新規入会者2名、非会員2名 (参加者47名)
担当(森、太田義、太田祐、福崎)

2024年09月10日

館山を巡りました

紀行文

2024年08月27日  里見八犬伝の地・館山・南房総を訪ねる
愛犬八房の気を感じて懐妊した伏姫の数珠から「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八の玉が飛び出し、里見家を守る八犬士の若者となる。江戸時代の伝奇作家・曲亭馬琴が書いた「南総里見八犬伝」舞台の館山を訪ねた。
東京湾アクアラインから、館山道をとおり鶴ケ谷八幡宮に到着。この神社はかつての安房国の総社。拝殿の向拝には安房を代表する彫物大工後藤義光の彫刻がある。特に天井にある「百体の龍」は義光の代表作だ。
館山城は戦国武将里見氏の居城。里見氏は上野国の出で、15世紀末に安房を本拠とした。上杉管領、後北条氏などが入り乱れる戦国時代を戦い抜き徳川幕府の大名となったが、鳥取・倉吉へ国替えとなり、その後改易となった。
館山城八犬伝博物館へは、急な坂道を15分ほど登る。「滝沢馬琴とは本人は言っていません。曲亭馬琴です…」などと学芸員さんの案内で、展示を見る。天守を模した建物の最上階から館山湾、東京湾の絶景が見晴らせる。
海岸におりて、日本一長い「夕日桟橋」に向かう。豪華客船も寄港するという。先まで歩くと10分近くかかる。海風が心地よい。昼食は、漁師料理たてやまで海鮮料理を堪能した。
数日前から台風10号が来るぞとの予報があり、実施できるか心配した。思ったより「鈍足・迷走台風」で、影響がないことがわかった。アクアラインも桟橋も波はおだやかで予定通りの見学となった。
担当(垂水、閑野、織壁、桜井、間島) 参加者(45名)

2024年08月27日

上野・お茶の水博物館を訪ねました

紀行文

見学会紀行文
7月9日 上野とお茶の水の博物館等を訪ねる 担当(島田、塚田、垂水、太田(義)、白倉)
前々日は梅雨中での記録的猛暑になり、府中は40℃近くを記録し危険アラートが出た。そのため『参加者は少ないのではないか』と危惧したが嬉しいことに48名参加で、皆さん好奇心旺盛・会話を楽しむ。これらは日頃健康でなければできない。史談会々員は元気者ばかりと改めて感心した。今回は暑さ対策のために上野、お茶の水の博物館を訪ねた。
上野駅改札を出ると目の前が既に公園で、私事になるが、上野といえば西郷さん銅像、を想像する。周辺整備で隔世の感がした。小道を少し歩き日本最初の国立音楽教育を先導した奏楽堂(入り口横に滝廉太郎像)、その近くに西洋絵画の技法を広範囲に指導した黒田記念館(黒田清輝)。日本の黎明期で先駆者の努力が偲ばれる。
ここから徒歩10分程で東京国立博物館を見学する。入場は70才以上の証明証(健康保険証、マイカードなど)を提示すれば無料となり終日見学できる、国内外の美術品が網羅されていて、とても一日見学では困難なほどの展示がなされている。海外旅行者と思われる団体、家族の見学も多く、興味津々で日本文化に触れ神妙な気分で思案する姿が見られた。この建物前で集合写真撮影を行う。少し気温も上昇しはじめ、次のお茶の水へ向かう。
明治大学博物館では朝ドラの【虎に翼】展を開催していた。大学卒業生で52年前、史上初めて法曹の世界に飛び込んだ一人の女性三淵壽子が男世界の困難に立ち向かい道を切り開いた姿を描く。 他には恐ろしい犯罪・拷問道具、考古学の展示などガイドさんの説明を受けた。昼食時となり校舎の高層ビル・リバテイタワー17階でスカイラウンジの気分で学食を頂だき高揚感満点だった。
その後徒歩10分程にあるロシア正教会ニコライ堂で敬虔な説明を受け清楚な気分で現地解散した。小金井着4時半、天気予報の小雨には幸い会わなかった。                 (参加者48名)

2024年07月09日

講演会を行いました

講演

小金井史談会歴史講演会

小金井史談会写真展の最終日7月1日、小金井宮地楽器ホール小ホールで10時より定期講演会を開催。演題「赤穂浪士の討入りと国学者荷田春満(かだのあずままろ)」。やや地味な内容で少し心配したが来場者は80名(会員45名、非会員35名)の募集定員ちょうど。國學院大學名誉教授根岸茂夫様を講師に迎え、100分の熱演でした。
荷田春満は筆名で本名は羽倉斎(はくらいつき)。赤穂浪士討入りの元禄十五年十二月十四日吉良邸での茶会開催情報をもたらしたのは春満、という今までの概念を覆す内容でした。元禄十五年十二月十三日大石三平宛の荷田春満の書状が赤穂大石神社蔵に保存されており、その写しが当日資料として提供されました。映画・ドラマ・小説の「赤穂浪士・忠臣蔵」は大高源吾が茶人山田宗偏から得た情報を基に大石良雄が討入りを決断、十五日未明に吉良義央の首級を獲る、というのが通説でした。講演では、荷田春満の歌人・国学者の人生や徳川吉宗の享保改革にも参画した業績に触れ、その人となりを勉強しました。
講師の根岸先生は今年3月國學院大學を退任されたこともあるのか、語り口調が柔らかく、独自の仮説を聴くことが出来ました。例えば、赤穂浪士は47人ではなく120人位だった(目的達成のため第2、第3弾の組織があったのでは)とか討入り当日は47人以上だったなど。これらを纏められて世に出されることを願います。 (参加者数 80人)

2024年07月01日

会津方面一泊で訪問しました

紀行文

6月16日(日)~17日(月) 会津若松方面の歴史と文化財を訪ねる  担当(織壁、馬淵、佐藤、垂水)
1日目
今回は、小金井からバスでの往復の見学会。朝7時15分、予定通りに出発することができて一安心。日曜日で道路は空いている。東北自動車道を順調に走行。最初の予定より1時間ほど早まったので、「大内宿」の前にサプライズとして用意していた「塔のへつり」を見学することができた。短時間ではあったが、阿賀川の浸食作用により生み出された塔が並び立つような奇観を、吊り橋を渡りながら眺めた。皆さんは到着直前に案内したので、おおよろこび。
その後、最初の見学先である重要伝統的建造物群保存地区「大内宿」を見学。現地下郷町観光公社のガイドに案内してもらう。明治期の鉄道開通により街道はさびれたが、「半農半宿の宿場」であったため宿場はすたれず、よく整備された茅葺屋根の家屋が立ち並んでいる。宿場の奥の見晴台から眺める宿場の眺めは絶景であった。昼食は、多くの人がこの地域で有名な「ネギそば」を食した。店の人から「どんぶりを顔に近づけてネギで食べてください」と言われた。
会津若松市に移動し、三時半に予約していた鶴ヶ城を見学。城は戊辰戦争で大きな被害を受け、当時の建造物はほとんど残っていないが、濠や石垣は立派である。本丸跡に土居晩翠の「荒城の月碑」が建っていたので、皆で「荒城の月」を合唱した。そして昭和40年に再建された天守に登り博物館となっている内部を見学。
初日の見学を終え、宿泊ホテルへ。休憩後、会津迎賓館で夕食をとり懇親を深めた。
2日目
朝8時15分にホテルを出発。最初に、白虎隊の若き隊士が自刃した飯盛山にむかった。隊士の墓は飯盛山の中腹にある。きつい坂を上る必要があるが、スロープコンベアがあり皆さん安心して登ることができた。墓近くに、隊士自刃の地があり、ここで隊士たちが最後に望んだ鶴ヶ城の天守を眺めることができた。
次に、白虎隊士の墓のそばにある「さざえ堂」を見学。ここは、旧正宗寺の観音堂で、今は個人所有となっている。さざえ堂の階段は、「二重らせん構造」で、上りから下りまで一方通行で、人とすれちがうことなく見学できる。近くの白虎隊記念館は希望者が見学した。
次の見学先は会津武家屋敷で、団体は見学と食事がセットになっており割安感がある。敷地は7千坪と広大。その中でも再建された家老西郷頼母邸は非常に立派であった。部屋数は28もあり、藩主を迎える書院造の「御成の間」もしつらえられている。
会津武家屋で昼食をとり、最後の見学先である猪苗代湖畔にある野口英世記念館を訪れた。以前は野口英世の生家だけであったが、現在は生家のそばに立派な本館がある。さらに感染症ミュージアムも併設。生家では、幼名清作が「てんぼう」といわれた左手に大火傷を負った囲炉裏が印象的。本館には子供の頃の成績やその後苦学して米国に渡り医学研究者として大成する過程が展示されている。
二時に野口記念館を出発し、帰途についた。その後バスは順調に走っていたが、東北自動車道は事故渋滞で、1時間近くノロノロ運転が続いた。小金井帰着は予定をやや過ぎ7時近くとなった。(参加者数 26名)

2024年06月16日

東京湾唯一の自然島、猿島を訪れました

紀行文

6月11日(火)東京湾にある無人島「猿島探検記」 担当(太田祐、桜井、藤井、小林,閑野)
いまは無人島であるが、むかしの縄文・弥生時代には人が住んでいたという。三浦半島の付け根、横須賀から1.7kmに位置し、東北から南西に長く、全長約500m。広さは55ha、小金井公園の約2/3の面積である。  
横須賀の新三笠桟橋から280人乗りの船で10分、砂岩の崩れかけた岸壁に到着する。海底に堆積した砂泥がいつしか隆起し39mもの高みになった。そこからの東京湾を見渡す景観と、まったく「無傷」の戦争遺跡を見ることができる。
島の地理的特徴が、江戸、東京を防御する適地と認識され、備えはペリー来訪時には始まり、明治・大正と続いた。この太平洋戦争で島に軍指令部を設置し、要所に高射砲を10数台据え付けた。弾薬庫をつくって大量貯蔵し、その補給路を敵に察知されないようにトンネルや切り通しで確保し、発電設備も設けた。それらのすべてをレンガで表装し万全であった。しかし、その機能が果たされることはなかった。米軍機は島の東を素通りして東京に向かい、一度も爆撃されることもなく、島の高射砲は一度も発することがなかった。米軍の情報収集力は優れており、この島を攻撃の対象とせず「素通りせよ」という指令を発したのであろう。残念であったのか、よかったのか。いまその無傷の戦争遺跡を見ることができるのである。
猿島という島の名について。鎌倉中期、日蓮聖人が千葉の上総から小舟で三浦半島に渡る途中、暗雲垂れ込められ方向を見失った。その時ここで白い猿に出会い、島の中央まで導かれたという。その上陸地点は当地に明示されているが、「危険」なので近づけない。今、島内には猿は一匹もいない。
小金井で58名が集合して武蔵小金井駅で乗車し、朝の雑踏時の新宿駅で乗り換えて品川駅に到着、京浜急行に乗って横須賀中央駅で再集結した。そこで参加者10人を加えて20分歩く。出発してから約3時間、一人の欠落もなく目的の新三笠桟橋に到着した。島内では自由行動で1時間、全員定刻までに帰着して船に乗り横須賀へ戻った。
終了後の自由参加の「軍港巡り」は秀逸であった。イージス艦を何艘も見た。(参加者68名)

2024年06月11日

牧野記念庭園、石神井公園を訪れました

紀行文

5月15日(水)牧野記念庭園・石神井公園を巡る 担当(森、嵯峨山、太田〔義〕、白倉)
五月晴れの中、牧野記念庭園、石神井公園を訪れた。参加人数は75名。約1万歩と案内していたので、参加者数は多くても60名と考え、念のため70部用意していたが、資料が足りなくなった。昨年のNHK朝ドラ牧野富太郎を主人公とした「らんまん」の効果は絶大であった。今回は、ご夫妻での参加が5組、非会員の参加が10名もあった。
練馬区立牧野記念庭園は、西武池袋線の大泉学園駅から約10分の地にあるが、武蔵小金井駅からは、西国分寺で武蔵野線に乗車して新秋津駅下車、約7分歩いて西武池袋線秋津駅へ行き、更に大泉学園駅へと、距離的には近い割に何度も乗り換えが必要であった。
大泉学園駅から歩いて10時前に牧野記念庭園に到着。入口には牧野博士が植えられた栴檀(せんだん)の花が見ごろで、我々を迎えてくれた。牧野博士の銅像前で記念写真を撮り、3組に分かれて、約1時間職員の案内でビデオ鑑賞、展示室、庭園を見学した。牧野博士の偉業を実感できた。
牧野記念庭園のみの方約10名とはここでお別れし、約25分歩いて練馬区立石神井公園ふるさと文化館分館へ到着。練馬区の文化人壇一雄などの展示や五味康祐の愛用したオーディオ機器などを見学した。続いて石神井公園に入り、豊島氏が太田道灌に敗れて自害した照姫を祀った姫塚を見学、塚にはシラカシの大木があった。三宝寺池は、三宝寺池沼沢植物群落として国の天然記念物に指定されており、カキツバタが咲いており、ゴイサギ、アオサギ、シラサギ、カイツブリなど水鳥も多数いて自然の豊かさを感じさせた。池の畔に石神井城址の碑があり、かつて石神井城を築きこの地域を支配した豊島氏を偲んだ。
12時45分から公園内のベンチで昼食。新緑の木陰の下で持参した弁当に舌鼓を打った。腹ごしらえした後は石神井公園に隣接する道場寺と三宝寺を見学。道場寺は南北朝時代の1372年豊島氏の菩提寺として創建。唐招提寺の金堂風の本堂、三重塔、鐘楼そしてサルスベリ、クロマツ、アカマツの巨木などがあり禅寺らしい静かな佇まいの寺であった。隣接する三宝寺は三宝寺池の名前の由来になっている寺で、豊島氏の祈願寺として創建された真言宗の寺院。午後2時15分頃ここで解散して根本大塔、平和大観音像、四国八十八霊場碑などを自由見学。三々五々JAあおばバス停から荻窪に向かった。(参加者75名)

