最近の活動です

活動・見学会報告

神田川クルーズを楽しみました

紀行文

8月26日(火) 神田川クルーズと日本橋界隈を巡る       担当 (塚田・太田祐治・間島・佐藤・垂水)
当初、6月に実施予定であったが、明治神宮の花菖蒲見学会を6月に、7月は清里高原見学会にして、8月に実施する事となった。船会社に予約後は、基本的にキャンセル出来ないので、大型船(定員44名)と中型船(定員26名にうち16名)計60名で予約をし、追加人数分は当日支払いとした。
武蔵小金井駅始発8時14分乗車し神田駅で地下鉄銀座線に乗換。三越前駅で下車。地下道で絵巻『熈代勝覧(きだいしょうらん)』を見学。みな見入っていた。徒歩で常盤橋公園の渋沢栄一銅像前で集合写真撮影。貨幣博物館は、日本のお金の歴史が展示されているめずらしい博物館であった。
神田川クルーズは、11時と13時出航だったので2班に分かれて行動。A班は日本橋の乗船場へ向かい、B班は日本橋コレド2で早めの昼食。
クルーズ船は、日本橋を起点に神田川、隅田川を巡るガイドの説明付き90分の船旅。江戸時代からの歴史的な建造物や、川からしか見えない風景の説明を聞きながら楽しみ、大変好評であった。銀行発祥の地、旧渋沢栄一邸跡地の日証館、兜神社、そして東京証券所の東京アローズ等を見学し、A班は13時30分頃茅場町駅、B班は14時40分頃日本橋駅付近で解散。(参加者 64名)

2025年08月26日

清里高原とシルクロード美術館を巡りました

紀行文

7月22日(火) 清里と平山郁夫シルクロード美術館を訪ねる  担当 (織壁・塚田・福崎・垂水・太田義守)
暑さ対策として、今年8月は涼しい清里高原にバスで行く事にした。参加が予定より多くなったため、会費を500円値下げ。定刻前に出発。弁当を談合坂SAで購入する予定だったが販売なし。しかし大半の方が自宅から弁当を持参し、問題とならずほっとした。
甲斐駒ケ岳から伏流を使っている酒造『七賢』の台ケ原宿へ。「日本の道100選」に選ばれている。『七賢』の建物は明治13年に明治天皇が行幸で宿泊。明治から続く和菓子処『金精軒』も立ち寄った。
三分一湧水は八ヶ岳の懐から湧き出る水量豊かな湧水「日本名水百選」。その昔、水の争いが絶えなかったため、武田信玄が湧出口の分水枡に三角の石柱を築き、三方向に流水を分岐したという。清里高原の方向に黒い雲と入道雲が現われ、雷もなり始めたため、ここで集合写真を撮っておくことにした。
平山郁夫シルクロード美術館に到着。我が国の仏教文化と関係の深いシルクロードの美術・文化の理解を深めることを目的に2004年開館。コレクションは、ヨーロッパ、アジアの約37ヵ国地域で作られた古代から絵画、彫刻、工芸品など、約10,000点の貴重な遺産展示、保存。時間をかけ見学した。
清里・清泉寮に昼過ぎに到着。前日の予報では、清里高原は午後から雨。幸い降っていなかった。小金井市の本町小学校6年生がバス3台で来ていた。到着後、牧場を背景に全員で集合写真。標高1,400mの清泉寮のベンチで昼食。名物のソフトクリームを食べたり、高原みやげを探したり、牧場をのんびり眺め八ヶ岳の自然にふれることができた。
清里高原の開拓は、昭和13年に、奥多摩湖建設のために故郷を追われた丹波山村、小菅村の人々が清里の地に入植し、開拓を始めた。この開拓を支えたのが、開墾事務所長の安池興男。清泉寮は、現在はロッジ、レストラン、 キャンプ場などの宿泊・研修施設であるが、建設 当初は清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュが指導した清里教育実験計画:KEEP (Kiyosato Educational Experiment Project)の一環 としての、日米協会青年活動によるキリスト教研修の中心施設であった。
清泉寮を定刻の14:50に出発し帰途についた。清里駅前を通り、中央高速道路を予定通り進んだが、韮崎近辺から工事渋滞になった。結果的に100分遅れの19:10武蔵小金井に到着となった。
(参加者 47名)

