諏訪を訪れました
紀行文
6月12日~13日 諏訪大社と諏訪宿・高島城を訪ねる 担当(織壁 嵯峨山 馬淵 垂水 金澤)
下諏訪駅では、話し好きそうなボランティアガイドさんが待っていた。「お待ちしていました。下社秋宮から、中山道宿場を歩いて春宮まで行きます。史談会の皆さんですから、その前に梶原景時ゆかりの場所に寄ります」と始まった。「平安末この地域の豪族金刺氏は木曽義仲に従って戦った。そのため頼朝から罰を受けそうになった時に救ったのが梶原景時。『鎌倉殿の13人』で中村獅童が演じました」と町内にある小さな祠・梶原塚の前で語った。犬射馬場なども熱心に説明、下社秋宮に着いた頃には1時間以上はたっていた。
諏訪大社は信濃国一宮で全国25,000社の諏訪神社の総本社。上社本宮、前宮、下社秋宮、春宮の4社からなる。古事記にはタケミナカタが出雲の国譲りに反対して諏訪まで来たとある。下社秋宮8月~1月、春宮2月~7月に祭神が祀られる。一同拝殿にお参りした。「上社には大和朝廷の神は祀られていません、ここ下社にはあります」と成り立ちのちがいを語った。上社と下社は、仲が悪い時もあり武器をもって戦ったこともあった、神社の関係は複雑だ。
下諏訪宿は、中山道と甲州街道の交差点。下社の門前町で、温泉があることから栄えた。秋宮から中山道を上田方面にあるくと、大名が泊まる本陣、温泉宿や旧商家が軒を連ねている。少し上りの道を20分ほど歩くと春宮に着く。拝殿の前後左右に4本の御柱がある。ここで御柱祭の話「下社の御柱は霧ヶ峰のナガシマヤシマから切り出され、人力で運びます。下社は皮をむいて1年置いたものを運び、人をのせての木落しです」今年は6年に一度の御柱祭、熱を込めての説明。万治の石仏は春宮から5分、希望者だけが急いでお参りし、参道を駅方面へ向かった。途中エライ人も下馬した下馬橋、幕末の悲劇「魁塚」をみた。
駅でボランティアさんとお別れ、上諏訪へ向かった。ホテルで休憩や温泉に浸かったあと、夕食は駅近くのいずみ屋。ワカサギ天ぷら、豆腐料理、一口そばなどで舌づつみをうち、地酒真澄も少し(・・)いただいた。
翌日は上諏訪駅からまちなか観光ガイドの女性二人と高島城へ向かう。途中、諏訪の味噌蔵などを見ながら歩くと、堀の向こうに天守閣が見える。昔はすぐそばまで湖だったので「諏訪の浮城」と呼ばれていた。城は戦国をへて、徳川時代・慶長6年(1601)から270年諏訪氏の居城となった。明治の廃城後、昭和45年(1970)天守閣が復興された。天守からは諏訪湖や北アルプス、遠く富士山を見渡せた。
城から北に15分ほど歩くと貞松院があり、咎を受け高島城に預けられた徳川忠輝の墓を見学し、国道20号を酒蔵を見ながら駅に向かった。その後、それぞれ食事したり、片倉館の湯に入ったり、散策して見学会を終えた。武蔵小金井に5時ごろ帰着した。両日、青い空・暑いぐらいの天気にめぐまれた。(参加者18名)
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梶原塚
木曽義仲に味方
した諏訪大社神官・
武士の金刺盛澄
(かねさしもりずみ)が
梶原景時に命を救わ
れ、建立した上座堂
梶原塚 -
秋宮
諏訪大社下社秋宮
幣拝殿 -
秋宮の御柱
下社秋宮 二之御柱。
幣拝殿、宝殿の周り
に一之御柱から四之
御柱まで、四本の
御柱が建っている -
万治の石仏
万治の石仏 建てら
れたのは1660年
岡本太郎が「こんな
面白いものは見た
ことない」と絶賛した。 -
下馬橋
諏訪大社下社
下馬橋。身分にかか
わらず馬から降りなけ
ればならいとされ、
今でも遷座祭において
神輿のみが渡る -
集合写真
諏訪大社下社
秋宮 神楽殿の
前で -
丸高味噌
諏訪市内高島城
三之丸跡に建つ、
丸高味噌(信州一
味噌醸造元)の
醸造蔵 -
高島城
昭和45年に復元
された高島城天守。
慶長6年から270年
諏訪氏が居城とした。 -
諏訪湖
諏訪湖と残雪の
北アルプスを望む -
貞松院
浄土宗貞松院、
初代諏訪藩主・
諏訪頼水の正妻
・貞松院殿の
菩提寺。 -
松平忠輝の墓
貞松院にある松平
忠輝の墓(寂林院
殿墓)。徳川家康
の六男であるが改
易され、長い間高
島城に預けられて
いた。 -
2日目集合写真
高島城天守の
前で