2024年05月15日

吉見の百穴などを巡りました。

紀行文

4月2日(火) 埼玉・聖(せい)天宮(てんきゅう)、吉見百(ひゃく)穴(あな)、妻沼(めぬま)聖(しょう)天山(でんざん)見学            担当(織壁、島田、佐藤、藤森)
久しぶりの晴天に恵まれ、バスによる見学会が開催された。最初の見学地は埼玉県坂戸市にある国内最大級の道教のお寺、聖(せい)天宮(てんきゅう)。バスは圏央道坂戸インターを降り田園地帯を約1.5km走る。突然、車窓から黄色い屋根瓦と色鮮やかな龍の飾りが見えると参加者から歓声が上がった。聖(せい)天宮(てんきゅう)である。拝観開始時刻より早く到着したので、聖天宮入口前で依頼していたガイドさんを待つ。
聖天宮は台湾出身の康國典(大法師)が台湾から宮大工を呼び寄せ十五年の歳月をかけ平成七年(1995年)に建立した寺である。龍を主体とした彫刻、釘を使わずに楠材を組んで作った螺旋天井、楠の一枚板の扉の彫刻等、一見の価値あるものばかり。龍尽くしの装飾に彩られた聖天宮は辰年の今年にふさわしい見学会の場所であった。
次に向かったのは、今から百一年前の大正十二年(1923年)に国の史跡に指定された吉見百(ひゃく)穴(あな)。古墳時代末期(六世紀末から七世紀後半)の横穴墓である。太平洋戦争末期には、航空機エンジンの部品を製造する地下軍需工場が造られ、巨大なトンネルが数多く掘られたため、十数基の横穴墓が壊された歴史を持つ。ここでは、横穴墓、地下軍需工場のトンネル入口と横穴墓の一部に自生している国指定天然記念物のヒカリゴケをガイドの説明を聞きながら見学した。百穴と命名されているが、実際には二百十九基の横穴墓がある。
 最後に熊谷市妻沼にある妻沼(めぬま)聖(しょう)天山(でんざん)歓喜院(かんぎいん)を訪ねた。二班に分かれてガイドの案内で見学した。宝暦十年(1760年)に再建された本殿「歓喜院聖天堂」は、平成十五年(2003年)から八年かけて行った平成の大修理により、傷みや剥落した色彩が甦り、平成二十四年(2012年)七月九日に国宝に指定された。日光東照宮を彷彿させる本格的装飾建築である。この本殿「歓喜院聖天堂」は、庶民の浄財によってできていることもあり、羽目彫刻には七福神、象、麒麟、龍、鳳凰、猿などの動物、四季折々の遊びに興じている子供等、平和な世の中での姿がモチーフとなっている。また技術的にも漆を何度も塗り重ねて精巧な表現がされていることにも目を奪われた。約一時間の見学を終えて、東松山インターから一路武蔵小金井に戻った。
 今回は、第一級の芸術作品を鑑賞できた一方で、文化財や天然記念物を今以上に失ってはならないと再認識した見学会でもあった。                 (参加者58名)

2024年04月02日

小金井公園で懇親バーベキューと文化財センター

紀行文

3月19日小金井文化財センター見学と小金井公園で懇親会バーベキュー     担当(垂水、織壁、役員全員)
 桜の開花はいつだろう? と気にしながらの見学日となった。3月19日、小金井文化財センターで「小金井桜の今昔」と題して、生涯学習課の高木さんを講師に勉強会を行う。「今年は、小金井桜が国の名勝指定になって百年です」「小金井桜はヤマザクラ。開花の早いもの、遅いものがあります」「江戸中期、将軍吉宗の命で、川崎平右衛門が小金井の上水堤に奈良・吉野、茨城・桜川の苗を植えました」「桜は大正期には1400本もありました。戦後に玉川上水が止まると環境が悪化、700本まで減ったが、今は900本を超えるまで復活しました。」「整備は始まったばかり、桜並木とノカンゾウ、ニリンソウなど足元の草木が復活します」「府中農業高の生徒と市民団体が植樹、補植、苗木の育成をしています」などと小金井桜の昔と今を解説した。文化財センターは展示替えのため休館、3月22日からは季節展「名勝小金井桜」が行われる。
 文化財センター・浴恩館前で記念写真を撮り、玉川上水の平右衛門橋をわたり小金井公園に向かう。この付近の上水はケヤキなどの大木が伐採され、土手、堤に背の低い桜が植えられている。将来が楽しみだ。10分ほど歩いてバーベキュー会場へ。昨年9月に行ったバーベキューが好評、春の実施となった。参加者それぞれ、食材と飲物を用意。5つのテーブルに分れて、調理。幹事がコンロ、テーブル、イスなどを売店で用意した。各テーブルでは食事をしながら懇談した。「BBQ盛況で楽しく歓談できました。2回目となれば皆さん慣れたもので 次回も期待します。準備段階からこまごまと気配りお疲れ様でした!」などの感想が寄せられています。春まだ浅く、少し寒かったが、皆さん楽しい時間を過ごした。参加39名(懇親会33名)

2024年03月19日

登戸研究所跡を巡りました

紀行文

2月14日(木) 秘密戦・登戸研究所を探索する 担当(嵯峨山、小林、福崎、中島、金澤)
2月14日はバレンタインデー。早朝より晴れ渡り3月下旬並みの暖かいとの天気予報。
1月の見学会後の案内や役員会で、「資料館内が狭くガイド2名、学期末試験中」などのネガティブな情報を流したにも拘わらず予想外の49名が参加されました。昨年7月4日の山田朗先生講師の講演会の反応がよかったからでしょう。
武蔵小金井→立川→南武線・登戸⇒小田急線・生田の行程で明治大学生田キャンパスを目指しました。キャンパスは高台にあるので北西門の地域産学連携研究センターの建物内のエスカレーターを利用するつもりが建物内工事で立入禁止。止む無く急階段を登る羽目に。史跡の1つである生田神社(弥心(やごころ)神社)前で、学内遺跡探索スタート組と資料館(陸軍登戸研究所第二課が研究施設として実際に使っていた建物の一つ)見学からのスタート組に分かれ、DVD⇒資料館内ガイド案内⇔学内史跡巡りという2時間のプログラムでした。
登戸研究所の研究内容やそこで開発された兵器・資材(風船爆弾・ウイルス兵器・生物兵器・毒物・スパイ機材・偽札・偽造パスポートなど)などは人道上・国際法規上に大きな問題を有するものが多数ありました。戦争の暗部ともいえる部分を直視し、戦争の本質や日本軍が行ってきた諸活動の一端を学びそして平和を考えるきっかけになれば幸いです。参加者49名(うち2名新入会員)

2024年02月14日

下谷七福神を巡りました

紀行文

1月10日(水) 下谷七福神めぐり            担当(坂倉、塚田、小林、岡田)
 下谷七福神めぐりは、根岸~下谷~竜泉~三ノ輪にあり、およそ1時間30分で回れるコースです。
1月10日、お天気に恵まれ、8時47分、武蔵小金井駅を出発し、鶯谷駅の北口に出ると、私たちと同じような団体が何組か集合しており、狭い広場が大混雑でした。前もって依頼していた台東区のボランティアガイドさん5名と合流して、参加者は5つのグループに分かれて「いざ出発!」
 寿老神の「元三島神社」は駅前にあり、蒙古襲来の折、勇将河野通有が夢のお告げで勧請したことが始まりです、寿老神は中国道教の神であり、延命長寿・福徳を授ける神とされています。
次は「恐れ入谷の鬼子母神」。朝顔市で有名です。言問通りを歩いていくと真正面にスカイツリーが見えます。鬼子母神は、安産、子育ての守護神として信仰されるようになりました。ここに祀られているのは福禄寿。中国の仙人に由来するといわれ、安産、子宝、金運、長寿の神です。
 次は三面大黒天が祀られている英信寺です。浄土宗の寺院。三面大黒天は右に弁財天、左に毘沙門天の顔を持つ大黒様。ヒンズー教の神で出世・開運・商売繁盛などの御利益があります。
 隣接して毘沙門天が祀られている法昌寺。法華宗、本門流の寺院です。元プロボクサー・コメディアンのたこ八郎の「たこ地蔵」が皆様の無病息災を祈願して合掌しております。毘沙門天はインドの神様で仏教の四天王の1人です。古代インドでは武人の神様、日本では財福の神様。
 昭和通りを越え少し行くと、不忍池の姉妹弁財天である朝日弁財天があります。弁財天はインド由来の神様で、芸事、金運の神様。
 次に国際通りを越えて、飛不動尊正宝院。「空飛ぶお不動さま」として旅人の守り本尊、災厄消徐の祈願寺として信仰され、「はやぶさ」の無事帰還のご利益でも有名です。ここは、日本由来の恵比寿神が祀られ、釣竿を持ち、鯛を抱える漁業の神様。商売繁盛の神様です。
 少し歩くと一葉記念館です。地上3階・地下1階の構造。大人数の為、広場で記念館の職員さんが、2回に分けての説明。館長さんにも他の団体より優先していただくというご配慮を頂きました。そして、全員で記念撮影。
 最後の寿永寺は徳川秀忠公の供養のために秀忠の正室お江の方の侍女寿永法尼によって建てられました。布袋尊は夫婦円満の神。大きく笑っているお姿は温かい気持ちにしてくれました。三ノ輪駅まで3分。福を頂き、午後1時前、無事終了。
(参加者64名)

2024年01月09日

三渓園をなどを巡りました

紀行文

12月12日(火) 三渓園と金沢文庫・称名寺の史跡を訪ねる 
担当(太田、小林、白倉、垂水)
ヨーカドー前に7時10分集合なのに、20分も前に薄暗い雨の中、参加者が続々と集まり始めた。「トイレは済ませてください。バスの席取りはやめましょう」と大きな声で受付を開始。参加費の受領、釣りや資料のお渡しなど。テキパキと処理し、キャンセルもあったが、定刻の7時半には余裕で出発した。
少し渋滞がありながらも多摩川に沿って走り、予定通り1回の休憩をとり、定刻の10分前には三溪園に到着。天気に強いと自負する人達のお陰?で傘なし。現地のボランティアガイドによる解説・見学が始まった。
三溪園はこの千年間の日本建物園で、小金井たてもの園と姉妹園を思わせる? 野球場を4つも集めたほどの敷地にお宝の重要文化財の建物が17もある。かなり山や川があって、ステッキに頼りながら元気に登っていく。紅葉の時期は過ぎていたが、落ちた真っ赤なカエデの葉が雨に濡れて重なっている。
次の金沢文庫の見学時間も決まっており、集合は時間厳守、みなさんきっちりと集まる。旅慣れた集団だと改めて思う。金沢文庫は文字通り古文書ばかりで猫に小判? 係の解説にはみなさんの興味はそれぞれ。見学時間を持て余した人も。称名寺の池の周りを思いおもいに歩いた。
帰りは、行きより半時間も短縮、5時には帰着。心配していた傘もささずに晩秋のいい旅だった。
(参加者50名)


2023年12月12日

内藤新宿を巡りました

紀行文

11月14日(火) 晩秋の内藤新宿を菊薫る新宿御苑まで歩く
担当 (塚田、森、嵯峨山、坂倉、佐藤)
 例年より寒いとの予報であったが、晴れの気持ち良い天気であった。出発は8時59分の始発。さすがに9時近くであり楽に座れたのだが、三鷹駅到着時、「西八王子・八王子間で支障が起き、急ぎの方は総武線・地下鉄線に乗り換えて」とのアナウンス。あわてて乗り換え、荻窪駅で地下鉄丸ノ内線に乗り換えた。
最初の見学地は花園神社。さすがに酉の市の本拠地、驚くほどの提灯の数。幕のかかった露店の隙間から僅かに見える熊手、3日前の酉の日に来たらさぞかし賑やかだったろうと思われた。この神社は牛込区の総鎮守である。南に出て、伊勢丹前に出る。ここは昔追分といわれ、甲州街道と青梅街道の分かれ道だった。この道を東へ5~6分行くと成覚寺・正授院。
成覚寺は内藤新宿の「飯盛り女」(遊女)の投げ込み寺として有名で小さいながら、いかにもという雰囲気がある。遊女と客で心中した男女18人を供養する旭地蔵や子供合祀碑という飯盛り女(宿主は遊女を子供と呼んだ)が病気などで亡くなった者達への供養碑もある。また、寛政の改革を皮肉って自死に追い込まれた黄表紙本の先駆者、恋川春町(本名倉橋格、静岡小島藩年寄本役120石)の墓もある。成覚寺の東隣が正受院。こちらは咳止めに効くと大評判で、お礼の真綿を頭に乗せた脱衣婆や、第二次世界大戦中に供出された当院の釣鐘が、米国に渡り残されており、17年ぶりに返却され、平和の鐘と呼ばれている。隣の寺と違い明るい寺であった。
正受院を出て南へ5分ほど歩くと内藤新宿の名の元となる内藤家(3万3千石)の菩提寺太宗寺である。江戸初期、新宿御苑も含めてこの地に膨大な下屋敷を持っていた内藤家は、太宗寺に8千坪近くの土地を寄進、また甲州街道の一宿目が高井戸で遠いとのことで、新しい宿を1698年に造ることになりこれにも協力した。ところがこの新宿が宿としてではなく遊里として発展、享保の改革で風紀粛正の為一度廃宿となりながら復興し、吉原や品川をしのぐ花街となってしまった。今の新宿も似たような所があり、太宗寺の内藤家の墓石も50数基あったものが今は3基しかなく、本堂が白く洋風で教会に見え、本坊(住職の住むところ)がホテルの様なのも、新宿の生命力なのかなと感心してしまった。
更に南に歩き新宿御苑北側を四谷大木戸へ向かった。この道には横に玉川上水が再現されており小金井橋の流れがここまで来ていたのかと感心。大木戸跡と水道碑を見て一時解散となった。御苑見学、新宿歴史博物館、帰宅と3組に分かれて帰途についた。                 (参加数61名)

2023年11月14日

国立劇場歌舞伎鑑賞会

紀行文

10月13日(金)国立劇場歌舞伎鑑賞会
 秋晴れの清々しい天候に恵まれた国立劇場に43名(残念ながら当日1名欠席)が参集。
劇場は昭和41年以来57年間を経て建て替えとなる。最後の歌舞伎公演となる10月は「初代国立劇場さよなら特別公演」として、義太夫狂言の名作「妹背山婦女庭訓」が9月に引き続き、2か月連続で通し上演された。この演目の歌舞伎での通し上演は平成8年以来だ。
もとは明和8 (1771)年、大阪竹本座で人形浄瑠璃として初演。同年歌舞伎にも移されて上演を重ね、人気演目となった。
舞台では尾上菊五郎が体調不良で休演となったが、藤原鎌足の蘇我入鹿討伐の史実に様々な伝説を取り混ぜて、架空と実在の人物を、時蔵・芝翫・菊之助・歌六などの役者が熱演、大満足だ。幕間で御膳をいただき、イヤホンガイドの解説に至福のひと時を過ごした。
(参加者 43名)

