最近の活動です

活動・見学会報告

佐倉を訪れました

紀行文

佐倉城下町と国立歴史民俗博物館を訪ねる       3月11日(火)   
佐倉は江戸と佐倉城および成田山新勝寺を結ぶ佐倉街道の交通の要衝にあり、城下町として栄えました。城跡や武家屋敷群が現存し、街並みは日本遺産に認定されています。
午前七時すぎに小金井を出発、東関東自動車道をとおり、最初に向かったのは佐倉順天堂記念館。NPO法人佐倉一里塚のボランティアガイドさんの解説で佐倉順天堂、旧堀田邸、武家屋敷を見学しました。わかり易くとても勉強になりました。
順天堂記念館では日本の医学の近代化に尽くした功績を伝えるため資料や医療器具などを展示しています。天保14年、当時の佐倉藩主堀田正睦が招いた蘭医の佐藤泰然(たいねん)が開いた医院で、蘭学塾。明治時代の医学を支えた人材が多数輩出され、現在の順天堂大学は、泰然の養子の佐藤尚中(たかなか)が開設したものです。
旧堀田邸は多くの大老、老中を輩出した佐倉藩の最後の藩主・堀田正倫(まさとも)の明治期の邸宅。玄関、座敷、居間、書斎、湯殿および、土蔵、門番所の七棟が国重要文化財です。庭園はさくら庭園という愛称で、自然の地形を利用した美しい造りで国指定名勝です。集合写真を撮りました。
佐倉武家屋敷は、道に面して門を設け、生垣・土塁を築き、その奥に玄関や庭があります。菜園をつくり、屋敷の境界には木を植え、背後の斜面は竹藪になっています。屋敷は、藩が所有し、藩士の家格や役職に合わせ貸しあたえられます。旧河原家は大屋敷で最も古い。旧但馬家は元からあった場所にあり中屋敷。旧武居家は百石未満の藩士が住む小屋敷にあたります。屋敷地の形状や植栽に当時の武家屋敷の特徴をよく残しています。
一時すぎに国立歴史民俗博物館に到着。レストランさくらで昼食をとり、見学しました。歴史学、考古学、民俗学の資料を展示し、日本最大級の規模を誇る博物館。佐倉城址の北側にあり、広大な敷地には、先史・古代から現代に至るまでの資料がテーマ別に、たくさん展示されています。とても時間がたりませんが、それぞれの興味で見学した後、三時半に現地を出発し帰途につきました。担当 垂水、織壁、白倉、塚田  参加者(45名)

2025年03月11日

日野と高幡不動を訪ねました。

紀行文

令和7年(2025年)2月5日(水)   土方歳三のふるさと日野と高幡不動を訪ねる
今回は、二班に分けて「日野新選組ガイドの会」の4名の方の案内で見学しました。日野宿本陣は名主を務め、土方歳三の義兄で新選組の支援者として知られる佐藤彦五郎の旧宅で、近藤勇、土方歳三、井上源三郎らも訪れた新選組ゆかりの建物です。本陣は宿屋と違って、大名や幕府役人など身分の高い人の宿泊所です。都内に残る唯一の街道の本陣建築で、東京都の史跡に指定されています。
土方歳三資料館は新選組副長である歳三が子供のころに住んでいた家の跡地にあります。歳三が池田屋事件で使用した鎖帷子、八月十八日の政変時に使用した鉢金、土方家伝来十文字槍(銘:助宗)、稽古に用いた天然理心流木刀、京時代使用の鎖帷子、さらに歳三も行商をした土方家の家伝薬である石田散薬に関する史料などを公開しています。館長の土方愛さんの解説で見学しました。その後、石田寺にある土方歳三の墓をたずねました。歳三は明治2年、北海道函館にて戦死。享年35歳でした。
井上源三郎資料館は新選組六番隊組長、井上源三郎の生家。八王子千人同心を代々務めた井上家。源三郎の兄・松五郎は佐藤彦五郎に天然理心流を紹介したと言われています。源三郎は、慶応4年鳥羽伏見での官軍との戦いで銃弾を腹部に受けて戦死、享年40歳。館長の五代目子孫・井上雅雄さんが天然理心流の型を見せてくれました。
高幡不動尊は真言宗智山派別格本山「高幡不動尊金剛寺」で関東三大不動の一つ、高幡不動尊として親しまれています。新選組土方歳三の菩提寺としても知られています。記念写真を撮り、午後1時解散しました。
                      担当(織壁、塚田、森、垂水、間島) 参加者(47名)

