田無神社に初詣に行きました。

紀行文

1月11日(火) 田無神社で初詣                   担当 (柏倉、佐藤(環)、閑野、中島)
令和4年最初の見学会は、前日からの生憎の雨と急拡大の感染状況の中、実施も危ぶまれたが、予定通り実施した。電車の遅れもあり集合時間を遅らせて10時を少し過ぎてから、参加者22名が駅を出て歩き始めると幸先良く雨も上った。
まず「旧惣代名主下田家の役宅」を訪ねた。江戸時代末期の安政年間に建てられた西東京市で最も古い木造建築物で、茅葺屋根を銅板に葺き替えた他は、ほぼ原形を残している。江戸時代には、幕閣重臣が立ち寄ったり、明治天皇がご休息をとった由緒ある建物で、西東京市の市指定文化財である。残念ながら、現住という事で外観のみの見学であった。また、敷地内にある飢饉対策の「稗倉(ひえぐら)」の一部と下田半兵衛富宅の業績を顕彰した「養老田碑」を見た。
その後、田無で最初の小学校である「田無小学校」敷地内にある「養老畑碑」と初代校長の「刑部真琴胸像」を見学した。事前に許可を得ていたので小学校敷地内に入り、養老畑碑とその説明板を正面から観察する事が出来た。(さらに副校長先生の挨拶を頂いた)
 次に、玉川上水の田無分水跡の遊歩道と青梅街道をわたり「観音寺」に行った。田無山総持寺の前身三寺(西光寺、観音寺、密蔵寺)の一つで、境内では大型(高さ3.5m)でありながら、ほぼ完全な形で現存する貴重な宝篋印塔(六十六部廻国塔)を見た。4面が梵字で書かれている珍しいものである。他に近隣太子講の職人衆によって建立された「正徳太子像」を見学した。
玉川上水の田無分水跡の遊歩道「やすらぎのこみち」をたどって「田無山総持寺」を訪ねた。真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王である。前身は「西光寺」(再建に富宅の父、下田半兵衛富永が尽力した)と言い、明治の8年に(先に立ち寄った)「観音寺」と「密蔵寺」を合わせて「田無山総持寺」と寺名を改めた。総持寺には、西東京市の指定文化財になっている、田無と周辺の地には欠かせない人物「下田半兵衛富宅(とみいえ)」の像と田無神社の前名称扁額「尉殿大権現 神号額」がある。残念ながら実物は見られなかったので、持参の写真を見ながら担当者から説明をした。
最後に、交差点を渡って「田無神社」を訪れた。鎌倉期創建で、元は1km北の谷戸の宮山にあり「尉殿大権現」と呼ばれていた。青梅街道の開通に伴い現在地に遷座し、明治の神仏分離令で「田無神社」と名称を変えて、現在に至る。幸いにも参拝客は少なく境内を自由に動けた。まず、今回は見られなかったが、都指定文化財の「本殿」と「拝殿」の説明を聞き、その後に境内各所にある文化財を見た。本殿北東にある土俵「大鵬」と「大鵬石碑」。戦争の影を色濃く残す「楠正成像」。田無の人が織りなす歴史を感じさせる「日露戦役記念碑」等を見た後、令和4年初頭の見学会が無事実施出来た事を感謝しつつ、会長の挨拶と、次回の見学会の紹介をしたのち解散した。
令和4年1月の見学会参加者には、解散後、参拝の列に並ぶ人、おみくじを引く人、御朱印を頂く人と思い思いに田無神社のお正月を楽しんで頂いた。        (参加者 22名)
                           

2022年01月11日