2025年07月22日

明治神宮を訪れました

紀行文

6月18日 悠久の社明治神宮、華族の館前田公爵邸、生活の美日本民藝芸館
                       担当 藤井、坂倉、白倉、島田、小林、織壁
想定外の未曽有の暑さ、6月観測史上記録を更新するなかで、悠久の杜明治神宮から華族の館前田侯爵邸、生活の美を謳った日本民藝館と、明治を巡る見学会でした。法外な暑さに参加人数を心配しましたが、それでも42名の参加、午後の部の駒場東大前に降り立った人数は精鋭31名、会員のエネルギーに圧倒される1日になりました。
明治神宮は初詣で知られていますが、その広大な規模、特に知られざるオアシスである荘厳な杜と庭園に焦点をあて、咲き誇る花菖蒲田のある御苑と百年の杜を歩きました。
午後は駒場に場を移し、東大教養学部を横目に歩き、前田侯爵邸のある駒場公園で前田侯爵の和館と洋館の壮大な邸宅に明治の絢爛と華族の生活を知り、次に隣接する民藝活動の拠点、柳宗悦が設立した日本民藝館で庶民に息づく用品の美を堪能し、終日の活動を終えました。
さて、少々のトリビア。
明治神宮は、加藤清正の加藤家の下屋敷敷地で、井伊家・前田家と大大名の下屋敷が並んでおり、新宿御苑は内藤家下屋敷であり、神宮外苑一帯から駒場公園は広大な加賀百万石下屋敷でした。
下屋敷は、大名家の下級武士や小物達を次の参勤交代まで住まわせるところで、大大名ともなれば供の人数も千人を優に超し、大変な物入りになります。そこで知恵を絞ったのが下屋敷での食料生産。下級武士は下屋敷で鍬を握り、国元から持参した郷土の作物を栽培して自給自足。それが江戸野菜として根付くのです。有名なのが内藤南瓜(かぼちゃ)、今では品種改良で見向きもされませんが当時は評判となっていました。自給自足から市販して小遣い稼ぎ、ひいては内々で商売という流れです。下屋敷というのは幕府の統制が緩く、そういったことが出来たのでしょう。ちなみに評判の内藤南瓜は江戸野菜として定着、当時の新宿御苑は南瓜畑だったとか。
御苑の菖蒲田は、水利を基に一面田圃で、加藤家の上屋敷・中屋敷の米を賄っていたようです。江戸という区域は今の東京と違い、千葉に広がる町で両国から深川を境に東に広がり発展しました。理由は今様に言えばロジスティクス、物流の便、端的に言えば川と運河です。その点山の手は、大多摩川のみで江戸の守り以外は伏流水となり生活に役立たない。稲作経済にこれは致命的でした。赤坂見附の地名通り、四谷周辺で江戸を区切りその外に広大に拝領させたのが下屋敷。西の守りと開発委託を担わせたようです。
そして明治になり、藩領は没収され明治政府と天皇家の所領となり、今に残る名園や史跡公園の多くが恩賜公園となり現代に引き継がれて、歴史と共に自然を残す貴重な遺産となりました。その代表となる明治神宮。明治天皇と昭憲皇太后を祀り、大正九年に創立され約70万坪の敷地に17万本の樹木を茂らせ、自然のままを残す貴重な百年の杜となっています。隣接する代々木公園は陸軍練兵場跡で、東に目をやれば表参道を通り神宮外苑、その先に赤坂御用地、東宮御所、迎賓館、そして皇居と続くグリーンベルトの要です。 そして江戸時代の加賀百万国、その末裔が明治を彩った華族文化を象徴する前田侯爵邸、隅々にまで華族の華やかさと贅の極みと過ぎし時代の残り香が漂っています。
更に、一転して隣接の地に、民衆が使い込み、使い込まれた故の美を見いだし世に知らしめる民藝運動に昇華させた柳宗悦の住まいであり、同時にそのコレクションを展示する日本民藝館、おりしも開催されていた日本有数のコレクションを誇る棟方志功展は圧巻でした。
 暑さに苦しみながらも、終日熱心にお付合い戴いた皆さんに改めて感謝致します。
参加者 42名 (内31名は午後の部も参加)