2025年02月05日

新年の川崎大師を訪れました

紀行文

厄除けの川崎大師で初詣        令和7年1月14日(火)
 新年はじめての見学会は関東の厄除け三大師の一つである川崎大師での初詣です。川崎大師の正式名は「金剛山 金乗院 平間寺(こんごうさん きんじょういん へいけんじ)」と言います。
 その昔、平間兼乗(ひらま かねのり)が42歳の厄年のとき、夢のお告げに従い海中から引き揚げたお像をお祀りして供養を続けると、兼乗はそのご加護ご利益をいただき自身の厄が除かれました。そして、高野山の尊賢上人とともに平間寺を建立。以来、「厄除けのお大師さま」として全国的に知られ、厄除け、家内安全や交通安全、商売繁盛、健康長寿など諸願成就にご利益があると言われています。
その川崎大師と合わせて訪れたい表参道や仲見世商店街も魅力的です。
今では当たり前の「初詣」ですが、その発祥は川崎大師だという説もあります。三が日の初詣客は全国3位と言われるほどで、1月中は大変混雑するそうで、混雑が予想されることから、今回は川崎大師のみの見学会としました。
 8時30分にイトーヨーカドー前広場に集合し、3班に分かれて立川駅を経由して、JR川崎駅に行き、人数確認をして、京浜急行の川崎駅に向かいました。そこから5分ほど歩くと、京浜急行川崎駅です。電車で3つ目に京浜急行川崎大師駅があります。
川崎大師駅を降りてすぐに『京浜急行発祥の地』の碑がありました。関東で初めて、全国では3番目にできた電気鉄道の創設を記念して作られたものです。京浜急行電鉄が創立70周年を迎えた昭和43年に発祥の地である川崎大師駅に車輪をかたどったモニュメントが建立されました。モニュメントの下部には、開業当時の内容が書かれていました。「明治5年に日本で初めて鉄道が開通してから、新橋~横浜間を蒸気機関車が走り始めました。そこで川崎駅から川崎大師への参拝客の多さに注目した資本家の立川勇次郎が、明治31年に京浜急行の全身である大師電気鉄道を創設しました。開通日は川崎大師平間寺の縁日にあたり、参拝客以外の見物人が大勢押し寄せて、数十人の警官が整理に当たるほどのにぎわいだった」そうです。
この広場は整備されており、「けいきゅん」という京浜急行のマスコットキャラクターの木彫りのモニュメントもあり、ここで、集合写真を撮りました。
混雑を考慮して、ここで解散。それぞれが、川崎大師の初詣を楽しみました。
担当【佐藤(環)・閑野・中島・坂倉・間島】(参加者 33名)

