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活動・見学会報告

人形の町岩槻を訪ねました

紀行文

埼玉人形の町・岩槻の旧跡を訪ねる
令和8年4月7日(火)

岩槻は人形の町として知られているが、太田道灌が築城したとされる岩槻城があり、日光御成道の宿場町として栄えた歴史の街でもある。今回はこの街の旧跡を歩いた。
小金井から岩槻は通常西国分寺、南浦和、大宮で東武野田線(今は東武アーバンパークラインと称す)に乗り換えて漸く到着する。このルートでは所要時間1時間半だが、幸い西国分寺から大宮直通の8時13分発の「むさしの号」に乗車したので、1時間余で到着した。
見学会案内に1万歩歩くと書いたので、参加者は50~60人と予想していたが、受付を始めたら申込が殺到し締切期限前に80名に達したので食事場所や運営上締切とした。
岩槻駅では、お願いしておいた「岩槻ボランティアガイド」6名の出迎えを受け、9時45分からガイドの案内で最初の見学地芳林寺に向かった。
芳林寺は、太田道灌の孫岩槻城主太田氏資が母芳林院の追善供養の為他から移した寺だが、太田氏歴代当主の位牌が安置され太田道灌の騎馬像がある。この前でまず記念撮影して、当日の歩行参加者71名を健脚・普通・ゆっくりなど6班に分け、それぞれガイドが付いて案内してもらう事にした。2つ目の見学場所市宿八雲神社を見学していた10時15分頃から心配していた雨が降り出し、傘をさしての見学会となった。次の岩槻郷土資料館は、昭和初期に建てられたアールデコ調の意匠が見られる警察署の元庁舎。岩槻の大昔の暮らし、歴史、暮らしの道具などが展示されていた。日光御成道だった道を歩き岩槻藩の藩校であった遷喬館に向かった。遷喬館は、県内で唯一残る藩校で茅葺の木造平屋建て、当時は武芸稽古場などもあり広大な敷地だったようだ。そして御成道の1本裏の道を歩いて人形博物館へ。ここは日本でも唯一の公立の人形博物館で2020年(令和2年)旧岩槻区役所跡地に建てられた。約6千体の人形と資料を展示している。
岩槻時の鐘は1671年に設置されたが、鐘にひびが入り1720年に改鋳され今日に至っている。川越の時の鐘が有名だが岩槻の時の鐘が県内最古で、現在は1日3回自動鐘撞機により鳴らされている。ゆっくり歩く班は昼食場所に向かい、健脚グループは更に岩槻城址公園へ行き名残の桜、黒門などを見学した。
昼食場所の「ほてい家」さんは1800年頃創業の老舗料亭でさいたま市伝統事業所にも指定されている。入口の門をくぐると桜がまだ見頃で風が吹くと花吹雪が舞った。玄関から階段には吊るし雛が飾られ2階の大広間には立派な雛人形が数多く飾られていた。そして見た目にもきれいな籠膳は女性陣から好評であった。早い班は12時半に到着、最終班は13時頃になり食事開始時間が異なったので、食事を終えた班から解散とし、三々五々岩槻駅に向かった。
今回は参加人数、乗換も多く交通案内や受付に大勢の皆さんに手助け頂いた。お陰で無事に見学会を終えることが出来た。
(参加者72名、食事のみ1名)
担当(森、嵯峨山、藤森、閑野、太田〔義〕)