2023年10月23日

群馬・桐生を訪問しました

紀行文

10月17日(火) 織都(しょくと)の栄華をしのぶ・群馬桐生を訪ねる  担当 (織壁、桜井、閑野、馬淵)
桐生が絹織物の生産地ということは聞いたけど来たのは初めて、と多くの参加者の感想。
小金井を7時半すぎバスで出発、関越・北関東自動車道をとおり10時半すぎ桐生着。群馬大理工学部で、織都桐生案内人の会のガイドさん7名が迎えてくれる。早速、同窓記念会館の前で集合写真。「大正5年、桐生高等染織学校の講堂として建てられ、玄関アーチの意匠などにイギリス・チェダー様式の影響が見られます」とガイドさん。国の登録文化財だ。桐生天満宮は桐生54ヶ村の総鎮守。「ご存じ湯島天神などとともに関東五大天神の一つです。家康公からこの土地を賜り、ここから南に桐生新町の街並みが整えられました」「社殿の見事な彫刻にご注目ください。地元の名工関口文治郎によるものです」 文治郎は榛名神社、三峰神社、聖天宮(国宝)も手がけた名工。当初の極彩色は失われているが精巧な彫刻に一同感激。絹織物の工場が立ち並んでいた地域は国の重要伝統的建造物群になっている。ノコギリ屋根が特徴の工場。京風の店構えの商店。火災を防ぐ漆喰の外壁。銅板の屋根に白磁のタイルの豪華な金融業の事務所。近江商人が開いたという矢野園は酒、みそ、しょうゆの醸造をおこなっていた。これらの往時を思い起こさせる風景・建物をガイドさんの解説で見てまわった。矢野園には桐生ならではのお土産があり、店内は史談会で満員。見学時間の二時間はあっという間に終了した。昼食は、地元の名物だというヒレカツご飯とひもかわうどん。 ちょっと量が多かったけど美味しかった。2時すぎに桐生を出発、関越道をとおり5時前に小金井着
 参加者の感想。「桐生の街並みを見てかつて栄えていたことがわかった。天満宮の彫刻素晴らしい。ボランティアガイドさんの解説とてもよかった。明治、大正、昭和の近代化を支えた絹産業を改めて勉強した。どこもそうだけど人通りなくさびしい。 車窓から見た赤城、榛名、妙義の山がきれい」  (参加者 54名)  

2023年10月17日

小金井公園でバーベキュー

説明文

9月12日(火)たてもの園見学と小金井公園で懇親バーベキュー  担当(垂水、太田義守、島田、白倉、渡辺)
史談会の江戸東京たてもの園の見学は14年ぶりだ。今回は、見学後に公園でバーベキューを組み合わせた企画。午前10時たてもの園前に集合。園でボランティアガイドをしている史談会の会員が用意した招待券を一部使って入場した。3グループに分れてボランティアをしている会員が説明をした。
参加者に聞いてみると意外にも「たてもの園には何回も来たけど、きちんと説明を聞いたことはない」という人がほとんどだった。限られた時間でみどころ3棟を中心に解説。前川國男邸は日本の近代建築をリードした前川の自邸で昭和17年に建てられたモダニズム建築の傑作だ。三井邸は昭和27年に建てられた明治期の流行を反映した和洋折衷の住宅。高橋是清邸は栂(つが)を材料とした総栂普請。2階は昭和11年の2・26事件の暗殺現場だ。ウィークデーで一般の見学者は少ないが、目立ったのは外国人観光客。「ウェアーカムフロム?」と聞くと「イスラエル」という。建築を勉強しているとのことだった。
下町エリアの子宝湯前で集合写真を撮り、バーベキュー会場へ移動。
史談会でバーベキュー会をするのは初めて。参加者がどのくらいか心配したが、申し込みは40人ほどの大所帯になった。木陰に会場をセット。グリルも3台。幹事があらかじめ火を起こして待機。参加者は、肉、ウィンナー、魚干物、キャベツ、とうもろこしなどを持ち込んだ。幹事がバーベキューに腕をふるう。緑の木陰で、ビールやジュース、ワイン、酒、ブランデーなどを手に、食べながら、話がはずんだ。
「楽しい会だった。大成功!」という声が聞こえた。暑い一日だったけれど、会員どうしの交流・懇親も楽しくできた今回の見学会だった 。(参加者52名)

2023年09月15日

宝登山、長瀞、嵐山博物館を廻りました

紀行文

9月22日(火)埼玉・宝登山、長瀞、嵐山博物館を訪ねる   担当(垂水、織壁、佐藤、坂倉)
恒例の集合場所、三浦屋前の広場ではタワマンが作り出す日陰のおかげで涼しい風が頬を撫でる。7時半、これまた冷房のよく効いた大型バスは総勢47人を乗せ、長瀞町に向けスタート。
9時50分、「宝登山神社」に到着。幹事の坂倉さんの強い「コネ」により登場した禰宜さんから丁寧に神社の縁起を聴いた。権現造りの本殿(社殿)の左右にある欄間に施された、8話の親孝行話が描かれた彫刻の見事さにうなずく。
バスに戻り、「宝登山ロープウェイ」乗り場に。標高453.0㍍の山頂駅へ5分で到着した。山頂はとにかく涼しい。ほとんどの参加者は徒歩で「宝登山神社奥宮」へ進む。山麓駅より少し薄暗く、霊験あらたかな気がする。神社の「奥宮」は山頂駅から徒歩6分の距離で、参加者の健脚ぶりを発揮してお参りした。ロープウェイで下り、バスで昼食会場に着く。さっそく、「長瀞の岩畳」で集合記念撮影。帰りはお土産を買う参加者もいた。
今回の参加費(会員)は6800円。これは全国旅行支援の1000円を引いた金額。さらに2000円のクーポン券もついた。合計3000円の大判振る舞いに参加者から歓声が聞こえたような気がした。
釜めし、ざるうどん、天ぷらなどの盛りだくさんの料理が並んだ昼食。その後にお土産を買い込んで、名勝の「長瀞の岩畳」を散策した参加者も。宝登山神社や長瀞では渋沢栄一の足跡(功績)を目の当たりにした。郷土の埼玉県が生んだ名士である。
長瀞を後にしたのは13時50分ごろ。「嵐山史跡の博物館」のある嵐山町を目指す。長瀞町から嵐山町まで所要時間は約1時間。同じ埼玉県内だが、距離はある。この博物館は鎌倉時代の武蔵武士・畠山重忠が居住していたといわれる国指定史跡・菅谷館跡のなかにある。
 冷房のよく効いた博物館本館を出て重忠像を目指して城郭跡を歩く。高さ10㎝位の草を踏みながらあるくと、久しぶりの「草いきれ」が。小金井の市街地ではそうは味わえない。ふと、松尾芭蕉の句「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」を思い出した。ここは奥州藤原氏とは何の関係もないが、城跡であることは間違いない。小金井に17時半帰着。(終)

2023年08月22日

甲州古道・府中大國魂神社・高安寺を訪れました

紀行文

7月11日(火)
甲州古道とディープな大國魂神社・府中宿・高安寺城跡を訪ねる
                                            担当(閑野、森、坂倉、福崎、太田義)
前日は気温37度以上の猛暑となり、当日も同じような暑さが予想された。予報通り朝から蒸し暑く、酷暑となるのは確実の状況で、果たして何人の参加があるのか・・・。ある意味、興味津々だったが、結果は46名の男女が参集した。この方々はまさに史談会の岩盤会員なのだと思った。今度は熱中症の心配をしなければならなかった。
三浦屋前広場で受け付けを終えた方から、随時 バスで府中駅に向かった。数人の方は直接府中駅で受付。全員でケヤキ並木を通って大國魂神社へと歩き出した。
途中、源義家の像の近くで、並木の由来などについて簡単な説明を行なった。早くもみなさんバテ気味で、列は乱れがちである。いよいよ、大國魂神社の大鳥居をくぐり、参道に入る。まず参道中程左手にある、宮之咩(みやのめ)神社に参拝し、由来など簡単な説明を行う。安産の神様で、安産のお礼に奉納された底の抜けた柄杓がたくさん並べてあったのが印象的であった。次に、ご存じ川崎平右衛門が、享保年間に寄進したという随神門へ向かう。この門には「象」が飾られている。平右衛門が「象洞(ぞうほら)」という、象の糞で作った疱瘡の薬の販売で儲けたお金で寄進したことに由来するという。門をくぐったところで、六所宮(大國魂神社)の七不思議の説明を行なった。その後、拝殿で参拝し、本殿の周りを巡って行った。ご神木の大銀杏や、小造りで質素だが厳かな東照宮などが見られた。
一巡り終えると、暑さはいよいよひどくなってきた。水分補給は大丈夫か? 気分の悪い人はいないか? 幹事の心配はつのるばかり。結局、ここらで解散した方がいいということで、武蔵国府國衙跡の見学は中止とし、随神門を背に集合写真を撮って、解散式を行った。
残る行程の高安寺までは元気のある方だけ向かうことにした。しかし結局、岩盤会員のみなさんは、ほとんどの人が高安寺を目指して歩き出した。すさまじい根性だ。途中、くらやみ祭御旅所・問屋場跡・国鉄下河原線跡を通り、11時40分ころ最終目的地の高安寺に着いた。11時45分に鐘が鳴るということで、まだ少し時間があると思っていたら、入り口付近で鐘の音が聞こえた。タイマーが狂っていたのか、ここの鐘は全自動で3回しか鳴らないので、撞木の打つ様子は見ることはできなかった。最後に、寺の裏手にある「弁慶硯の井」を見学した後、ぼけ防止の地蔵様に一礼をして、三々五々家路についた。
幹事一同、熱中症や事故もなく、何とか無事に終えられたことに安堵した。ある意味、いい経験だったが、7月の歩きはかなり危険レベルだと痛感した。                              (参加者46名)

2023年07月11日

写真展・講演会を開催しました

報告

7月1日から小金井宮地楽器ホールマルチパーパススペースで行われていた小金井史談会歴史見学写真展の最終日の4日、小ホールで10時から公開講演会を開催しました。
明治大学文学部教授・平和教育登戸研究所資料館館長の山田朗先生を講師に迎え、演題「秘密戦:本土決戦・登戸研究所・中野学校」を90分フルに語っていただきました。
定員を100名としましたが、新型コロナウイルス感染症の感染症法上の位置付けが5類感染症になったので申込者全員受け入れることにし、116名となりました。
日本軍の本土決戦準備の実態、そして登戸研究所・中野学校によって計画された秘密戦
本土決戦を想定しての秘密戦はどれほど準備されたのか、を主に講演が進められました。
〈秘密戦〉とは何か。それは戦争には必ず付随するが、歴史に記録されない(裏側の戦争)。戦時に限らず、平時においても密かにおこなわれている(水面下の戦争)。秘密戦の4要素〔防諜・諜報・謀略・宣伝(戦時プロパガンダ)〕。
米軍の爆撃は意図的に旧陸軍登戸研究所・旧陸軍中野学校を目標から外すなど、戦後に向けて設備・人材確保を目的としていたなども語られた。
最後に、本土決戦・秘密戦の記憶を残す重要性、決して幻ではなかった本土決戦、明治大学中野・生田キャンパスで戦争を語り継ぐ意義、を熱く語っていただきました。
 この講演会を通して、ウクライナ情勢、台湾有事、北朝鮮など日本を取り巻く環境及び平和を考える一助になれば幸いです。 

2023年07月04日

八戸などの2泊旅行を実施しました

紀行文

6月18日(日)~20日(火) 歴史と湊町の八戸と新緑の十和田・奥入瀬を訪ねる
  担当 (織壁、馬淵、垂水、金澤)
【1日目】 東京駅発9時すぎのはやぶさ11号で約3時間、八戸駅12時着。駅で三八五交通の運転手・林さんがお迎え。八戸は梅雨の晴間の快晴だ。
 南部の総鎮守として信仰を集めてきた櫛引八幡宮に向かう。本殿は江戸初期の再建で重文。彫刻が素晴らしい。目玉は国宝館の国宝の鎧、「赤糸威鎧」と「白糸威褄取鎧」の二つだ。南北朝時代に南朝の天皇から拝領したもの。高度な技術で作られており、保存状態も非常に良い。
八戸市博物館は考古、歴史、民俗資料の展示室で構成、八戸市の歴史が体系的に理解できる。学芸員さんの説明を聞く。
是川縄文館は縄文の展示品が充実している。「合掌土偶」は別格で国宝展示室に展示されていた。手を組む土偶はめずらしい。
夕食はホテルの料理屋で八戸の海鮮料理。食後、八戸の横丁を散策した。
【2日目】この日も快晴。蕪島神社に向かう。ウミネコの繁殖地で有名だ。鳥の多さと鳴き声の大きさにびっくり。ふ化したばかりのたくさんの雛も大騒ぎ。神社には糞よけの傘が用意されていた。ふんに直撃され、神社から「会運証明」のお札をもらった人も。種差海岸はリアス海岸、多様な地形が続く。ニッコウキスゲなどの美しい花が咲いて、きれいだ。
奥入瀬渓流に向かう途中の十和田市で馬肉料理店にて「馬肉バラ焼定食」の昼食。馬肉と大量の玉ねぎを甘いタレで炒めた鉄板料理。
昼食後、奥入瀬渓流を十和田湖へと向かう。途中でバスを降りて遊歩道を約20分散策、バスに乗っていては感じられない渓流の力強い音、そしてマイナスイオンを感じた。
十和田湖では、休屋から子ノ口まで十和田湖を遊覧。遊覧船からしか見えない200mを超す絶壁などが眺められ火口湖であることがわかる。我々以外に船客がおらず、結果的に貸切状態だ。最近観光客が減っているとのことであったが、やや寂しい。湖上遊覧後、ホテル十和田荘に荷物を預け、乙女の像と十和田神社を見学した。ホテルでは温泉を満喫した。
【3日目】快晴。朝一番に十和田湖随一の展望台といわれる標高631mの発荷峠に向かう。雲ひとつない眺望に一同感激。記念写真のあと奥入瀬渓流を八戸へ向かう。途中、渓流沿いの遊歩道を20分ほど散策。八戸駅で荷物を預け「八食センター」へ、ここで昼食。魚介類をはじめとした八戸の新鮮な名物が勢ぞろい。寿司屋など飲食店や、魚介類を購入し七輪で焼いて食べる七厘村がある。各々昼食をとった。八戸駅から午後3時すぎの「はやぶさ32号」にて東京駅へ(18時着)。(参加者 24名)