2025年06月18日

チャグチャグ馬コと平泉を訪れました、

紀行文

6月14日~15日盛岡チャグチャグ馬コと奥州平泉を訪ねる  担当 織壁、馬淵、垂水、太田(義)、沢熊
1日目 
馬産地として有名だった岩手では、昔から馬と寄り添った暮らしをしていた。チャグチャグ馬コは、旧暦の端午の節句に、田植えの準備で疲れた馬コをいやし、無病息災を祈るために滝沢村の鬼越蒼前神社へ参詣したことが始まり。農民が愛馬を大切に思う気持ちから生まれたお祭りだ。
6月14日、新幹線で11時過ぎ盛岡駅に到着、駅前のぴょんぴょん舎で名物の盛岡冷麺を食べ、市の中心部へ。盛岡城は、初代藩主の南部信直が豊臣秀吉の許可を得て築城を開始。1633年に三代藩主の重直が入城。南部家の正式な居城となり、以降200年南部藩の中枢として存在した。
午後一時半、盛岡中心部の岩手銀行赤レンガ館前に、たくさんの鈴で飾られた「チャグチャグ♬」と音を鳴らす馬たちが到着。もりおか盛岡ふるさとガイドさんの案内で見学。かわいい!行列を見た後、ガイドさんの案内で辰野金吾の設計の赤レンガ館、藁細工・ござ九など江戸時代から続く商家、盛岡城跡の太鼓橋、啄木・賢治青春館などを見学。盛岡はニューヨーク・タイムズ紙で「2023年に行くべき52カ所」に選ばれている。盛岡駅にもどり、新幹線で一関に向かい、宿泊。夕食は駅前の料理屋で海鮮や山の幸を味わい、交流した。
2日目
平安後期、清衡、基衡、秀衡の奥州藤原氏三代がおよそ百年にわたって築いた平泉。初代清衡が居を移したのは1100年頃、仏教文化を中心とした黄金花咲く平和な理想郷を建設。駅前でひらいずみガイド会と待ち合わせし、まず二代基衡が造営した毛越寺を見学。本尊は薬師如来。日本を代表する浄土庭園が目の前に広がる。この季節、あやめが咲き誇っていた。
つぎに中尊寺へ市内循環るんるんバスで向かう。中尊寺は清衡が建立。杉並木の参道の月見坂を登り、弁慶堂、本堂へ。本尊は丈六釈迦如来。開基から900年になる金色堂は光輝き、浄土世界だ。宝物館讃衡蔵(さんこうぞう)には3000余点の国宝・重要文化財の一部が展示されている。すばらしい中尊寺を見学した。猊鼻渓は、岩手県の母なる川・北上川支流の砂鉄川沿いに、高さ50mを超える石灰岩の岸壁が、約2㎞にわたって続く渓谷。大正14年、国の史蹟名勝天然記念物に、名勝指定県内第一号に指定され、日本百景のひとつに数えられている。26名の貸切舟で川下り。堰き止められた川は湖のように静か、緑深い渓谷を堪能した。梅雨の時期だが、運よく雨に合わなかった。
一関に戻り、東北新幹線で、7時ごろ全員無事に東京駅に帰着した。(参加者26名)

2025年06月14日

古墳と歴史博物館を訪れました

紀行文

5月14日 東国の大型前方後円墳と歴史博物館を訪ねる  担当 馬淵、閑野、太田(祐)、白倉
7時20分バスで出発。幸い天気良く見学会日和となった。新小金井街道、関越自動車道を順調に進み、最初の見学先の保渡田古墳群に予定より早い9時40分に到着。かみつけの里博物館のボランティアガイドさんにお願いした説明開始の10時に余裕があったので、墳丘の長さ96mで全体が葺石でおおわれている八幡塚古墳を背に集合写真を撮った。ガイドさんの説明はとても丁寧。最初は八幡塚古墳。この古墳は、かつて榛名山の爆発で土石流がこの一帯を覆ったため、内堤から出土した形象埴輪が築造当時のままの種類で、その位置が判明していること。出土した54体を復元した形象埴輪が展示されている内堤では、王権にかかわる様々な儀式の様子や狩猟の様子などが表されていること。後円部頂上の墓室の縦型石室と石棺などについて、説明を受けた。その次に墳丘長108mの二子山古墳に登りながら概要説明を受けた。最後にかみつけの里博物館に移動して説明を受けた。その後、それぞれ館内を見学した。
保渡田古墳群から次の綿貫観音山古墳への車中で各自持参の昼食をとった。
墳丘の長さ97mの綿貫観音山古墳でも現地ボランティア解説員から丁寧な説明を受けた。この古墳の墓室は横穴式石室。幸いにも未盗掘であったので、埋葬品のすばらしさと保存状態の良さなどから国宝に指定されていること、石室の玄室平面規模が日本有数の広さであることなどを聞き、それぞれ石室の内部を見学した。そして墳丘へ登り古墳全体を十分に見学した。
最後に、古墳からほど近いところにある群馬県立歴史博物館を見学。最初に大型の視聴覚室で係員から綿貫観音山古墳についてスライドによる概要説明を受けた。その後は綿貫観音山古墳の石室の豪華で国際色豊かな出土品が展示されている国宝展示室を中心に、規模の大きい博物館内を見学した。
以上で見学を終了。藤岡ICそばの「道の駅ららん藤岡」に立ち寄り、上信越自動車道、関越自動車道を走行し、18時少し前に小金井に到着した。 (参加者47名)