2026年04月07日

埼玉古墳群・行田の史跡を巡りました

紀行文

3月10日(火)さきたま古墳群、行田の史跡を訪ねる 担当 織壁、佐藤、立川、沢熊
自宅を出る頃の雨は、三浦屋広場へ着く頃には細かな雪に変わった。総勢49人を乗せたバスが出発した7時半頃には、本降りの春の雪となった。しかし、中央高速の八王子ジャンクション付近で降り止み、圏央道に入ると、雪はみられない。目的地の忍城址•行田市立郷土博物館を一路、目指す。途中に副会長で古代史、中世史に詳しい馬淵さんから「金錯銘鉄剣」についての解説を聞いた。
10時半頃、行田市郷土博物館着。博物館は忍藩の歴史を主に紹介展示している。学芸員さんの解説のあと見学。再建ではあるが忍城の御三階櫓は威容を誇っていた。複製だが、天守にあった鯱鉾が大きく立派だった。
次にバスで15分ほどのさきたま史跡の博物館へ。昼食のためのレストハウスは屋根があるものの、吹きさらしだ。参加者は、お弁当に舌鼓を打ったが風が冷たく寒い。ほうほうの体で、午後からの見学の「さきたま史跡の博物館」に集合した。
この博物館には展示の目玉で参加者が興味津々の「金錯銘鉄剣」がある。前月迄はレプリカだったが、2月中旬に2年半ぶりに本物の展示をしたばかり。2班に別れ学芸員から鉄剣とさきたま古墳公園について説明を受けた。鉄剣は展示ケースも刷新され、一段と鮮明になった錆びた刀身に細い字の象嵌115文字が展示されていた。
外に出て「さきたま古墳公園」の見学に向かう。公園全体には9基の古墳があるが、時間の関係もあり3基に的を絞り見学した。「瓦塚古墳」や「愛宕山古墳」を右手に見ながら北へ進むと、小高い丘のような日本最大級の円墳である「丸墓山古墳」が正面にそびえていた。そばには、石田三成が忍城を水攻めした時のなごりのある「石田堤」も見える。ここで記念撮影した。
続いて、鉄剣が出土した「稲荷山古墳」へ。南側からは大きな古墳が一望に出来る。全員が徒歩で古墳に登り、見学。「大きかった」との印象だ。次は「将軍山古墳」。ここはこの古墳群の中で唯一、墳丘内部の石室を公開している。並べられた副葬品などは往時を偲ばせる。次に武蔵国最大の前方後円墳の「二子山古墳」を横に眺めバスに戻る。今回の古墳ウオーキングは見学会の掉尾を飾るに相応しい企画だった。すべての見学が順調に進んだので、当初の予定を早めて2時頃に行田市を後にして、往路を小金井へ戻った。帰着は5時前だった。
担当 織壁、佐藤、立川、沢熊  (参加49名)

2026年03月10日

ハンセン病資料館と東村山東部を巡りました

紀行文

2月10日ハンセン病資料館と東村山・東部の史跡を訪ねる 担当(塚田、織壁、大堀、沢熊)
二日前の積雪から一転、暖かな陽ざしに恵まれた。東村山ボランティアさんの案内で、東村山、清瀬、所沢にわたった里の道と文化財、そして国立療養所全生園と敷地内にある国立ハンセン病資料館を見学した。ハンセン病の実相とあやまった政策と偏見のために、患者と家族に方々が受けた苦難について知り、人権を心に刻む見学会となった。
武蔵野線新秋津駅から里の道を南へ向かう。穏やかな南斜面に畑地が広がり、庭先販売のほうれん草がみずみずしい。太平洋戦争末期に庭先にB29が墜落。搭乗員を悼み平和を願い個人が協力者に呼びかけ造立された平和観音をたずねる。傍らに英語訳が併記された氏名生年月日の銘文がある。志木街道をわたり、その名の通り川底が白い石ばかりの空堀川の曙橋をわたる。上り坂の先には全生園の柊の垣根でおおわれた林がある。その一角にある国立ハンセン病資料館へ。前身は1993年入居者自治会により作られた資料館で2007年リニューアル開館。展示見学の前に15分のビデオ学習。展示は①ハンセン病の歴史 ②療養所内でのかつての暮らし ③患者と家族の人権回復への戦いと芸術活動。とても充実した見ごたえのある内容。「もっと時間が欲しい」との声も。
屋外に出てかつての墓地、納骨堂、望郷の丘など遺蹟を見学。園内の売店と郵便局の前を通った。現在も88名の方が生活されているとのこと。
再び空堀川右岸を東へ。野塩橋のたもとに供養塔。西武線下をくぐった先に野塩八幡宮。山門わきの文字がやさしい。円福寺は禅寺。整えられた境内に堂々とした本堂。地元大工の労作の三重塔。本堂より古い薬師堂には、願いがかない目の病が癒えた琵琶法師が琵琶を枝にかけて去った松の伝説。仁王像に見送られてでれば、薬師橋。道の四ツ辻にひざ丈ほどの馬頭観音の道しるべ。次の辻には屋根のある地蔵様。かつての賑いがしのばれる。西武線秋津駅近くに花見堂。線路をわたり出発地点の新秋津駅で解散した。(参加者 63名)