2023年06月18日

松戸のあじさい寺と戸定邸を訪ねました

紀行文

6月13日(火) 松戸のあじさいの寺と定邸(とじょうてい)を訪ねる 担当 (垂水、馬淵、太田(義)、岡田)
前日までは台風の影響を受けて天候が危ぶまれたが、当日は少し暑いくらいの好天となり見学会日和となった。武蔵小金井駅下り7時57分発に乗車し、西国分寺駅で武蔵野線に乗り換え、新松戸駅で常磐線各停に乗り換え、北小金駅で下車した(9時19分着)。この駅は改札を出たところのスペースが狭いので、駅のホームにて最終受付と点呼を行った。
最初の見学先である本土寺へ向かった。ほどなく杉木立の風情ある参道が続き、途中2軒の土産物屋があったが寺の帰りに寄ることにして、一路本土寺へ。本土寺は1277年に建立された日蓮宗の寺であり、境内も広く立派である。紫陽花と菖蒲の広大な庭園が有名で、6月のこの時期の拝観は有料となっている。本土寺の「本土」とは、法華経に説かれる「我此土(わがこのど)」つまり、本当の仏であるお迦様がお住まいになる国土、に由来するといわれる。
仁王門をくぐり、左手に五重塔を見上げ、本堂、歴代住職の廟などを巡ると周囲には紫陽花が咲き乱れており、坂を下ると現れたのが広大な菖蒲池庭園。庭園は菖蒲の花で埋め尽くされており、多くの見学者が感激していた。紫陽花と菖蒲を十二分に鑑賞し、寺からの帰り道土産物屋に立ち寄ったが、多くの方が楽しそうに買い物をされた。
北小金駅に戻り、常磐線で松戸駅に移動し下車。松戸市は人口約50万人で、松戸駅はその中心であり大きな駅である。駅前で各自昼食をとってから再び集合し、次の見学先である戸定邸に向かった。
戸定邸は、徳川慶喜の弟で、最後の水戸藩主であった徳川昭武が明治になって建設(1884年)した別邸であり、隠居後はここで過ごした。「戸定」は地名であり、戸定邸は江戸川をのぞむ高台に位置している。表座敷の南側は庭園になっており、西側は眺望が開けており当時は富士山が良く見えたとのことである。戸定邸は、明治前期における上流階級住宅として歴史的価値が高く、重要文化財に指定されている。23室もある広い邸内を4組に分かれて見学し、ボランティアガイドの方から丁寧に説明していただいた。邸内見学後は、邸の南に広がる東屋庭園に移動し集合写真を撮った。戸定邸を出たあとは松戸駅に戻り、ここで解散とした。                                        (参加者 51名)

2023年06月13日

相模国分寺を廻りました

紀行文

5月9日(火)  相模国分寺跡周辺を巡る        担当 (馬淵、森、中島、太田(義))
当日はコロナ対策が5類に移行し、新緑の時期の好天に恵まれ多くの参加者を得た。武蔵小金井駅下り8時03分発に乗車し、立川駅で南武線、登戸駅で小田急線に乗り換え、海老名駅で下車した。ここで、最終受付とトイレ・点呼を行いまず相模国分尼寺へ向かった。途中で、相鉄線と小田急線を跨ぐ跨線橋からJR相模鉄道の駅を含む海老名駅を眺めた。
相模国分尼寺跡は相模国分寺跡の北方約500mにあり、中門・金堂・講堂が一直線に並ぶ伽藍配置となっている。金堂跡には礎石も残っているが、江戸時代に作られた庚申塔が堂の中に保存されている。相模国分尼寺跡は、残念ながら当時の伽藍地の一部が住宅地などに開発されており、講堂跡そばには小田急線が走っている。
その後、南へ移動し相模国分寺跡を訪れた。ここは特徴が2つあり、伽藍配置が法隆寺と同じ形式である、国分寺は通常国府の近くに建設されたが相模国分寺は国府(平塚市と推定)と離れた場所にあった、などの説明を行った。国分寺跡と道路を挟んで隣にある海老名市立郷土博物館「温故館」ではスタッフから丁寧な説明を受け、創建当時の国分寺の伽藍模型などを見学した。広い相模国分寺跡を見学後、中門跡に移動し、ここの南側の敷地に14階建てマンションの建設計画がある、という残念な情報を伝えた。
次に、創建時の法灯を現在に伝える真言宗・相模国分寺を訪ねた。入口の「海老名の大欅」を見学。神奈川県指定天然記念物で、推定樹齢約580年、根回りは15.3mの巨木である。根元は枯れ気味であるが、新緑の芽が元気よく生えている。相模国分寺の重要文化財の梵鐘を見学。
ここで一次解散し、希望者約40名は、最後の見学先である瓢箪塚(ひさごつか)古墳へ移動した。この古墳は相模川を見下ろす座間丘陵上に形成された上浜田古墳群唯一の前方後円墳で墳丘長は約80m、4~5世紀の築造とされている。古墳の敷地内は公園になっており自由に墳丘に登ることができ、前方後円墳の形状を実感した。見学後、海老名駅近くに移動し解散した。                         (参加者57名)

2023年05月09日

妙義神社と富岡製糸場を訪ねました

紀行文

4月11日(火) 桜の妙義神社、世界遺産の富岡製糸場を訪ねる   担当(塚田、織壁、島田、間島)
4月11日の桜の開花状況をネットで調べると妙義は「青葉!」となっていた。桜終わっている、残念! 参加者に妙義見学について説明する時は、桜から「新緑が美しい!」にかえた。
バスの萩観光より1週間前に、「全国旅行支援の対象です! 」 と連絡がきた。参加費も下げられるし、全員に地域クーポン2,000円も配れることになった。クーポンを受け取るにはワクチン接種3回以上の証明書の提示が必要。急きょ参加者に証明書を持ってくるよう連絡した。確認のため、添乗員が同行することとなった。添乗員は戸田さん。バスで「みなさん、ワクチン証明書ありますか? 見せてください、ハイありますね」と確認。QRコードが印刷されたクーポンを配布。苦労しながらスマホにダウンロードするが、半分以上の人があきらめ、一部の店で利用可能な紙クーポンを持って買物することとなった。
話題は桜ではなく「旅行支援・クーポン券」となった。よかった!
10時過ぎに妙義神社に到着した。新緑が美しい! 神社は鮮やかな朱色の総門、見事に装飾された唐門の奥には、黒漆塗り、権現造りの豪華絢爛な本社がある。予想通りの急階段の連続で、本社前は165段もある。重要文化財の本社めざして7~8割のひとが挑戦、登り切ってお参りした。戻りは、少し急でない女坂で下りた。やっぱりポール(ストック)を持って来るべきだった。(私は玄関においていたのに忘れた) 階段、坂を下りて、神社前の道の駅でクーポンを持って買い物をした。店は史談会会員で大混雑だった。
高速道路で富岡に向かい、12時過ぎに駐車場に到着。すぐ近くの和食「源氏」で名物刺身こんにゃくも入った松花堂弁当の昼食。一同満足。1時から富岡製糸場の見学。入口近くで写真をとって、ボランティアガイドさんの解説で場内を回った。
富岡製糸場は明治5年(1872年)に政府が日本の近代化のために設立した模範器械製糸場。維新後、富国強兵の財源のため力を入れたのが、生糸の輸出。生糸の品質改善と生産性向上、技術指導者を育成するため、お雇い外人をフランスから呼び、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場をつくった。
ボランティアさんは「工場は窓があり明るいです。工女は一日8時間、日曜は休みです。福利はしっかりしていました。何よりもこの製糸場は日本の近代化を支えたのです」と熱く語った。1時間ほどの見学を終え帰途につき、小金井に5時ごろに帰着した。
参加者の感想「階段急だったが上った。膝が悪いのに無理した。一人で来られるところではない、よかった。信越線でみた妙義がなつかしい。世界遺産になった富岡はきれいになった。ガイド付きの富岡は良かった。子どもの頃に見た鴨下製糸を思い出した。農工大の繊維博物館も見ると良い。32歳、教師志望で勉強中、神仏習合が勉強でき、製糸場は生徒たちに教えたい。95歳、参加でき良かった。久しぶりのバス見学、良かった。参加費が安くなり、2,000円クーポンよかった。ブラボー!でした。など」 (参加者52名)

2023年04月11日

町田を訪問しました

紀行文

3月16日(木) 町田を歩いて・見よう                      担当(塚田、佐藤、島田、板倉)
3月に入り季節外れの気温上昇で、14日には東京都が国内一番の桜開花宣言が出た。当日は雲一つ無い青空で気温21°Cも今迄に慣れない気温で熱く感ずる程。3年間に渡ったコロナ感染予防のマスクの装着が13日より「個人の判断」による規制解除で気分的にも晴れ晴れとして気持ちの良い見学会となった(実際には終始全員マスクを装着していた)。
町田へは武蔵小金井駅8時31分発の下りに乗車、八王子駅で横浜線に乗換、町田駅到着9時30分。中央改札口を出て人数確認49名。最初の見学先会場の人数制限で二手に分かれ、A班は泰巌美術博物館へ。4年前に開館した織田信長関連資料、安土城5、6層天守閣の実寸大建屋、天下布武捺印資料、信長の映像シアター等々(入場料1,500円)。B班は町田市民文学館へ。町田市ゆかりの著者、特別展示中の森田MiW(いとしきモノ展)(入場無料)を訪ねた。
A, B班は共に午前予定した2件の見学が終了し再びここ中央改札口広場に集まり、各自昼食解散、1時半まで自由行動とした。2時に今度は小田急線で鶴川駅に向かう。駅からは見学先の武相荘を目指して徒歩組(15分ほど)とバス組に分かれて移動。全員到着し揃って46名入館した。戦後GHQとの交渉で吉田茂の顧問として活躍した白洲次郎、正子夫婦の住んでいた建物とその備品等(入場料1,100円)を見学。茅葺屋根の建物前で集合写真を撮影し、今回の見学会の予定を終了し3時に現地解散した。
この先は自由参加の西山美術館見学者と帰宅する者と二手に分かれた。見学希望者はバスで4時頃に綾部に到着し、27名で館内展示品の説明案内を受けた。展示品はロダンの制作した彫刻、画家ユトリロの代表作品の数々、世界中から集めた多くの銘石・パワーストン等(入場料800円)。さらに時間に余裕があればそこから徒歩10分程の町田市自由民権資料館(入場無料)を訪ねる予定であったが、閉館4時半を過ぎていたので中止し鶴川駅にバスで戻った。5時半鶴川駅から登戸駅、南武線で立川駅、中央線に乗り換え、武蔵小金井駅に7時頃戻った。                      (参加者 49名)

2023年03月16日

浦安を巡りました

紀行文

2月14日(火)「青べか物語」の舞台・浦安を訪ねる  担当(織壁、閑野、中島、白倉)
「西の根戸川と東の海を通じる掘割が、この町を貫流していた。蒸気河岸とこの堀に沿って、釣舟屋が並び、洋食屋、ごったくや、地方銀行の出張所、三等郵便局、巡査駐在所、消防署―そして町役場などがあり、……」、と「青べか物語」で書かれた元漁師町・浦安を訪ねた。根戸川は江戸川、掘割は境川。
2月はまだまだ寒い。東西線の浦安駅で下車、交番の横で人数確認。59名の大人数だ。二つの班に分け出発、メトロセンター飲食街を抜けて西へ歩く。旧江戸川につきあたり、堤防上を下流の方に歩く。渡し場跡の看板、ここは明治から昭和15年まで昭和15年浦安橋が開通するまで、東京へ行くための渡し船の待合所があったところだ。さらに旧江戸川から分かれ東へと流れ東京湾にいたる境川を東へ歩く。分岐点に西水門がある。洪水調整用だ。桜の名所でもある。川の両岸はかつての漁師町だ。清瀧神社には「リンド水準標石」がある。オランダ技師リンドが明治5年に設置し、江戸川の水位の基準としたものだ。さらに行くとフラワー通り。昭和40年代まで漁師町のメイン商店街として賑わったところ。旧商家の宇田川家、江戸末期に建てられた大塚家、洋風建築の濱野醫院が保存されている。かつての賑わいはなく落ち着いた街並み。浅田煎餅本舗は明治21年創業のせんべいの店だ。生地を天日干ししている昔ながらの味。堅くて、歯が丈夫でないと食べられないらしい。でも参加者の半分が買ったようだ。豊受神社は1157年創建といわれ、地域住民の信仰を集める。境内には樹齢四百年の大イチョウがある。境川をさらに行くと10階建ての立派な市役所が見えてくる。ディズニーランドのある浦安は安定した税収により財政力は全国でも常にトップレベルだ。立派なのもうなずける。敷地の一角に郷土博物館がある。敷地内に実際の建物が移築されて、漁師町として活気あふれていた昭和 27 年ごろの町と生活の様子を再現している。県指定の有形文化財「三軒長屋」は当時の典型的な庶民の長屋だ。実際の「ベか舟」なども見られる。ここで記念写真を撮り、解散。それぞれ市役所10階の食堂などで昼食をとった。
(参加者59名)

2023年02月14日

歌舞伎を観劇しました。

観劇

国立劇場歌舞伎鑑賞会(1月20日)の開催報告  担当(嵯峨山、織壁、塚田、垂水、金澤)
穏やかな冬日が射す国立劇場で、小金井史談会初の初春歌舞伎鑑賞会を開催しました。参加者は57名(内11名が非会員)と見学会に比して遜色ない人数でした。 演題は、通し狂言「遠山桜天保日記」―歌舞伎の恩人・遠山の金さん― 尾上菊五郎、尾上松緑、尾上菊之助、中村時蔵など音羽屋一座の公演でした。
 開催の発端は、令和3年11月 宮地楽器ホール大ホールで開催した講演会後の懇親会で、講師の大石学 東京学芸大学名誉教授が国立劇場などを傘下に置く独立行政法人日本芸術文化振興会の監事をされておられるとの一言でした。大石先生に公演内容の時代背景などを解説いただきその後、観劇するも一興かと盛り上がりました。初代国立劇場が今年10月までの興業で幕を閉じ、建て替えされるとの報を聞き、「国立劇場初芝居の見納めは桜吹雪の名裁き」と今回の企画を立ち上げました。ただ参加者数の壁に当たるも一応30席を確保。募集するや60名近くの応募があり、急遽、追加座席を確保し、入場料(1等席)、幕間での御膳(食事処 十八番)、イヤホンガイド含め団体扱いの割引率を引き出し、当日、参加費の返金という形で喜んでいただきました。キャンセル待ちが5名おられたのですが、残念ながら期待に応えられませんでした。
 主だった出演者による手ぬぐいまきが舞台の最後を飾りました。観劇前の大石学先生による解説はなかったものの充実した1日を過ごしました。