2025年01月14日

港区高輪とその周辺を巡りました

紀行文

冬の寒さが厳しくなった朝、武蔵小金井駅前に早くから集まった元気な史談会会員は、朝の通勤ラッシュにもまれながら四ツ谷駅から白金台駅を目指した。
はじめに訪れたのは江戸時代に中国から伝えられた禅宗・黄檗宗の東京の中心寺院である瑞聖寺。高層マンションが立ち並ぶ都心の一角に大雄宝殿(本殿)が中国風の趣きある佇まいで静かに建っている。国の重要文化財に指定されている。庫裡は2018年に建築家隈研吾氏の設計により再建された。大きな水盤風の池が配され、美術館を思わせる壮麗な空間である。
港区立郷土歴史館は昭和13年に、東大安田講堂を設計した内田祥三による鉄骨・鉄筋コンクリート造。外観はスクラッチタイルで覆われたゴシック調の外観で威風堂々とした建物。旧公衆衛生院であったものを保存・改修し、港区の郷土歴史館として再生された。幕末維新期を中心とした展示物や建物の意匠は見どころ満載で3つの班に分かれて見学。この歴史的建物をバックに、全員で記念撮影。
隣の東京大学医科学研究所の正門を入ると、左に近代医科学記念館がある。レンガ風の建物は血清製造のため、多くの馬を飼育していた。その気高い命と栄光を讃えて当時の厩舎を模した建物となっている。北里柴三郎などの業績や伝染病研究の歴史的資料の保存と紹介をしている。
レストランが併設されて、そこで昼食をとった。事前に注文しておいたイタリアンレストランのカレーは美味しかった。
48人で赤穂義士の墓をお参りした
食後は地下鉄で白金台駅から1駅の白金高輪駅で下車。立行寺にある大久保彦左衛門と一心太助のお墓に詣で、旧細川家下屋敷跡にある大石内蔵助切腹の地を見学し泉岳寺へと向かった。白金・高輪は起伏にとんだ街で坂が多い。途中、高輪区民センターの直通エレベーターを利用して坂を登らず近道をした。このエレベーターは5階までの直通エレベーターで住民の通行路となっている。
泉岳寺で一次解散。帰宅組は先に高輪大木戸跡を見て高輪ゲートウェイ駅に向かった。
泉岳寺の見学組48人は赤穂義士の墓をお参りし、高輪大木戸跡を見て帰路についた。時計は15時半をまわっていた。 (参加者58名)
担当(塚田・白倉・岡田・坂倉・間島)  

2024年12月10日

ロケで有名な大森邸などを訪れました。

紀行文

見学会報告  有名なロケ地大森邸と東小金井散策
11月12日(火) 担当(閑野、太田(祐)、中島)
 久しぶりの東小金井駅集合です。天気は晴天、夏の歴史見学写真展でも大森邸を見学出来るのですか、
会員外でも参加できますかと聞かれたことから、人数が多くなりそうな予想はありました。
 事前に担当役員以外にも、受付等お手伝いお願いしました。会員だけでも74名となりましたので、2班に分け時間差を作り大森邸に向かいました。
東大通りを南に行きハケにぶつかる手前に大森邸はあります。重厚な表門、桜の古木が風情を与えています。ここは武蔵野公園・野川の散歩をする人の通り道でもあるので、中は如何なっているのか、気になっていた人も多かったのではないでしょうか。
大森邸は昭和40年に中野から移築されました。建物は大正期に建てられた近代和風建築です。一度に全員建物には入れないので、3班に分かれてもらい1班10分を目途に1階2階を見学してもらいました。
現在では手に入らない様な長い軒柱、広い廊下、大きなガラス窓、素敵な照明などを拝見しながら、思い思いに記念写真を撮っていました。残りの班は庭からの見学になりました。ここで名残惜しいのですが、次の見学場所に向かいました。大森邸を出て東に行くと西武多摩川線にぶつかります。
ここが、いちご橋です。東町の1丁目と5丁目を結ぶ橋でいちご橋との解説を聞きながら、トイレ休憩をお願いして置いた、公民館東分館のロビーで一休みした後、                
笠森稲荷に向かいました。赤く塗られたたくさんの鳥居を通り、参拝の後、もともとは屋敷内社で竹松稲荷と呼ばれていたが、明治42年の一村一社令で小金井神社に合祀され、昭和21年現在地に遷座した事、2月の初午には遠くからも参拝者が訪れていて賑わっているとの解説がありました。
次に南関野天神社に向かい参拝の後、本殿は小金井神社からの移築といわれる祠。扉の内側には梅とウグイスが描かれていて、正月には鶯が鳴いたとの伝説がありますと、貴重な写真を見ながらの解説を聞きました。ここで時間になり、一次解散とし、新小金井駅・東小金井駅を案内して解散となりました。
大森邸楽しんでもらえたと思います。(参加者99名)