2026年02月10日

川越で初詣

紀行文

1月20日(火)
今年は川越大師 喜多院で初詣            担当(閑野、坂倉、垂水、沢熊、中島)

 寒さと乗換駅の混雑を考えて集合時間をゆっくり設定しました。やはり風が冷たく、交流センター横での受付にしました。人数が集まった所で、役員にお願いして国分寺迄先行してもらいました。 本川越駅に着き、トイレ休憩の後集合してもらい、昼に解散食事は各自でと説明し川越の観光パンフレットを配りました。最初の見学地までは、道が狭く車も多く心配でしたが皆一列で歩いてくれて仙波東照宮に到着しました。
 仙波東照宮は徳川家康公の遺骸を久能山から日光山に改葬途中、この地で天海僧正が大法要を営んだ所です。残念ながら山門が締まっており、奉納の灯篭は隙間から見てもらいました。次いで喜多院です。寛永十五年、徳川家光公の命で江戸城御殿から、客殿・書院・庫裏が移築され、江戸時代当時の建物を体感する事が出来ます。三十分の時間を取りゆっくりと見学してもらいました。久能山から日光山への道筋を地図で確認、家光公誕生の間の格天井絵、春日局化粧の間等を見てもらいました。 次に川越大師(慈恵堂)を拝観、中央に元三大師良源像が祀られています。 
 次は五百羅漢の石仏、日本三大羅漢の一つだそうで、四十年かけて作られたものです。それぞれの表情がとてもユニークで見飽きません。ここで喜多院を後にしました。少し行くと最後の見学地、成田山 川越別院、本堂をお参りして貰った後、四国八十八ケ所の砂が埋められたお砂踏みを、説明後お参りしてもらいました。駅前のメインストーリーに、ぶつかる所まで行き、自由解散しました。その後、「菓子屋横丁」に行き名物の焼き芋を食べた方、「時の鐘」を見て、鰻を食べた方もいると思います。        (参加者55名 内会員外4名)

2026年01月20日

國學院大學と渋谷界隈を巡りました

紀行文

12月9日 國學院大學と渋谷界隈を巡る     担当(坂倉、藤井、佐藤、島田、白倉)

今年の掉尾を飾る見学会は来るたびに様相が変わる渋谷周辺を歩いた。恒例の「三浦屋広場」に集まったのは約60名。JRと井之頭線を乗り継いで、発進地点の京王井の頭線渋谷駅西口では72名に達した。参加者数として過去最多数水準。大人数だ。リーダーの想定の上限に張り付いており、配布資料は2冊しか残らず、薄氷を踏む思いだった。幹事としては嬉しい悲鳴の始まりとなった。
ハチ公像を横目に見ながら、参加者による長い縦隊が続く。坂道を歩いて着いたのが「尾崎豊記念碑」だ。旧東邦生命ビル(現・渋谷クロスタワービル)にある。夭折のシンガー・ソングライターだけに、聖地巡礼のファンも絶えないとか。記念碑の周辺にある壁面にはチヨークでメッセージが書かれている。「豊が夕日を眺めていたという歩道橋はもうないのね」とため息をつく老婦人がいた。
さらに歩を進め、青山学院、実践女子大学から、常盤松御用邸(常陸宮家の邸宅)の脇を通り、「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」へ向かう。常設展示では、渋谷の先史から現代までの通史を紹介する「博物館展示」と、渋谷ゆかりの文学者を紹介する「文学館」があり、企画展示は「写真展 青山通りを走った都電」(2月1日まで)が開催中だった。
そこから約50㍍ばかりにあるのが、この日の目玉の「國學院大學博物館」。日本文化の講究に必要な文化財を収集・保存し、学術的な研究成果を一般に公開するとともに、広く内外の研究教育活動に資することが目的とか。博物館内部は「考古」「神道」「校史」の3ゾーンに別れている。和鏡(白銅製)を実際に「重さを感じてみよう」「文様を触ってみよう」「反対側(鏡面)はどうなっている」の三要素で分析・体験する、面白い展示もあった。
2月23日までの企画展「性別越境の歴史学」には「ジェンダー」という時代の流れに棹さそうという博物館としての「問題意識」や「意欲」が感じられた。ちょうど、お昼時でもあったので國學院さんの学食を利用させていただいた。参加者は3つある食堂で若者達に交じって舌鼓をうった。食後は徒歩5分の山種美術館へ。参加者は56名で、全体の72名から見ると、5名のうち4名、全体の80%が参加した計算。こちらも大盛況だった。
(参加者 72名)