2023年01月16日

新年亀戸七福神巡りを行いました。

紀行文

1月10日(火)亀戸天神、亀戸七福神を巡る  担当(太田(祐)、小林、金澤、佐藤)

秒速5mという天気予報の通り、集合場所の三浦屋前広場は風が強かった。寒さも一入だったが、参加者は引きも切らず40名以上に達した。コロナ禍にもめげず、盛況だ。9時49分に亀戸着。途中駅からの乗車者を迎え、55名に膨れ上がった。昨年後半以降で3番目の多さだ。下町の商店街や住宅地を抜けていく、見学会特有の長い列が始まる。最初は駅から10分ほどの亀戸天神社。菅原道真の末裔が江戸の本所亀戸村に道真の像を小祠に祀ったのが始まり。初詣の参拝客が散見された。梅や藤の名所と知られている。
横十間川に沿って5分程度歩くと龍眼寺(布袋尊)に着く。天台宗の寺で、眼病平癒の観世音として信仰を集め、龍眼寺と改名した。境内は見事なまでに掃き清められていた。更に、細い路地を行くと天祖神社(福禄寿)に出る。創建は推古天皇の(600年)頃で、現社殿は昭和4年に日本では初めての鉄筋コンクリート造りで再建された。
天祖神社から香取神社に向かう途中の北中間川沿いの道端に「梅屋敷跡」がある。これは江戸時代の豪商の別荘「清香庵」の跡地。最盛期には300株の梅の木が花と香りを競っていたとか。北川広重の「名所江戸百景」で取り上げられたが、現在は看板があるだけ。
なお、狭い路地を進む。普門院(毘沙門天)は真言宗智山派。境内にある伊藤左千夫の墓にお参りする参加者もいた。引き続き、路地を辿る。香取神社(恵比寿神、大國神)は立派な参道や鳥居、社が目立つ。源頼朝や徳川家康などの武将や武道家に篤い崇敬を集め、近年ではアスリートの参拝者も急増しているという。
路地から大通りを横切り、東覚寺(弁財天)に。弁財天の祀られているのは小さな祠。格子で仕切られた扉から有難いお姿を拝見しようとする、熱心な参加者が列をなした。香取小学校や香取公園を横に見ながら進んで、最終目的地の常光寺(寿老人)に到着。本堂左手の小さな堂内、格子戸の中の寿老人を拝もうとする参加者が目立った。
ここで見学会は終了。時刻は12時少し前。見学中はあまり気にならなかった風が出てきた。参加者は思い思いに亀戸駅を目指して散会していった。              (参加者55名)

2023年01月10日

国会議事堂・放送博物館などを巡りました

紀行文

12月13日(火)「国会議事堂、放送博物館を訪ねる」    担当(織壁、垂水、岡田、清水、閑野)
当日は集合時間朝まで降った雨も集合時間の9時30分までには上がり、武蔵小金井から荻窪乗り換えで国会議事堂前へ向かった。国会関係の見学は史談会会員である清水学市議会議員経由で、長島衆議院議員事務所の協力により段取りよく行えた。国会議事堂見学の時間的都合で、11時より早めの昼食を衆議院会館食堂で行い、国会名物のカレーを全員で食べた。自民党を中心に、会議ではこのカレーを食べながらの打ち合わせが恒例となっている。
 昼食後希望者は売店でのお土産購入を済ませ、国会議事堂見学へ向かった。国会議事堂見学は、昔の馬車にあわせた高さの通路と馬の水飲み場、また冷房が無い時代、その水を利用した冷風を議事堂の冷房に使った話、有名な天皇陛下の御休所L字型のテーブルなどを見学した。サプライズで長島衆議院議員自ら、議事堂内の案内をして戴いた。さらに正門前では偶然台湾から帰国したばかりの萩生田政調会長にもお目にかかる事ができた。市議会議員で今回担当の清水学担当は萩生田事務所に在籍していたこともあるとの事で、政調会長から「清水をよろしく」との一声も戴いた。最後には長島衆議院議員を囲んで議事堂をバックに集合写真撮影を行った。
 その後、電車で一駅移動し愛宕神社、NHK放送会館へ。愛宕神社は講談で有名な曲垣平九郎の出世の階段を見学。横の坂から登ったが、一部の参加者は出世の階段を上って愛宕神社へ。参拝後神社横のNHK放送博物館を見学。放送博物館はラジオの本放送が最初に行われた場所で放送の古里とNHKは呼んでいる。特にスタジオ体験コーナーは人気で、天気予報キャスターの雰囲気を味わった。博物館を各自見学後14時30分解散。

2022年12月13日

相模国一宮寒川神社を巡りました。

紀行文

11月16日(水)  寒川神社(相模国一之宮)と梶原景時の遺跡周辺を巡る
                                           担当 (塚田、島田、太田(義))
前日は小寒い雨降りだったが、当日は打って変わり朝方少し北風吹くも日中は雲一つ無い秋の青空で気持ちの良い見学会となった。コロナ第8波の兆候が噂される中、参加者人数の予想が立たず武蔵小金井駅8時15分発の下りに乗車、八王子駅で横浜線に乗換、橋本駅で相模線に再び乗換、ようよう寒川駅に到着(この2回の乗換も含めて移動時間110分)。ここで点呼し参加人数36名を確認した。前日の雨天・コロナ不安・事前にアナウンスした昼食処の少ない点等々が影響したかと思われる。
前半は梶原景時に関連する箇所、後半は相模國一之宮寒川神社に絞り順次見て回った。梶原景時は今ドラマで『鎌倉殿の13人』を放映中なので関心が高く、最初に館跡鬼門の守り神一之宮八幡大神、そのあと南部公民館で寒川町観光協会案内の参考資料パンフレットを配布した。すぐ傍にある梶原伝七士の墓を見学。墓の目の前は分譲地の区画整理中であまりにも不釣り合い違和感があった。隣の梶原景時館跡で説明。ここは小さな公園でチッポケな社があり、長い歴史上、不忠の人として扱われた景時を物語る侘しさがある(近年見直され、不忠の人でなく生真面目な人と評価されている)。次に、一之宮小学校々舎内に併設されている寒川文化財学習センターでは、寒川町の縄文中期以降の土器、石器、古民家で使用していた農機具展示を見学した。寒川町は、縄文時代現在より海岸線が内陸に大きく入り込んで海、山、川からの食糧確保に恵まれたので大きな集落跡が存在した。
後半の寒川神社には一、二、三之鳥居を過ぎて12時頃到着し、華やかな七五三参りの家族で賑わってあちらこちらで家族写真を撮影中にて、我々36名の集合写真場所も無い程だった。寒川神社は1600年の歴史で、関東唯一の八方除け全ての悩み事を除いてくれるご利益がある。また太陽が通過するパワーポイントで有名、その天体観測渾天儀(こんてんぎ)を見学した。特別に本殿でお祓いご供養すれば奥の神苑が見学できたが今回は時間、経費の点で個人自由行動とした。1時近く現地で滞在し解散。希望者は食事処で昼食をとり、宮山駅から乗車して橋本駅、八王子駅で乗換えしながら午後4時頃小金井に戻った。                                          (参加者 36名)

2022年11月16日

中世の講座を行いました

講座報告

10月27日(木) 公開講座「平代坂遺跡と小金井の中世」    担当 (織壁、塚田、嵯峨山、中島)
市教育委員会生涯学習課の高木翼郎さんを講師に行いました。地味なテーマですが、NHK大河ドラマで中世に関心が高まっているためか、予想以上の参加者でした。
わが小金井には中世の痕跡は少ないものの、いくつかの遺跡が確認され、集落跡の柱穴や溝などと、地下式坑、蔵骨器、板碑が見つかっています。金井原古戦場、応永年間の薬師如来立像、市内に60余基ある板碑、国内、中国の陶器類や蔵骨器が発見された遺跡、修験道光明院跡、首塚・胴塚の伝承など中世の足跡について話されました。
今年、発掘された前原三丁目の平代坂遺跡では、室町時代の井戸や地下式坑、境堀が発見され、14世紀~15世紀の陶器・青磁の器、中国銭が出土しました。中でも複数の板碑(板石の塔婆)が重なって出土した「板碑廃棄土坑」は市内では初めてです。地下式坑について高木さんは「倉庫や墓などが考えられるが、宗教的な修行の瞑想の場ではないかと想像するのも面白い」と話されました。付近には修験の施設あったかもしれません。小金井の中世も興味が尽きません。(参加者 50名)       

2022年10月27日

六義園などを巡りました

紀行文

10月11日(火) 六義園・旧古河庭園・旧渋沢庭園を訪ねる       担当 (馬淵、森、嵯峨山、白倉)
コロナ禍が小康状態で、秋の好天に恵まれ、65名と非常に多くの参加者を得た。武蔵小金井駅8時35分発の始発に乗り、新宿駅で山手線に乗り換え、駒込駅で下車。改札口を出た所で点呼を行い、最初の見学先である六義園に向かった。
六義園は、将軍側用人の柳沢吉保が将軍綱吉からこの地を拝領し、7年の歳月をかけて本格的な「回遊式築山泉水庭園」を造り上げたものである。吉保は和歌にも造詣が深く、紀州の景勝や和歌に詠まれた名勝などをこの庭園に映し出しているとのことであるが、知識に乏しい我々にはその理解は少し難しい。築山である標高35mの藤代峠に上り、六義園で最も眺望の良い所から園内の景色を楽しんだ。風情のある渡月橋を渡り、池の大泉水を一周し、出汐湊(でしおのみなと)で集合写真を撮った。
次に、駒込駅を通って北へ移動し、旧古河庭園を見学した。この庭園は、古河財閥三代目の古河虎之介が造らせた庭園で、傾斜地をうまく利用している。有名な洋館は、明治の英国人建築家のジョサイア・コンドルの設計である。ここでは、集合時間を決めて各自で自由散策を楽しんだ。バラ園では、秋のバラの花はまだ3割程度であったが、大いに楽しめた。傾斜面を下りたところにある日本庭園では、枯山水の枯滝や立派な雪見灯篭が存在感を示していた。旧古河庭園で見学を終了する参加者もいるので、庭園内で終了式を行った。
旧古河庭園を出たすぐの所で、途中で見学を終了する方に京浜東北線上中里駅への道を案内。見学を続ける方々は飛鳥山公園に向けて移動。その途中、西ケ原一里塚を見学。西ヶ原一里塚は日光御成道の二里目の一里塚で、江戸時代に設置された一里塚の姿を今にとどめており貴重である。保存には渋沢栄一も大いに協力したようである。旧渋沢庭園では、渋沢栄一が喜寿と傘寿の祝いに贈られた洋風茶室・晩香蘆、書庫・青淵文庫を見学。青淵文庫の外壁装飾タイルと窓のステンドグラスが美しかった。その後、飛鳥山公園を通り抜け、王子駅で解散した。          (参加者65名)

2022年10月11日

世田谷を巡りました

紀行文

9月12日(火) 世田谷大井町線 九品仏浄真寺・等々力・上野毛を巡る 担当 (塚田、森、佐藤(環))
世田谷区は23区1番の人口(90万人)、2番の面積(58km2、(小金井市は11.3km2))で、小金井から東南にある有名住宅地である。小金井からの直線距離はあまりないのだが、電車では「渋谷」経由か「立川」経由しかないので、空いていそうな南武線経由を選択し8時25分出発。途中2度乗り換えがあったので多少(かなり)混乱もあったが、全員10時前には九品仏駅に降り立ち最初の見学地、浄真寺に向かった。
この寺は、お経に説かれている「上品上生」から「下品下生」まで9段階の往生に導く、9種の印相(手の形)を持つ9体の阿弥陀仏が現存することで有名で、自分に合ったランクの阿弥陀さまにお願いすると願いが叶うといわれている。又、この地は、戦国時代は後北条氏被官である吉良氏の奥沢城であり、周囲には当時の土塁も残っている。その滅亡後江戸時代初期に寺となったので、歴史的にも面白いところであった。
次の見学地は等々力渓谷。九品仏駅より尾山台駅を過ぎ等々力駅となる。3駅とも小さな駅で、九品仏駅は列車の1両のドアが開かない。ホームが短くて車両が余ってしまう。又、九品仏駅から尾山台駅が見える。のんびりしていいなと思う。さて、等々力渓谷は都の名勝に指定されており、駅より2~3分歩き渓流にかかる橋の手前で階段を下り渓谷へと入る。ここは23区唯一の渓谷で谷沢川が侵食して形成された1km程の距離である。気温も周囲より2~3度低いといわれ、当日も親子づれが水遊びに来ていた。最下流の階段を上がると等々力不動尊があり、そこで休憩をとり次の目的地、野毛大塚古墳へ向かう。この古墳の形式は帆立貝式古墳という。あまり聞いたことの無い形であるが、この形式では国内最大規模とのこと。石棺が見つかり、副葬品も大量に出土し国の重要文化財として東京国立博物館に収納されているそうだ。どうせなら金持ちの世田谷区、立派な展示館をこの地に建てればと思ったが、発掘が明治30年と聞き、さすがの世田谷も当時はまだ田舎、と納得した。
最終見学地の上野毛自然公園は徒歩20分くらいで到着。国分寺崖線の最終地、崖下は二子玉川の賑わい。ここで解散式を行い、上野毛駅までの帰路で、東急電鉄元社長五島慶太・昇父子の邸宅の威容を見ながら、その敷地内の五島美術館見学組と帰途組に分かれ最終解散とした。
(快晴 参加者 66名)