2024年11月12日

渋沢栄一縁の深谷を訪れました。

紀行文

2024年 見学会報告

10月8日(火) 深谷・渋沢栄一ゆかりの地を訪ねる      担当(馬淵、太田(祐)、閑野、白倉)
10月初旬の見学会ということで秋晴れを期待していたが、生憎終日の雨模様となった。参加申込者数は申込締切り時点では募集人員を少し超えていたが、開催日近くになり体調不良や都合が悪くなってのキャンセルが相次ぎ、結局50名の参加者となった。予定通り7時15分に出発。関越自動車道を走り花園ICで下りて深谷市内に入り、最初の見学先である渋沢栄一記念館に9時40分到着。
今回の見学会見学先は一度の収容人員が少なく、2班に分けて見学した。渋沢栄一記念館は、渋沢栄一に関する多種多様の資料が展示されている。また渋沢栄一アンドロイドによる講義室があり論語に関する講義が聴けるが、残念ながら収容人員と時間の関係でパスした。
次に渋沢栄一の生家である「中の家(なかんち)」を見学。現在の「中の家」は、渋沢栄一が育った当時の家ではなく、家を継いだ栄一の妹夫婦によって明治28年に再建されたものである。二階建ての建物で規模が非常に大きい。ここでも渋沢栄一アンドロイドによる渋沢栄一に関する説明があった。1階奥の上座敷は、栄一が帰郷した際に滞在するために造られており、最上級の建材が用いられている。二階は養蚕に使われていた。
昼食は、近くの割烹「若菜」にて、この地の郷土料理である「煮ぼうとう」の定食をいただいた。
午後の最初は、渋沢栄一の従兄で論語をはじめ多くの学問の師である尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)の生家を訪れた。生家は江戸時代末期の商家の建物の趣を残している。尊王攘夷に関する謀議をしたと伝わる2階の部屋は、現在非公開ということで見学できなかった。生家奥の裏庭では藍が育てられていた。
次に、当初世田谷にあった第一銀行の保養・スポーツ施設集会所2棟の建物が取り壊されることになり、2000年に深谷に移築され保存復元された誠之堂(重文)と清風亭を見学した。それぞれ第一銀行頭取であった渋沢栄一と栄一の後を継いで頭取となった佐々木勇之助ゆかりの建物であり、大正時代を代表する建築物として高い評価を得ている。
最後に、かつて深谷では煉瓦が製造されており、その煉瓦を製造した旧煉瓦製造窯跡他を見学した。煉瓦製造の最盛期にはホフマン式輪窯と呼ばれる巨大な窯が6基稼働していたが、現在では1基のみが遺されている(重文)。平日は内部見学ができず、冊の外から見学した。明治28年に、煉瓦を製造施設から深谷駅まで運ぶ引き込み線が引かれ、その際窯跡近くを流れる備前渠に架かる鉄橋が造られ、今も遺されているその鉄橋(備前渠鉄橋(重文))を見学した。
以上で見学を終り帰途についたが、途中高崎線深谷駅を車窓から見学した。深谷の地で製造した煉瓦が東京駅にも使用されたことで、深谷駅は1996年に東京駅を模した橋上駅に改築されている。小金井には予定よりも早い17時30分に無事帰着した。      (参加者50名)