2025年12月09日

飯能天覧山を登りました

紀行文

11月11日(火) 紅葉の飯能をのんびり歩き、明治天皇が軍事演習を統監した天覧山197mに上る
(担当 太田(祐)・島田・森・嵯峨山・閑野)
飯能という地名は聞いたことはあるが、どこにあるかはわからない。くまが出たぞ、というというのを聞くとそんな田舎でもなさそうだが、有名な神社仏閣は知らないし、美味しいものがあるとは聞かない。あとは、テレビで知るのは、飯能からちょっと北にある曼珠沙華の巾着田くらいで、季節になるとそれを聞きつけた人が車で押し寄せ、行ってみるとそこから抜け出すのに何時間もかかったという、テレビで見かける光景である。それと飯能河原のバーベキューくらいか。
したがって、現場で推奨するのは天覧山と能仁寺の紅葉くらいで、市の観光課としては温泉や城跡がほしい。百年以上前に上野戦争とか飯能戦争とかはあったが、どことどこが戦って、自分はどっちに味方していいのかもわからないので、興味はわかない。
結局ここが選ばれたが、案内人は5名、どうしたものかと思案した。くまが出た、というニュースをどれだけの人が覚えているものか。山に対する反応はどうか。何人が参加するかによって、「案内」と地図はどのくらい用意したらよいか、気にしてもしょうがないが気になった。地図は飯能駅の旅行案内所でもらったが、60部しかなかったので「案内」もそれに合わせた数を印刷した。
当日集合時間まで皆さんをお待ちしたが、どうも出足が悪い。それは行程が国分寺を通るのでそこから参加する人も者いるのだろうと考えた。最終集合場所の飯能駅で人数点検をしたところ、参加者はなんと59名であった。
 飯能は、木材・生糸・石灰など江戸への流通の要衝であった。シャッター街ではあるが何となく古風で昭和の気配が残り、豊かに暮らせそうであり、歩きながらそんな声も聞こえてきた。
 山にさしかかると山道をみんな軽く登っていく。薄日がさし風もなく暖かい。頂上直下の天覧山中段を休憩所として用意したが不要で、ほとんどの人が頂上に立った。昼食後、能仁寺を訪れたが紅葉はもう一つ。隣のみやげもの屋では多くの方がそれぞれ家族への想いを、買い物かごにたくさん入れていた。飯能博物館の学芸員から解説を聞き、我が会の締めくくりに相応しい時間が持てた。ここ飯能博物館で一次解散し、希望者は飯能河原へ寄り河原を歩いたが、多くの方が参加した。各自飯能駅経由で帰途についた。
当日、各場所での出発・集合時間表を作成したが、報告・連絡・相談が確実になされ会員もそれに従い、運営は万全であった。 (参加者 59名)

2025年11月11日

多磨霊園を巡りました

紀行文

多磨霊園小金井門から浅間山を巡る
10月7日(火)