2022年09月13日

榛名山・神社を巡りました

紀行文

8月24日(水)「群馬・榛名神社を訪ねる」       担当(織壁、桜井、坂本、垂水)
かつて小金井では榛名講をつくり榛名神社へ参拝していた。別名雨乞神社とも呼ばれ旱魃のときは榛名山の水をまき降雨を祈ったそうである。現在でも関野に講がある。コロナ禍、3年ぶりにバスを使っての見学を行った。ワクチン接種を参加の条件とし、大型バス使用で座席にゆとりを持たせた。また、幹事が用意した「過去の史談会見学ビデオ」「NHKBSの榛名山登山」などを上映し、会話を少なくした。ビデオは好評だった。
朝8時出発、関越自動車道の前橋インターで出て、11時前に榛名神社前に到着。門前(社家町)で昼食をとった。鳥居前で記念撮影。随神門からは山道となり杉木立の中を歩く。神宝殿は三重塔、しばらく行くと坂になり、その先は長い階段だ。右側に数十メートルの岩の間から水が落ちている瓶子の滝が見える。信玄が箕輪城攻めの祈願の矢を射たてた矢立杉を見て、社務所に到着。お札、おみくじがある。ここから双龍門に登ると本殿、神楽殿。神社全体は大修復中(2017年~2025年)で本殿は幕に覆われ、御姿岩を幕間から拝んだ。参道横を流れる榛名川の重厚な砂防ダムは国指定文化財。ダムのうしろに噴火によってできた四角い石を細長く積み上げた奇岩つづら岩がある。神社入口に戻って歴史民俗資料館で神社の歴史、榛名講、社家町、神社と武士などの展示を見学。昼2時前に出発、榛名湖畔で下車、見学した。伊香保温泉を通り渋川から関越道、午後5時半ごろ小金井に帰着した。
車内で感想を述べてもらった。「コロナ禍が心配だったけど、実現でき良かった」「3年ぶりのバス見学、やはり良い」「榛名は個人では来にくい、来れてよかった」「榛名神社、パワー感じられた」「神社は岩を信仰対象にしてびっくり」「山全体が神域で霊気を感じた」「家族に内緒できた、お土産でばれるかな(笑)」「本殿修理中で残念、3年後にまた来ましょう」「昔、母ときた思い出の湖」「コロナ禍でバス手配は大変だったと思う。ご苦労様でした」など(34名)

2022年08月24日

迎賓館など訪問しました

紀行文

7月12日(火) 迎賓館赤坂離宮他を訪ねる                  担当 (馬淵、小林、島田、森)
当日は小雨と蒸し暑さが予想されたこと、そしてコロナのぶり返しで参加者人数が危ぶまれたが、多くの参加者を得た。武蔵小金井駅8時45分発の始発に乗り、四ツ谷駅で下車。四ツ谷駅を出た所で点呼を行い、その場所で「四ツ谷見附橋」の歴史などについての簡単な説明を行った。
その後、迎賓館赤坂離宮に向かい西門から入り、受付を行った。団体での受付も荷物検査等は個人参観者と同じであり、人数が多かったせいか30分程かかり、見学会の時間予定は最初から遅延となった。本館正面に移動し、ここで簡単な説明を行った。皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の東宮御所として建てられたがあまり使われず、戦後は国に移管され国立国会図書館などに利用された。その後外国賓客を迎える施設として昭和49年に改修されたのがこの迎賓館であり、平成21年には国宝に指定されている。そして、われわれが見学できるのは公用室の4室のみである。以上の説明を行った後、本館を背にして集合写真を撮った。そしていよいよ本館を見学。入り口で立派なパンフレットをもらい、2階に上がり、花鳥の間、大ホール、彩鸞の間、朝日の間、羽衣の間の順で見学。各部屋に1人のボランティアの説明員がいたが、団体見学の場合には1人では説明者が足りなかった。本館を1時間見学後、本館裏側の主庭を見学し、本館前庭に戻り正門から退出した。
正門を出たところに最近できた地下休憩所でトイレ利用含め休憩。ここで見学を終了する方もいたので終了式を行った。その後、赤坂御苑の縁を歩いて豊川稲荷東京別院に向かった。豊川稲荷は曹洞宗の高僧が感得した仏法守護神である「豊川吒枳尼眞天(だきにしんてん)」をお祀りしている。豊川稲荷は愛知県豊川市に本山があるが、江戸時代に大岡越前守忠相が日常信仰し、豊川稲荷の分霊を自邸で邸稲荷としてお祀りしていたことから、ここ東京別院が設立されている。境内には「豊川吒枳尼眞天」千本幟(のぼり)が多数奉納されていた。見学会の会費からお供えを購入(270円)し、見学者を代表してお供えした。
最後に高橋是清翁記念公園に移動した。昭和11年に発生した2.26事件で凶弾に倒れた高橋是清の屋敷跡で、往時の雰囲気を残している。記念公園の設立状況、邸は江戸東京たてもの園に移築され保存されていること、そして再建された高橋是清像の製作者(彫刻家の齋藤素巌)などについて説明した。その後、園内を散策して解散とし、それぞれ帰途についた。希望者は近くの赤坂地区総合支所4Fの食堂で昼食をとり、赤坂見附~四ツ谷経由で小金井に戻った。           (参加者55名)

2022年07月12日

講演会を開催しました

2022年07月04日

22年写真展を開きました

2022年07月04日

諏訪を訪れました

紀行文

6月12日~13日 諏訪大社と諏訪宿・高島城を訪ねる   担当(織壁 嵯峨山 馬淵 垂水 金澤)
下諏訪駅では、話し好きそうなボランティアガイドさんが待っていた。「お待ちしていました。下社秋宮から、中山道宿場を歩いて春宮まで行きます。史談会の皆さんですから、その前に梶原景時ゆかりの場所に寄ります」と始まった。「平安末この地域の豪族金刺氏は木曽義仲に従って戦った。そのため頼朝から罰を受けそうになった時に救ったのが梶原景時。『鎌倉殿の13人』で中村獅童が演じました」と町内にある小さな祠・梶原塚の前で語った。犬射馬場なども熱心に説明、下社秋宮に着いた頃には1時間以上はたっていた。
諏訪大社は信濃国一宮で全国25,000社の諏訪神社の総本社。上社本宮、前宮、下社秋宮、春宮の4社からなる。古事記にはタケミナカタが出雲の国譲りに反対して諏訪まで来たとある。下社秋宮8月~1月、春宮2月~7月に祭神が祀られる。一同拝殿にお参りした。「上社には大和朝廷の神は祀られていません、ここ下社にはあります」と成り立ちのちがいを語った。上社と下社は、仲が悪い時もあり武器をもって戦ったこともあった、神社の関係は複雑だ。
下諏訪宿は、中山道と甲州街道の交差点。下社の門前町で、温泉があることから栄えた。秋宮から中山道を上田方面にあるくと、大名が泊まる本陣、温泉宿や旧商家が軒を連ねている。少し上りの道を20分ほど歩くと春宮に着く。拝殿の前後左右に4本の御柱がある。ここで御柱祭の話「下社の御柱は霧ヶ峰のナガシマヤシマから切り出され、人力で運びます。下社は皮をむいて1年置いたものを運び、人をのせての木落しです」今年は6年に一度の御柱祭、熱を込めての説明。万治の石仏は春宮から5分、希望者だけが急いでお参りし、参道を駅方面へ向かった。途中エライ人も下馬した下馬橋、幕末の悲劇「魁塚」をみた。
駅でボランティアさんとお別れ、上諏訪へ向かった。ホテルで休憩や温泉に浸かったあと、夕食は駅近くのいずみ屋。ワカサギ天ぷら、豆腐料理、一口そばなどで舌づつみをうち、地酒真澄も少し(・・)いただいた。
翌日は上諏訪駅からまちなか観光ガイドの女性二人と高島城へ向かう。途中、諏訪の味噌蔵などを見ながら歩くと、堀の向こうに天守閣が見える。昔はすぐそばまで湖だったので「諏訪の浮城」と呼ばれていた。城は戦国をへて、徳川時代・慶長6年(1601)から270年諏訪氏の居城となった。明治の廃城後、昭和45年(1970)天守閣が復興された。天守からは諏訪湖や北アルプス、遠く富士山を見渡せた。
城から北に15分ほど歩くと貞松院があり、咎を受け高島城に預けられた徳川忠輝の墓を見学し、国道20号を酒蔵を見ながら駅に向かった。その後、それぞれ食事したり、片倉館の湯に入ったり、散策して見学会を終えた。武蔵小金井に5時ごろ帰着した。両日、青い空・暑いぐらいの天気にめぐまれた。(参加者18名)

2022年06月12日

御嶽山御嶽神社を巡りました

紀行文

6月7日(火) 武蔵御嶽神社周辺を巡る
 担当(森、嵯峨山、太田(祐)、櫻井、佐藤)
見学会前日は終日かなりの雨が降り、見学会は雨天決行とはいえ予定通り開催できるか懸念された。然し明け方には雨も上がり、集合時間には青空も見える天気に回復した。武蔵小金井駅から8時46分発青梅行直行電車に乗り、青梅駅から乗り継いで御嶽駅に9時57分到着。
10時2分発依頼しておいた増便のバスに乗ってケーブル下へ。ケーブル下バス停からケーブル滝本駅までの約300mが心臓破りの急坂で、10時20分発のケーブルカーに乗れるか心配だったが37名全員乗車できた。ケーブルカーは、標高差423mを6分で標高831mの御岳山駅到着。標高が高いため、御岳山は霧が立ち込めて少し雨も降りだした。約10分歩いて御嶽ビジターセンターへ。ここで御岳山の自然を紹介したビデオを15分、続いて学芸員からこの後訪れる武蔵御嶽神社宝物殿の国宝「赤糸威鎧(あかいとおどしのよろい)」(畠山重忠が奉納したと伝わる)について見どころを教示された。そして、ここから御岳山頂上929mまで約100mの標高差、神社の階段約330段を約30分かけて登った。ゆっくり歩きたい人5名はガイダンスを受けず幹事1名が付き添って直行した。
武蔵御嶽神社では、神職の黒田さんから神社の由緒、鎌倉を向いていた社殿が、家康の命で江戸の西の護りとして東向きに建て替えられたこと、更に狼を祭った社、旧本殿、家康を祭った東照社などを懇切に説明して頂いた。そして土日祝のみ開館の宝物殿を特別に開けていただき国宝の「赤糸威鎧」などを間近に拝観した。黒田さんは7月に史談会で講演頂く根岸先生と国学院でご縁があったそうで、説明に熱が入った由。
武蔵御嶽神社を後にして、13時に21軒ある宿坊の一つ「片柳荘」で昼食。自家製のこんにゃくなどの精進料理を味わった。片柳荘は江戸時代から続いており、片柳という姓は御岳山で一番多い苗字だそうだ。
14時10分のケーブルで下山、帰りも増便のバスで御嶽駅に到着。バス停から多摩川に掛かった御岳橋を渡り15時頃玉堂美術館に到着。入館前に解散式を行い、後は自由に好きなだけ川合玉堂の絵と、庭園を鑑賞してもらった。そして御嶽駅15時39分又は16時26分の電車で武蔵小金井に向かった。多少雨に降られたが、予定通り無事見学会を終了した。
(参加者37名)

2022年06月07日

江戸城を巡りました

紀行文

5月10日(火) 旧江戸城の内郭と内濠を歩く          担当 (馬淵、嵯峨山、中島、垂水)
新緑の候、好天にも恵まれ想定を超える多くの方に参加いただいた。当日朝は、8時35分発の始発に乗車し出発。東京駅の丸の内中央改札口を出た所で人員点呼。なんと68人で、用意した配布資料が足りず、一部役員の方に配布した資料を供出いただき、ご迷惑をかけしてしまった。
当時本丸への登城門であった大手門から見学を開始。典型的な桝形門で、渡櫓の大きさを実感。三の丸尚蔵館は現在新館建築中にて休館中で、見学できず残念であった。中之門跡に近づくと巨石で築かれた石垣が現れた。この門は本丸の正門玄関にあたり、江戸城で最大級の巨石が使用されている。本丸跡へ入る前に南端に位置する三重の富士見櫓を見学。本丸跡へ移動し、浅野内匠頭刃傷事件で有名な「松の廊下」跡を訪ね、蓮池濠に面して残る富士見多聞の内部を見学。その後、右手に表・中奥跡を、左手に大奥跡を見ながら広い本丸跡を横断し、本丸休憩所にて休憩。ここでは最近設置された天守の復元模型が見学できた。
休憩後、汐見坂から二の丸庭園を望んだ。当時は海が見えたことからこの名がついたといわれるが、想像以上の高低差が感じられた。坂を下りたところで本丸を見上げると、左手に家康時代に築かれた石垣が、右手には明暦の大火以後に築かれた石垣が見られ、築造時期の違いがよく解かる。梅林坂をのぼり本丸跡にもどり、天守台跡に登った。江戸城の天守は3度築かれたが、明暦の大火で焼失した後は再建されず、天守台跡だけが残っている。当時日本最大の天守といわれただけに、天守台の石垣も立派で非常に大きい。
北桔橋(はねばし)門から本丸跡を出て、国立公文書館を見学。明治維新後の公文書を保管しており、適宜公開している。見学当日は特別展「公文書でたどる沖縄の日本復帰」が展示中であった。同時に基本展示として複製品ではあるが「日本のあゆみ」も見学できた。ここは見学者が非常に少なく、ゆっくりじっくりと見学できる。その後、北の丸公園の中にある徳川御三卿清水家の表門であった清水門を見学。この門も桝形門で立派である。清水門で見学会は一次終了とした。
ここで見学会を終了する方は、九段下駅まで担当が案内。引き続き見学を希望する方は千代田区役所にて昼食。休憩後見学を再開したが30人強の方が参加。九段下駅から地下鉄で半蔵門駅まで移動し、半蔵門から桜田濠沿いを歩いた。桜田濠は広大で、日比谷方面に向かって緩やかに下っており、雄大な景色が楽しめた。途中、警視庁手前で内堀通りを横断し国会前庭へ移動して、日本の標高の基準となる地点である「日本水準原点」を見学。ここは旧彦根藩井伊家上屋敷があったところ。この屋敷跡から、井伊大老が暗殺された「桜田外の変」発生場所と登城門であった桜田門を望んだ。その後桜田濠に戻り、西の丸防御のために規模の大きな桝形門である桜田門を見学。桜田門を通り、皇居二重橋を左手に見て、東京駅に戻り解散した。  (参加者68名)