2024年10月08日

奥多摩・日原を訪れました

紀行文

奥多摩町・日原をたずねる 9月10日(火)
9月に入っても猛暑が続く中、涼を求めて東京都の西の端、奥多摩町日原をたずねた。
下見に行った際、窓口で「鍾乳洞内は急な階段が多く高齢者は転倒のリスクがある。けがをしても救急車が来るには50分以上かかる」と釘を刺されたので、見学案内に、足腰に自信のある方!と厳しく書いた。この為か参加者は47名だった。
予定より一本早い武蔵小金井8時27発青梅行で出発。青梅で奥多摩行に乗り換え、10時7分奥多摩駅に到着。鍾乳洞行のバスの追加をお願いしてあったので10時15分発の2台に分乗して鍾乳洞へ向かった。日原川沿いの道路を曲がりくねりながら10時45分に鍾乳洞到着。奥深い山を背景に記念撮影して、500m先の鍾乳洞入口に向かった。
日原鍾乳洞は関東でも最大級。総延長1,270m、高低差134m。洞内は年間を通じて気温11度で上着を着ても、真夏から真冬になった感覚、涼しいより寒いほど。天井が低く頭がつかえるところを通り奥へと進む。石灰岩が長い年月を経てつくり出した自然の造形に驚きを覚えた。昭和37年に発見された新洞は高低差と急階段があり健脚の方のみ挑戦、約40分の洞窟見学を終えた。
そして鍾乳洞上の洞門沿いのコンクリートに並んで昼食。目の前の小川谷の渓流や木々を眺めながらそれぞれ弁当に舌鼓を打った。12時10分からは近くの巨岩、梵天岩、燕岩、籠岩を見て、約2キロ先の森林館まで山々を眺めながら歩いた。途中の稲村岩は、高さ300mの巨岩で姿が美しい。
森林館には12時50分に着いたが、帰りの東日原バス発車時刻が13時15分なので駆け足の見学となった。奥多摩町は日本一巨樹が多い町だ。館内には、ミズナラの巨木のレプリカ、巨樹の写真や絵画などが展示されている。時間が無くてじっくり見学できなかったのが残念だ。2台のバスで東日原から奥多摩駅まで全員無事に戻った。温泉・もえぎの湯に行く人、ワサビを買いに行く人以外は、13時55分の電車で帰路についた。
評判が良かったのはトイレがきれいだった事。これは7年前に「オクタマ・ピカピカ・トイレ(OPT)」が発足、3名のクリーンキーパーが20ヶ所あるトイレを清掃しているとのこと。奥多摩町は自然もトイレも日本一美しく何度も来たくなる町だと思った。新規入会者2名、非会員2名 (参加者47名)
担当(森、太田義、太田祐、福崎)

2024年09月10日

館山を巡りました

紀行文

2024年08月27日  里見八犬伝の地・館山・南房総を訪ねる
愛犬八房の気を感じて懐妊した伏姫の数珠から「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八の玉が飛び出し、里見家を守る八犬士の若者となる。江戸時代の伝奇作家・曲亭馬琴が書いた「南総里見八犬伝」舞台の館山を訪ねた。
東京湾アクアラインから、館山道をとおり鶴ケ谷八幡宮に到着。この神社はかつての安房国の総社。拝殿の向拝には安房を代表する彫物大工後藤義光の彫刻がある。特に天井にある「百体の龍」は義光の代表作だ。
館山城は戦国武将里見氏の居城。里見氏は上野国の出で、15世紀末に安房を本拠とした。上杉管領、後北条氏などが入り乱れる戦国時代を戦い抜き徳川幕府の大名となったが、鳥取・倉吉へ国替えとなり、その後改易となった。
館山城八犬伝博物館へは、急な坂道を15分ほど登る。「滝沢馬琴とは本人は言っていません。曲亭馬琴です…」などと学芸員さんの案内で、展示を見る。天守を模した建物の最上階から館山湾、東京湾の絶景が見晴らせる。
海岸におりて、日本一長い「夕日桟橋」に向かう。豪華客船も寄港するという。先まで歩くと10分近くかかる。海風が心地よい。昼食は、漁師料理たてやまで海鮮料理を堪能した。
数日前から台風10号が来るぞとの予報があり、実施できるか心配した。思ったより「鈍足・迷走台風」で、影響がないことがわかった。アクアラインも桟橋も波はおだやかで予定通りの見学となった。
担当(垂水、閑野、織壁、桜井、間島) 参加者(45名)