多磨霊園の有名人のお墓巡りは、令和になってから3回目。1回目は令和2年12月に府中正門の周辺、2回目は令和3年11月に小金井門周辺を巡った。今回は小金井門を入って西の地区14区から浅間山近くの26区までの有名人のお墓である。
今年は過去に例のない猛暑が10月に入っても続いていたが、見学会当日は幸い平年並みの気温に下がり、曇り空で直射日光が無く霊園巡りには願ってもない天気であった。
9時30分に小金井門集合で、近くの広場で記念撮影をして、多磨霊園の概要を説明した後出発。最初のお墓は菊池寛、文豪にして後進育成のため文藝春秋社を設立し小説家の登竜門である芥川賞、直木賞を創設した大御所である。次に石川泰三、官僚から第一生命社長になりその後経団連会長を3期務め財界の総理とも言われた人物である。第一生命本社ビルは戦後GHQに接収され、彼の使用していた社長の机と椅子をマッカーサーがそのまま使ったエピソードを紹介した。続いて野村胡堂、田山花袋、堀辰雄、向田邦子、田河水泡、江戸川乱歩など14名の略歴、業績を人物像が分かるように説明した。これらの人物は参加者にも馴染みがある人が多く、昔読んだ小説などに思いを馳せた事だろう。お墓巡り終了後、
自転車で来た人、歩き疲れた人など8名はスタート地点まで戻り、残り35名はキスゲ橋を通り浅間山に向かった。
浅間山は府中市唯一の山で標高79.6m。堂山、中山、前山の3つの山で構成されており一番高い堂山頂上には浅間神社が祀られている。浅間山は日本で唯一の「ムサシノキスゲ」自生地で4月下旬から5月上旬に開花し参加者の中には見に来た方も多かったが、中山、前山の頂上は初めてという方が多かった。ムサシノキスゲの他、キンラン、ギンラン、ヤマユリなどの山野草、コナラ、クヌギ、イヌシデなどの樹木、野鳥の飛来も多く自然観察や足腰トレーニングに最適の場所であり四季を通じて訪れてもらいたい山である。
浅間山を新小金井街道側に下山して13時8分のバスに乗車して武蔵小金井駅に向かった。本日は3名の新規入会者があった。

(参加者43名)
担当(森、太田〔祐〕、垂水)

2025年10月07日

富士山を巡りました

紀行文

9月見学会 世界遺産 富士山の裾野を巡る   担当(塚田、藤井、桜井)

未曽有の酷暑を逃れ9月例会は富士山詣で史談会有志による富士講をおこないました。予定通り、7時15分にバスで出発。天候に恵まれ、富士の雄姿を間近にして遥拝でき、富士山を学び富士山に触れた1日でした。酷暑を逃れて涼やかな風を期待しましたが、少々の涼けさ程度、富士山もまだ夏でした。
最初に山梨県施設、富士山世界遺産センターにてガイド説明で富士山を学び、一気に五合目にバス登頂して、雲の合間に覗いた山頂を遥拝。異国の人の多さに今更の驚き、五合目の小御岳神社で記念撮影をしました。
昼休憩で訪れた旅の宿kawaguchiko-beseは、新しく広々とした施設で、料理も美味しく買い物スペースも大きくゆったりと楽しめました。
午後のサービス企画、北原照久ミュージアムは、昭和の玩具と懐かしのスタープロマイドに甘酸っぱい青春のときめきがありました。
最後に富士山の内部、鳴沢風穴洞に潜り、富士の内部を覗き未だに残る氷結と寒気に震え上がりました。
帰路は懸念していた高速道渋滞もなく予定より若干早めの17時30分に帰着、楽しめた富士詣、富士講であったと思います。
実は五合目で見上げた頂上、60年前頂上の山小屋でアルバイトをしていたのですが、その頃は五合目が樹木限界で、頂上まで緑なんて一切ありませんでした。それが今は点々と緑、六合目付近迄はビッシリ、八合目あたり迄まばらに緑があります。先日TVで石原良純が登頂する番組でそのことを話していました。温暖化で樹木限界が上がっているのですね。かつては、五合目樹木限界付近は這松しか生えてなくて、それが今は頂上付近迄イネ科の草が生えそれを食べる鹿まで写されました。時代が変わったのではなく、地球が、地球環境が変わっているのだと今更に驚きました。ともあれ9月9日の富士山は穏やかに美しい姿を見せてくれました。
史談会富士講は、この世界遺産を大切に守ることを願い、無事に終えました。感謝! 
(参加者数54名)
付記して少々のトリビア。
日本の山岳信仰に天狗と山伏はつきものです。出羽三山に例えればわかり易い。羽黒山、月山、湯殿山と連なる出羽三山で修業する山伏は、羽黒山で現世利益を得て、月山で死後体験をし、湯殿山で新しい生、天狗に生まれ変われたとか、天に近い山岳は他界と現世をつなぐ場所として崇められたのです。五合目に祀られた小御岳神社にも大きな天狗の面が飾られていました。