2022年05月10日

武蔵野の戦争遺跡を巡りました

紀行文

令和4年4月5日(火) 武蔵野の戦跡を訪ねる  (柏倉、太田(義)、塚田、金澤、岡田)
 同じテーマで2月に予定していた見学会は感染状況を考え中止したが、その後、蔓延防止措置も解除になった為、桜の花の下を歩こうと、1週早めて5日の実施にした。例年より早目に咲き、見学会の日に花が残っているか心配したが、残っており幸いであった。当日朝、雨は上がったが重い雲が立ち込める朝9時半、小金井駅を出発。武蔵境駅からの参加者と合流し、いよいよ見学会がスタートした。
今回のテーマは、廃線跡の公園や遊歩道を歩きながら、武蔵野市にある戦争の痕跡を訪ね、私たちの身近にあった戦争(大東亜戦争)を再認識するという事であった。
まず、武蔵境駅から少し歩いて線路跡特有の緩いカーブを描いて始まる「本村公園」に入った。境浄水場(大正13年開設)に砂をはこぶ引込線の跡であり、戦争も末期の昭和18年に一部を利用して中島飛行機武蔵製作所への専用引込線が引かれた。この中島飛行機武蔵製作所専用線は、戦後(昭和26年)に中島飛行機製作所東工場跡に出来た「東京グリーンパーク球場」への専用線、通称「武蔵野競技場線」として三鷹駅から変えられ、試合のある時のみの運行で東京駅始発の電車が走った。(現在の「堀合公園」、武蔵野競技場線跡の三鷹市部分)
「本牧公園」を歩き、新武蔵境通りを渡り「堀合公園」に入った後、引込線が玉川上水を渡る当時の橋台を使って新たに架けられた「ぎんなん橋」に着いた。橋台は当時から残る唯一の遺構であり電車が通っていた事を表す為、架けられた橋にはレール状の鉄が埋められている。その後、線路跡は武蔵野市に入り「グリーンパーク遊歩道」となる。しばらく歩き「高射砲陣地跡」についた。昭和19年11月24日にサイパンから飛来したB29爆撃機による最初の東京空襲が行われ、重要目標であった「中島飛行機武蔵野製作所」も爆撃された。関町には、高射砲陣地があり、高度1万メートルで飛来するB29には、効果的な迎撃は出来なかった。中島飛行機武蔵工場に対する精密爆撃(目標に対してのみ着弾することを目的とする爆撃)の着弾割合が4%ということで、周辺住民への被害は当然であった。ここでは、本土空襲の歴史と反撃の実態を学んだ。
その後、延命寺を訪ね、33回忌の昭和53年に建立された平和観音菩薩像や、不発弾処理された250キロ爆弾の破片を見て、近隣の源正寺にある戦争遺物、倶会一処の慰霊碑や、機銃掃射により破壊された墓石など、今に残る戦争の痕跡を学んだ。最後に中島飛行機武蔵製作所跡地である都立武蔵野中央公園を訪ね、米軍の工場爆撃時の爆撃照準点とされる地に立って、工場跡地が野球場になり、都営団地となり、あるいは駐留軍(米軍)宿舎やアメリカンスクールになりと、戦中戦後のこの地の移り変わりを見た。ここで写真撮影の後、解散。咲き残った桜の下で、お弁当を拡げたり、昼食後、関連の東伏見稲荷神社を訪ねたりと、思い思いに過ごして春の一日を過ごした。               (参加47名)

2022年04月05日

裏高尾の歴史と梅郷を巡る

紀行文

3月8日(火) 裏高尾の歴史と梅郷を巡る          担当 (垂水、柏倉、櫻井、太田(祐)、白倉)
前日まで春近しを感じていたが、当日はひと月も遡ったような天候であった。しかも、JR中央線は朝の人身事故にて遅延で、参加者が集合場所に来たら順次スタートさせる、車内ではかたまらないなど、会長からのリモート指令が飛んだ。それでも武蔵小金井駅のホームには迷うことなく全員集合し、4,5分ほど遅れてJR高尾行きに乗車、順調に高尾駅で乗り換え京王高尾山口駅に到着した。
いまの甲州街道を高尾山口駅からJR高尾駅方面に案内川沿いを10分ほど下り、小仏川沿いの遊歩道梅林小名路に差し掛かると、梅は一、二分咲き。2月22日の下見では5本の梅の木に1輪の開花ほどだったが、暖かい日が続けば、五分咲きくらいにはなるだろうと思っていたのだが。それでも、「裏高尾の歴史と梅郷を巡る」に誘われた皆さんは、杉の根が張る細道に気をとられて花を見る余裕もなく、大きな不満の声は聞こえてこなかった。高尾天満宮下では「菅原道真」の講釈を静かに聞いて学習した(史談会メニューである)。その後、旧甲州街道(日本橋から下諏訪)を歩いて、「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」、小仏関跡、駒木野宿(日本橋から12番目の宿場)を見学し、高尾駒木野庭園で集合写真をとり、終了した。その後、高尾駒木野庭園で食事をするグループ、高尾山口駅に戻りそこで蕎麦を食べるグループ、そしてJR高尾駅に向かうグループに分かれ、それぞれ帰途についた。帰路中央本線脇の小径では一時小雪も舞った。
梅の花が思うように咲いてくれず、企画者としては「今日はどうでしたか」と聞ける状況ではなかった。したがって、今回は追記で「いのはなトンネル列車銃撃事件」を取り上げたい。
この事件は、あと10日で戦争が終わるという時に起きた。国鉄中央線の列車の運行は3日前の八王子空襲で不通になっていたが、1945年8月5日の朝、全面開通し新宿発長野行き8両編成は、定刻から少し遅れてゆっくりと走り始めた。昼ごろ八王子を過ぎ浅川(高尾)を出た列車はまもなく米軍機に見つかってしまう。そして中央本線「いのはなトンネル」(現「湯の花トンネル」)付近を走行中に襲撃が始まり、2両目の途中がトンネルに入ったところで列車が停止した。後ろの客車が硫黄島から飛来した数機のP51戦闘機の機銃掃射を受けてしまう。現場近くには中島飛行機の倉庫があったが、そこがねらわれたかどうかは、わからない。
いのはなトンネル襲撃事件は、列車襲撃空襲の被害としては国内最大とされるが、被害実態についての調査結果は公表されなかった。事件当時の記録がほとんどないなか、事件発生後40年経過した1985年、八王子市郷土資料館が「八王子の空襲と戦災の記録」を発表して多くの人の知るところとなった。その7年後の1992年、地元浅川町の住民によって今の地に慰霊碑が建立されたが、被災から47年もたっている。
事件当時の資料では、死者52名、負傷者133名となっているが、後日死亡した人を含め、死者は65名以上になった。負傷者の一部は駒木野病院の前身小林病院(現在の高尾駒木野庭園)で手当を受け、それ以外の人は府中など近くの病院に運ばれた。現場に残された遺体は、翌日現場近くの川原で一括して荼毘にふされた。なお、国鉄浅川駅(当時)も5月25日には貨車が被害に合い、7月8日には駅舎が米軍機に襲撃された。今でも高尾駅2番ホームの階段付近の屋根の支柱に弾痕として残っている。

2022年03月08日

田無神社に初詣に行きました。

紀行文

1月11日(火) 田無神社で初詣                   担当 (柏倉、佐藤(環)、閑野、中島)
令和4年最初の見学会は、前日からの生憎の雨と急拡大の感染状況の中、実施も危ぶまれたが、予定通り実施した。電車の遅れもあり集合時間を遅らせて10時を少し過ぎてから、参加者22名が駅を出て歩き始めると幸先良く雨も上った。
まず「旧惣代名主下田家の役宅」を訪ねた。江戸時代末期の安政年間に建てられた西東京市で最も古い木造建築物で、茅葺屋根を銅板に葺き替えた他は、ほぼ原形を残している。江戸時代には、幕閣重臣が立ち寄ったり、明治天皇がご休息をとった由緒ある建物で、西東京市の市指定文化財である。残念ながら、現住という事で外観のみの見学であった。また、敷地内にある飢饉対策の「稗倉(ひえぐら)」の一部と下田半兵衛富宅の業績を顕彰した「養老田碑」を見た。
その後、田無で最初の小学校である「田無小学校」敷地内にある「養老畑碑」と初代校長の「刑部真琴胸像」を見学した。事前に許可を得ていたので小学校敷地内に入り、養老畑碑とその説明板を正面から観察する事が出来た。(さらに副校長先生の挨拶を頂いた)
 次に、玉川上水の田無分水跡の遊歩道と青梅街道をわたり「観音寺」に行った。田無山総持寺の前身三寺(西光寺、観音寺、密蔵寺)の一つで、境内では大型(高さ3.5m)でありながら、ほぼ完全な形で現存する貴重な宝篋印塔(六十六部廻国塔)を見た。4面が梵字で書かれている珍しいものである。他に近隣太子講の職人衆によって建立された「正徳太子像」を見学した。
玉川上水の田無分水跡の遊歩道「やすらぎのこみち」をたどって「田無山総持寺」を訪ねた。真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王である。前身は「西光寺」(再建に富宅の父、下田半兵衛富永が尽力した)と言い、明治の8年に(先に立ち寄った)「観音寺」と「密蔵寺」を合わせて「田無山総持寺」と寺名を改めた。総持寺には、西東京市の指定文化財になっている、田無と周辺の地には欠かせない人物「下田半兵衛富宅(とみいえ)」の像と田無神社の前名称扁額「尉殿大権現 神号額」がある。残念ながら実物は見られなかったので、持参の写真を見ながら担当者から説明をした。
最後に、交差点を渡って「田無神社」を訪れた。鎌倉期創建で、元は1km北の谷戸の宮山にあり「尉殿大権現」と呼ばれていた。青梅街道の開通に伴い現在地に遷座し、明治の神仏分離令で「田無神社」と名称を変えて、現在に至る。幸いにも参拝客は少なく境内を自由に動けた。まず、今回は見られなかったが、都指定文化財の「本殿」と「拝殿」の説明を聞き、その後に境内各所にある文化財を見た。本殿北東にある土俵「大鵬」と「大鵬石碑」。戦争の影を色濃く残す「楠正成像」。田無の人が織りなす歴史を感じさせる「日露戦役記念碑」等を見た後、令和4年初頭の見学会が無事実施出来た事を感謝しつつ、会長の挨拶と、次回の見学会の紹介をしたのち解散した。
令和4年1月の見学会参加者には、解散後、参拝の列に並ぶ人、おみくじを引く人、御朱印を頂く人と思い思いに田無神社のお正月を楽しんで頂いた。        (参加者 22名)
                           

2022年01月11日

雨で中止の中、集まった人で武蔵境散策しました

紀行文

12月8日(水) 境村の杵築大社、観音院等を巡る          担当 (閑野、中島、柏倉、垂水)
見学会の前日の予報では終日雨、当日も雨が続き風も強くなるとのこと、また会員から参加できない旨の連絡もあり、担当間でメールをやりとりし、中止とした。役員にはその旨メールしたが、集合場所の武蔵境駅には一般の会員を含めて15人が集まった。そこで、有志による見学会とし参加費は集めずに説明を簡略にして、事故等に気配りし、見学予定コースをまわった。天候による中止というのはなかなか難しいと思わされた。
見学は、慶長年間に松江藩主松平直正が下屋敷とした境村に創建した杵築大社(出雲大社を屋敷神として創建)を最初に訪ねた。武蔵野八景碑を見学したが、富士塚は雨のため頂上には行かなかった。次の観音院では、境内墓地にある「贔屓(ひいき)の引き倒し」の贔屓を象(かたど)った像の説明と見学を行い、最後の武蔵野ふるさと歴史館では、学芸員から武蔵野市の歴史を原始・古代(武蔵野台地の遺跡、遺物)、中世(鎌倉街道と板碑)、近世、近現代などについて丁寧な説明を受けた。12時前に同歴史館にて解散した。    (参加者 15名)

2021年12月26日

多摩霊園小金井門周辺を巡りました

2021年11月23日

史談会50周年の講演会を行いました。

説明分

今年初めの予定だった史談会50周年記念行事・講演会がやっと10月13日に開催できた。予定の小ホールが8月になってワクチン接種会場となり大ホールに変更となった。1時間少なくなり、記念行事や講演を短縮した。記念行事を成功させたいと考える一方、コロナ禍で集まれるかと心配だったが、参加は約160名と当初の予想を上回った。会員に誘われてきた人も多かった。参加者には感染対策をお願いした。西岡小金井市長の来賓あいさつ、1971年創立された史談会50年のあゆみ報告、見学会での写真表彰、大石学芸大学名誉教授の講演を行った。ロビーでの展示も行った。講演テーマは「江戸の教育力と小金井」。幕末に日本を訪れたフランス公使のロッシュは「250年もの間、日本の国内は平和で武器を持って戦うことはなかった。幸福な時代で世界に例がない」考古学者シュリーマンは「この国は平和で皆満足しており、社会秩序があり世界のいかなる国より文明国だ」。大石先生は江戸時代が遅れた封建時代という見方は間違い、明治維新が遅れた時代を変えたのではない、平和な江戸を支えたのが教育力と識字率の高さだと話された。小金井では、天保期に下小金井新田に坂本正義が算術塾を開き、門人が700人、塾の世話人は4人、2人は女性だった。曲眼堂(安政期)、渋谷家塾(文政期)、渡辺私塾(文政期)、月州堂(文政期)など江戸後期の手習塾の記録が残されている。小金井は教育先進地域だったかもしれない。参加者のみなさんは本日の講演にいやいや来たのではありません。これぞ教育力です、と締めくくった。ジェイコムテレビの取材があり、市長あいさつ、史談会のあゆみ報告、写真の表彰、大石先生講演と終了後のインタビューが放映された。また小金井新聞、市民運動新聞に掲載された。(参加者160名)

2021年10月13日

玉川上水と小平の遺跡を巡りました

紀行文

10月6日(水) 歴史ある玉川上水と小平の遺跡を巡る      担当 (垂水、馬淵、佐藤(環)、閑野)
コロナ緊急事態宣言解除後であったが、「マスク着用、手洗い励行、車内・3カ所の館内は、会話を控え、密にならないように」をお願いして実施。今回の見学会は、平櫛田中彫刻美術館と鈴木遺跡資料館が火曜日休館日のため、6日水曜日とした。また、小平ふれあい下水道館が10時開館のため、イトー・ヨーカ堂前広場に9:00集合し、武蔵小金井駅からJRと西武線を経由し鷹の台駅で下車。まず、玉川上水に行き、本日の見学会の説明、玉川上水の歴史や小平監視所の役割などの説明を行った。その後、下水道館に行き、二組に分かれ説明を受けた。地下2階でくらしと下水のビデオ鑑賞や、地下5階までの見学を行った。また、外で記念撮影を実施した。玉川上水に戻り、秋風を感じながら木漏れ日の下、玉川上水と新堀用水間の遊歩道を歩き、小川水衛所跡で、水番人等の説明や名勝小金井ザクラの境界を示す杭を見た。その後、玉川上水沿いを平櫛田中彫刻美術館へ。日本近代彫刻の巨匠、平櫛田中の彫刻作品等を鑑賞した。ここで昼になり、まとめの会を実施し、一次解散した。一部は、西武線一橋学園駅へ行き帰途についた。次の鈴木遺跡資料館へは26人が参加、途中の喜平図書館で休憩した。後期旧石器時代の遺跡を中心とし、縄文時代と近世の遺跡も含む複合遺跡の鈴木遺跡資料館を見学、ビデオ説明を鑑賞した。13時15分頃終了、日立国際電気前のバス停などからそれぞれ帰途についた。(参加者 42名)   