2024年08月27日

上野・お茶の水博物館を訪ねました

紀行文

見学会紀行文
7月9日 上野とお茶の水の博物館等を訪ねる 担当(島田、塚田、垂水、太田(義)、白倉)
前々日は梅雨中での記録的猛暑になり、府中は40℃近くを記録し危険アラートが出た。そのため『参加者は少ないのではないか』と危惧したが嬉しいことに48名参加で、皆さん好奇心旺盛・会話を楽しむ。これらは日頃健康でなければできない。史談会々員は元気者ばかりと改めて感心した。今回は暑さ対策のために上野、お茶の水の博物館を訪ねた。
上野駅改札を出ると目の前が既に公園で、私事になるが、上野といえば西郷さん銅像、を想像する。周辺整備で隔世の感がした。小道を少し歩き日本最初の国立音楽教育を先導した奏楽堂(入り口横に滝廉太郎像)、その近くに西洋絵画の技法を広範囲に指導した黒田記念館(黒田清輝)。日本の黎明期で先駆者の努力が偲ばれる。
ここから徒歩10分程で東京国立博物館を見学する。入場は70才以上の証明証(健康保険証、マイカードなど)を提示すれば無料となり終日見学できる、国内外の美術品が網羅されていて、とても一日見学では困難なほどの展示がなされている。海外旅行者と思われる団体、家族の見学も多く、興味津々で日本文化に触れ神妙な気分で思案する姿が見られた。この建物前で集合写真撮影を行う。少し気温も上昇しはじめ、次のお茶の水へ向かう。
明治大学博物館では朝ドラの【虎に翼】展を開催していた。大学卒業生で52年前、史上初めて法曹の世界に飛び込んだ一人の女性三淵壽子が男世界の困難に立ち向かい道を切り開いた姿を描く。 他には恐ろしい犯罪・拷問道具、考古学の展示などガイドさんの説明を受けた。昼食時となり校舎の高層ビル・リバテイタワー17階でスカイラウンジの気分で学食を頂だき高揚感満点だった。
その後徒歩10分程にあるロシア正教会ニコライ堂で敬虔な説明を受け清楚な気分で現地解散した。小金井着4時半、天気予報の小雨には幸い会わなかった。                 (参加者48名)

2024年07月09日

講演会を行いました

講演

小金井史談会歴史講演会

小金井史談会写真展の最終日7月1日、小金井宮地楽器ホール小ホールで10時より定期講演会を開催。演題「赤穂浪士の討入りと国学者荷田春満(かだのあずままろ)」。やや地味な内容で少し心配したが来場者は80名(会員45名、非会員35名)の募集定員ちょうど。國學院大學名誉教授根岸茂夫様を講師に迎え、100分の熱演でした。
荷田春満は筆名で本名は羽倉斎(はくらいつき)。赤穂浪士討入りの元禄十五年十二月十四日吉良邸での茶会開催情報をもたらしたのは春満、という今までの概念を覆す内容でした。元禄十五年十二月十三日大石三平宛の荷田春満の書状が赤穂大石神社蔵に保存されており、その写しが当日資料として提供されました。映画・ドラマ・小説の「赤穂浪士・忠臣蔵」は大高源吾が茶人山田宗偏から得た情報を基に大石良雄が討入りを決断、十五日未明に吉良義央の首級を獲る、というのが通説でした。講演では、荷田春満の歌人・国学者の人生や徳川吉宗の享保改革にも参画した業績に触れ、その人となりを勉強しました。
講師の根岸先生は今年3月國學院大學を退任されたこともあるのか、語り口調が柔らかく、独自の仮説を聴くことが出来ました。例えば、赤穂浪士は47人ではなく120人位だった(目的達成のため第2、第3弾の組織があったのでは)とか討入り当日は47人以上だったなど。これらを纏められて世に出されることを願います。 (参加者数 80人)

2024年07月01日
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