2025年09月09日

神田川クルーズを楽しみました

紀行文

8月26日(火) 神田川クルーズと日本橋界隈を巡る       担当 (塚田・太田祐治・間島・佐藤・垂水)
当初、6月に実施予定であったが、明治神宮の花菖蒲見学会を6月に、7月は清里高原見学会にして、8月に実施する事となった。船会社に予約後は、基本的にキャンセル出来ないので、大型船(定員44名)と中型船(定員26名にうち16名)計60名で予約をし、追加人数分は当日支払いとした。
武蔵小金井駅始発8時14分乗車し神田駅で地下鉄銀座線に乗換。三越前駅で下車。地下道で絵巻『熈代勝覧(きだいしょうらん)』を見学。みな見入っていた。徒歩で常盤橋公園の渋沢栄一銅像前で集合写真撮影。貨幣博物館は、日本のお金の歴史が展示されているめずらしい博物館であった。
神田川クルーズは、11時と13時出航だったので2班に分かれて行動。A班は日本橋の乗船場へ向かい、B班は日本橋コレド2で早めの昼食。
クルーズ船は、日本橋を起点に神田川、隅田川を巡るガイドの説明付き90分の船旅。江戸時代からの歴史的な建造物や、川からしか見えない風景の説明を聞きながら楽しみ、大変好評であった。銀行発祥の地、旧渋沢栄一邸跡地の日証館、兜神社、そして東京証券所の東京アローズ等を見学し、A班は13時30分頃茅場町駅、B班は14時40分頃日本橋駅付近で解散。(参加者 64名)

2025年08月26日

清里高原とシルクロード美術館を巡りました

紀行文

7月22日(火) 清里と平山郁夫シルクロード美術館を訪ねる  担当 (織壁・塚田・福崎・垂水・太田義守)
暑さ対策として、今年8月は涼しい清里高原にバスで行く事にした。参加が予定より多くなったため、会費を500円値下げ。定刻前に出発。弁当を談合坂SAで購入する予定だったが販売なし。しかし大半の方が自宅から弁当を持参し、問題とならずほっとした。
甲斐駒ケ岳から伏流を使っている酒造『七賢』の台ケ原宿へ。「日本の道100選」に選ばれている。『七賢』の建物は明治13年に明治天皇が行幸で宿泊。明治から続く和菓子処『金精軒』も立ち寄った。
三分一湧水は八ヶ岳の懐から湧き出る水量豊かな湧水「日本名水百選」。その昔、水の争いが絶えなかったため、武田信玄が湧出口の分水枡に三角の石柱を築き、三方向に流水を分岐したという。清里高原の方向に黒い雲と入道雲が現われ、雷もなり始めたため、ここで集合写真を撮っておくことにした。
平山郁夫シルクロード美術館に到着。我が国の仏教文化と関係の深いシルクロードの美術・文化の理解を深めることを目的に2004年開館。コレクションは、ヨーロッパ、アジアの約37ヵ国地域で作られた古代から絵画、彫刻、工芸品など、約10,000点の貴重な遺産展示、保存。時間をかけ見学した。
清里・清泉寮に昼過ぎに到着。前日の予報では、清里高原は午後から雨。幸い降っていなかった。小金井市の本町小学校6年生がバス3台で来ていた。到着後、牧場を背景に全員で集合写真。標高1,400mの清泉寮のベンチで昼食。名物のソフトクリームを食べたり、高原みやげを探したり、牧場をのんびり眺め八ヶ岳の自然にふれることができた。
清里高原の開拓は、昭和13年に、奥多摩湖建設のために故郷を追われた丹波山村、小菅村の人々が清里の地に入植し、開拓を始めた。この開拓を支えたのが、開墾事務所長の安池興男。清泉寮は、現在はロッジ、レストラン、 キャンプ場などの宿泊・研修施設であるが、建設 当初は清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュが指導した清里教育実験計画:KEEP (Kiyosato Educational Experiment Project)の一環 としての、日米協会青年活動によるキリスト教研修の中心施設であった。
清泉寮を定刻の14:50に出発し帰途についた。清里駅前を通り、中央高速道路を予定通り進んだが、韮崎近辺から工事渋滞になった。結果的に100分遅れの19:10武蔵小金井に到着となった。
(参加者 47名)

2025年07月22日
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