2021年10月06日

東村山の遺跡と文化財を巡りました

紀行文

9月17日(金) 東村山の遺跡と文化財を巡る            担当 (馬淵、中島、嵯峨山、垂水)
コロナ影響下を意識し、参加者には「マスク着用、三密を避ける、手洗い励行、車内会話は控える」をお願いして実施。イトー・ヨーカ堂前広場に08:20集合し、武蔵小金井駅からJRと西武線を経由し西武園駅で下車。先ず、旧石器時代から縄文時代を経て近世にかけての複合遺跡である下宅部遺跡が、発掘後に一部埋没保存され公園となっている「下宅部遺跡はっけんの森」を見学。続いて、遺跡から出土した遺物を保存展示している「八国山たいけんの里」を訪問、学芸員の方から説明を受けた。次に、すぐ隣にある北山公園を散策。ここ一帯はもともと水田地帯で水の豊かな地域であり、自然環境保護の観点から公園となったもの。6月の花菖蒲が有名であるが、9月であったので水田に稲が良く実っていた。ここから南へ移動し、正福寺を見学。正福寺は臨済宗建長寺派の禅宗寺院で、中世の禅宗様建築が良く保存されている国宝の地蔵堂(千体地蔵堂)が有名である(都内で唯一の国宝木造建造物)。入母屋造り屋根の端部が反りあがった外観は禅宗様の特徴であり、その他花頭窓など禅宗様の特色を観察。そして、境内にある都内で最大級の板碑「貞和の板碑」なども見学。正福寺のあとは東へ移動し、東村山ふるさと歴史館を訪問。学芸員の方から説明を受けた。東村山は、古代・中世と主要な街道沿いに位置しており、歴史館では多くの文化財や歴史資料が展示されている。ここで一次解散とした。体力の残っている方22名が、引き続いて徳蔵寺の板碑保存館を見学。住職より丁寧な説明を受けた。ここには多くの石器、土器、石碑、板碑が収集保存されているが、有名なのは重文指定の「元弘の板碑」である。新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす途中の合戦(1333年)で戦死した武者を弔う碑であるが、史実を裏づける貴重な碑である。ここで見学を終了し、東村山駅東口に移動。8月に新しく完成した「志村けん」の銅像を見学して各自帰途についた。                     (参加者 35名)

2021年09月17日

貫井村21

紀行文

8月24日(火) 貫井地区の遺跡・江戸時代の面影を巡る        担当 (閑野、柏倉、中島、織壁)
 新型コロナ対策の緊急事態宣言延長の影響を受け、度重なる延期となったが、今回はマスクの着用や密回避を徹底し開催した。暑さ対策も兼ねて集合場所も貫井神社正面に9時集合。先ずはここから坂を上がり貫井遺跡の出土品見学で三楽会館を訪問、展示されている土器など遺跡の出土品を見学。坂を戻り明治政府の神仏分離令で分離された真明寺・貫井神社を見学。貫井神社では、かつて神社横の崖上を下り落ちていた用水にあった秋和水車の排水溝に掛かっていたと伝わる石橋「大正橋」が拝殿そばに移設されていること見た。そして大岡昇平「武蔵野夫人」に描写された貫井神社と今は廃止となり痕跡がなくなった用水を、原文を読み比べながら見学した。
次に享保8年10月24日造立の地蔵菩薩と、道しるべを兼ねた寛政6年の文字庚申塔へ。地蔵菩薩では最近まで念仏講が行われていた。また庚申塔には「右 小川 すな川道 左こくぶんじ道」と刻字されており、内容から寛政6年当時の宿場や中心地を見ることが出来た。小川は現在の小平市小川で、当時五日市街道の宿場として開発され、小平村となったときも小川の「小」と平らな地域として村名が決定している。続いて貫井共同墓地内の焔魔堂にて閻魔像を見学。首部に安永6年の墨書が確認されている。最後に千手院、筆子塚(曲眼堂)を見学。千手院は府中の高安寺の末寺で寺紋も高安寺と同じ足利氏家紋。天保年間に住職の泰嶺和尚桃雲禅範がこの地に寺子屋を開いた。筆子塚は、没後に貫井村など近隣の筆子(生徒)が遺徳を偲び建立したもの。
ここで解散したが、駅まで徒歩で帰る参加者は貫井「おおせど」跡と、園の命名と揮毫が犬養毅である滄浪泉園の標柱を見て、武蔵小金井駅まで帰った。                    (参加者 32名)  

2021年08月24日

講演会「小金井の江戸時代と古文書」が開催されました

報告文

7月5日(月)講演会「小金井の江戸時代と古文書」講師 国学院大学大学院
客員教授根岸先生

江戸時代の文書から小金井を見る。小金井・貫井の二村が形成されたのは17世
紀の前期である。野川沿いの田畑が開発され、次第に南北の台地に畑を開墾し
ながら村を広げていった。18世紀前期からの享保改革の新田開発によって新田
も形成されていく。村は、本百姓が屋敷・耕地を持ち、自立して生活や生業に
従事していた。村は支配を受けながらも自治的な機能を持って運営した。年貢
の負担は軽くなかったが、村が請負っていた。しだいに人々の活動や視野が拡
大し、産業も発達しながら江戸との結びつきも強まっていった。近世中後期に
は、災害や飢饉に見舞われ、幕府も改革などを行ったが、それ以上に人々や村
が自治的機能を強化して行く。文書は支配・行政だけでなく文化、娯楽の文書
が増える。その中から近代への動きが見えてくる。(小金井宮地楽器小ホール
 参加者80名)

2021年07月05日

歴史見学写真展を開催しました

報告文

 当会では毎年7月に見学会の写真を展示しています。
 今年は創立50周年を迎え記念の展示をしました。小金井の歴史探訪として
「旧是政、関野新田」「多磨霊園」、郷土史研究発表として「桜樹碑を読む」
「小次郎墓碑調査」「鳥八臼の分布の考察」など、「小金井の古地図」や
「短歌・俳句・川柳・漢詩」の展示を行いました。多くの来場者が見入って、好評
でした。
 また、会員が撮った見学会の写真を「いいね!写真」として展示し、多くの
来場者に投票をしてもらいました。今年10月には結果をお知らせします。
 しかし新型コロナウイルス感染の影響で昨年同様に多くの見学会は中止と
なり昨年11月、12月、今年4月の3回分の見学会展示となりました。
 展示会に合わせて7月5日国学院大学根岸先生講演会「小金井の江戸時代と
古文書」を行いました。

2021年07月02日

講座「小金井の遺跡」を開催しました

4月27日予定の勉強会がコロナ緊急事態宣言で公民館閉鎖のため中止、5月25
日公民館東分館で開催しました。小金井市「まなびあい出前講座」の内、「小
金井の遺跡」を選択。教育委員会生涯学習課学芸員の高木翼郎氏を講師に迎え
、26人(定員30人)参加がありました。旧石器時代・縄文時代には国分寺崖線
に沿って遺跡が広く分布しているなど、講義は中世・近世そして昭和まで時代
が至り、画像を観ながら2時間という有意義な時を過ごしました。

2021年05月25日

杉並観泉寺、井草八幡宮、善福寺公園を巡りました。

紀行文

4月6日(火)杉並観泉寺、井草八幡宮、善福寺公園を巡る 担当(小林、織壁、太田、島田)
コロナ禍のもと全国的な緊急事態宣言は解除されたものの、大阪など3府県では再度「まん延防止等重点措置」が発令され、東京もジリジリと感染者が増加の傾向をみせている状態で、見学会を実施すべきかどうか役員会で議論されたが、この見学会は室内での見学は1ヶ所のみで、9割以上が外での見学なので実施をきめた。当日は晴れだが気温は3月並みの最低9度のなか、朝8時50分に三浦屋前広場に集合。
中央線快速で西荻窪で下車、点呼後出発したのは9時30分。25分ほどで荻窪八幡神社に着く。このあたりの鎮守の社で、参拝する人はほとんど無い。次に道路一つ隔てた向かいにある杉並アニメーションミュージアムを見学。区立で、アニメのできるまで、ヒット作品の主人公のフィギュアなどが展示されている。20分ほどで見学終了。20分ほど歩き、本見学会の目玉の観泉寺に行く。戦国大名だった今川氏は義元が桶狭間の戦いで織田信長に破れ没落したが、その子氏真(うじざね)は徳川家康の庇護を受け、氏真の孫直房(なおふさ)が家光からこの辺一帯の土地を賜り、観泉寺を建て菩提寺とした。境内の一角を石垣で仕切りその中に10基ほどの墓が並んでいた。30分歩き目玉の二、井草八幡宮に着く。敷地1万坪、今川氏尭(うじなり、直房の養子) によって本殿は造られたという。荻窪八幡神社(2600坪)は旧村社なのに対し、こちらは郷社である。違いを見せつけられた感がある。
主要な見学は終わったのでバスで帰る人のことを考え、ここ井草八幡宮で解散式を行った。実際は次の徒歩5分の善福寺公園までは全員が行き、数人はここから別ルートで帰った。善福寺公園で10分の休憩をとり、はだしのオアシス(善福寺さくら公園)、トトロの樹(坂の上のけやき公園)を経て12時45分西荻窪駅に到着。流れ解散した。コロナ禍の砌(みぎり)、家まで帰り遅い昼食にした人もいたようだ。       (参加者44名)  

    

2021年04月06日

史談会50周年会報48号を発行しました

紹介

会報『黄金井』第48号 創立50周年記念特大号 を発行
史談会の創立50周年を記念した特大号の特徴は、過去の見学会や行事から選ん
だ28点の写真、西岡真一郎小金井市長と東京学芸大学名誉教授大石 学先生からいた
だいたお祝いの寄稿文、史談会の50年のあゆみをまとめた「史談会のあゆみ」、見学
会と講演会の記録、過去の会報の中から小金井の歴史をよく伝える投稿を投票で選ん
だ「復刻文」 などの掲載です。その結果、紙数は例年の約2倍になっています。

2021年04月02日

小金井市民活動祭りに参加しました

「こがねい市民活動まつり」に参加
3月7日(日)、宮地楽器ホール1Fのマルチパーパススペースにて開催された掲
題まつりに、小金井史談会も参加。当日は市内の多くの団体(26団体)が参加し
たので、各団体に割り当てられた展示スペースはパネル1枚であった。限られた展示
スペースを工夫し、見学会のスナップ写真展示を中心に史談会活動の紹介を行った。

2021年03月07日

多磨霊園を巡りました

紀行文

12月8日(火) 「多磨霊園正門(府中門)周辺を巡る」   担当(塚田、太田、垂水)
 朝の集合時は寒かったが、多磨霊園の集合の10時15分には、気温も17℃の晴天であった。当日は、新型コロナウイルス感染対応の為、
必ずマスク着用で参加いただいた。三浦屋前広場からの参加者は、9時30分集合、9時47分と10時7分の多磨霊園駅行のバスに分かれて出発。
また、武蔵境駅や新小金井駅からの西武多摩川線、そして徒歩や自転車での参加者それぞれが多磨霊園正門に集合し、はじめに記念撮影を行った。
参加人数が想定を超えて53人となり、説明資料が足りなくなってしまった。霊園内である為、拡声器を使用し、故人の事だけでなく、
関連した事も説明した。
上原謙→甘粕正彦→夏目雅子→川合玉堂→中村歌右衛門→守田勘弥→児玉源太郎→東郷平八郎→山本五十六→古賀峯一→西郷従道→
北原白秋→三島由紀夫などの墓所で説明した。
時間の関係で予定していた、西園寺公望、徳大寺実則、高橋是清、長谷川町子の墓所は、場所のみの案内となった。
解散式は12時30分、霊園中央二十号地バス停(武蔵小金井駅南口行)近辺で行い、バスも2台に分けて乗車したりした。なお、
後発のバス乗車組には、与謝野鉄幹・晶子とディック・ミネの墓所での説明を実施した。                    (参加者55名)

2020年12月08日

是政新田・関野新田を巡りました

紀行文

11月17日(火)「玉川上水に沿って是政新田・関野新田を訪ねる」 担当(織壁・柏倉・中島・曽根・閑野)

 今回は小金井公園のSL広場前に9時30分 現地集合となりました。
三密を避けるという事で、4つの班に分け時間差を設けての見学会となりました。
 小金井公園南側、旧関野用水跡の桜町遊歩道から東に歩きだしました。先ずは是政新田の氏神様である是政稲荷から見学です。新田開発で府中是政から来た人が祭った神社で初午の日には、小金井で一番古い嘉永6年の幟が揚げられていました。次に玉川上水に捕植された山桜に関係する「嘉永桜」旧鴨下製糸の庭にあった桜の接ぎ木である「鴨下桜」を見学しました。
続いて関野新田に入り旧関野八幡の跡を見ながら、真蔵院に入りました。
ここでは「小金井大緑地解放」の碑から見学しました。東京大緑地計画により昭和16年に買収により土地を手放すことになりましたが、戦後農地解放の一環で多くの土地が返還された記念に昭和23年に作られたものです。しかし後日談として昭和29年に小金井公園の設立が決まり又元に戻った様です。
次にお芝居にもなった有名な府中の名主出身の代官「川崎平右衛門の供養塔」を見た後 
寺の名前「真蔵院」の由来が解る 関野新田の開発者 関勘左衛門の父親 甚五右衛門の法名「真蔵院勇寛義鋭」が刻まれている石碑を見た後、 現在の関野八幡を見学の後、全員の集合を待ち、記念写真を撮り12時前に解散となりました。
 新型コロナウイルスの影響でしばらく見学会が出来ませんでしたが、役員会の中で対策を充分講じての実施ということになりました。全員マスク・会話は控えめにと今までとは少し違う見学会となりました。                         (参加者39名)

2020年11月17日

令和2年歴史見学写真展を開催しました

説明文

歴史見学写真展を7月10日(金)~13日(月)に開催しました。
史談会では毎年7月初旬に過去1年間の史蹟・名勝・市内探訪見学会の様子を
写真展として、宮地楽器ホール・ロビーで市の後援を得て開催してきました。
しかし残念ながら新型コロナウイルスの影響で今年は3月から7月迄の見学会
は中止となり展示は昨年7月から今年の2月迄の8回分の展で示となりました

当会は来年2021年創立50周年を迎えます。そこで、昭和や平成初期の見学会
の写真をアーカイブとして追加展示を行い好評をいただきました。
来年は展示会も含め記念行事を考えております。

2020年07月22日