武蔵野の戦争遺跡を巡りました
紀行文
令和4年4月5日(火) 武蔵野の戦跡を訪ねる (柏倉、太田(義)、塚田、金澤、岡田)
同じテーマで2月に予定していた見学会は感染状況を考え中止したが、その後、蔓延防止措置も解除になった為、桜の花の下を歩こうと、1週早めて5日の実施にした。例年より早目に咲き、見学会の日に花が残っているか心配したが、残っており幸いであった。当日朝、雨は上がったが重い雲が立ち込める朝9時半、小金井駅を出発。武蔵境駅からの参加者と合流し、いよいよ見学会がスタートした。
今回のテーマは、廃線跡の公園や遊歩道を歩きながら、武蔵野市にある戦争の痕跡を訪ね、私たちの身近にあった戦争(大東亜戦争)を再認識するという事であった。
まず、武蔵境駅から少し歩いて線路跡特有の緩いカーブを描いて始まる「本村公園」に入った。境浄水場(大正13年開設)に砂をはこぶ引込線の跡であり、戦争も末期の昭和18年に一部を利用して中島飛行機武蔵製作所への専用引込線が引かれた。この中島飛行機武蔵製作所専用線は、戦後(昭和26年)に中島飛行機製作所東工場跡に出来た「東京グリーンパーク球場」への専用線、通称「武蔵野競技場線」として三鷹駅から変えられ、試合のある時のみの運行で東京駅始発の電車が走った。(現在の「堀合公園」、武蔵野競技場線跡の三鷹市部分)
「本牧公園」を歩き、新武蔵境通りを渡り「堀合公園」に入った後、引込線が玉川上水を渡る当時の橋台を使って新たに架けられた「ぎんなん橋」に着いた。橋台は当時から残る唯一の遺構であり電車が通っていた事を表す為、架けられた橋にはレール状の鉄が埋められている。その後、線路跡は武蔵野市に入り「グリーンパーク遊歩道」となる。しばらく歩き「高射砲陣地跡」についた。昭和19年11月24日にサイパンから飛来したB29爆撃機による最初の東京空襲が行われ、重要目標であった「中島飛行機武蔵野製作所」も爆撃された。関町には、高射砲陣地があり、高度1万メートルで飛来するB29には、効果的な迎撃は出来なかった。中島飛行機武蔵工場に対する精密爆撃(目標に対してのみ着弾することを目的とする爆撃)の着弾割合が4%ということで、周辺住民への被害は当然であった。ここでは、本土空襲の歴史と反撃の実態を学んだ。
その後、延命寺を訪ね、33回忌の昭和53年に建立された平和観音菩薩像や、不発弾処理された250キロ爆弾の破片を見て、近隣の源正寺にある戦争遺物、倶会一処の慰霊碑や、機銃掃射により破壊された墓石など、今に残る戦争の痕跡を学んだ。最後に中島飛行機武蔵製作所跡地である都立武蔵野中央公園を訪ね、米軍の工場爆撃時の爆撃照準点とされる地に立って、工場跡地が野球場になり、都営団地となり、あるいは駐留軍(米軍)宿舎やアメリカンスクールになりと、戦中戦後のこの地の移り変わりを見た。ここで写真撮影の後、解散。咲き残った桜の下で、お弁当を拡げたり、昼食後、関連の東伏見稲荷神社を訪ねたりと、思い思いに過ごして春の一日を過ごした。 (参加47名)