2025年05月14日

小金井公園でバーベキュー、会員の親睦を図りました

紀行文

修道院の見学と公園の桜の解説を聞いて、懇親バーベキュー                   4月8日(火)   
4月は桜の季節、小金井公園で桜の見学会を行いました。まず、桜町の小金井聖霊修道院を見学。修道院になる前は実業家で政治家の故河西豊太郎氏の別荘。庭園に「ラビリンス(迷宮)メディテーション」というものがあります。芝生には円形で曲がりくねった一本道がえがかれています。道はたくさんの枝分かれした迷路、人を中心に導き、再び外に戻らせます。瞑想しながら歩きました。
小金井公園のSL広場前で再集合。公園内には、山桜や染井吉野、霞桜、里桜など約60種、約1300本の桜があります。 2月中旬には”早咲き”の河津桜、寒緋桜、大漁桜などが、3月中旬から”中咲き”の染井吉野、神代曙、小金井薄紅桜、山桜、大島桜、八重紅枝垂桜など、4月上旬からは”遅咲き”の駒繋、関山、江戸、普賢象、深山桜などが咲き、2か月もの間、桜の花が楽しめます。これらの桜それぞれを「桜守の会のボランティア」の4名の方の解説で見学、勉強しました。桜にまつわるちょっとした小ネタ、また普段は入れない苗畑の見学。興味津々なお話でした。中でも、バーベキュー広場近くの「衣通姫(ソトオリヒメ)に似る・春のきせき」と名付けた大きな桜は、根元の紫の諸葛菜(ハナダイコン)とあわせ見事でした。
バーベキューバーには31名が参加。会場ではグリル・テーブル・イスを用意。それぞれ好みの食材を持ち込み料理し、食べ、飲み、談笑して楽しいひとときを過ごしました。
担当 垂水、織壁、閑野、役員全員  参加者(67名)

2025年04月08日

佐倉を訪れました

紀行文

佐倉城下町と国立歴史民俗博物館を訪ねる       3月11日(火)   
佐倉は江戸と佐倉城および成田山新勝寺を結ぶ佐倉街道の交通の要衝にあり、城下町として栄えました。城跡や武家屋敷群が現存し、街並みは日本遺産に認定されています。
午前七時すぎに小金井を出発、東関東自動車道をとおり、最初に向かったのは佐倉順天堂記念館。NPO法人佐倉一里塚のボランティアガイドさんの解説で佐倉順天堂、旧堀田邸、武家屋敷を見学しました。わかり易くとても勉強になりました。
順天堂記念館では日本の医学の近代化に尽くした功績を伝えるため資料や医療器具などを展示しています。天保14年、当時の佐倉藩主堀田正睦が招いた蘭医の佐藤泰然(たいねん)が開いた医院で、蘭学塾。明治時代の医学を支えた人材が多数輩出され、現在の順天堂大学は、泰然の養子の佐藤尚中(たかなか)が開設したものです。
旧堀田邸は多くの大老、老中を輩出した佐倉藩の最後の藩主・堀田正倫(まさとも)の明治期の邸宅。玄関、座敷、居間、書斎、湯殿および、土蔵、門番所の七棟が国重要文化財です。庭園はさくら庭園という愛称で、自然の地形を利用した美しい造りで国指定名勝です。集合写真を撮りました。
佐倉武家屋敷は、道に面して門を設け、生垣・土塁を築き、その奥に玄関や庭があります。菜園をつくり、屋敷の境界には木を植え、背後の斜面は竹藪になっています。屋敷は、藩が所有し、藩士の家格や役職に合わせ貸しあたえられます。旧河原家は大屋敷で最も古い。旧但馬家は元からあった場所にあり中屋敷。旧武居家は百石未満の藩士が住む小屋敷にあたります。屋敷地の形状や植栽に当時の武家屋敷の特徴をよく残しています。
一時すぎに国立歴史民俗博物館に到着。レストランさくらで昼食をとり、見学しました。歴史学、考古学、民俗学の資料を展示し、日本最大級の規模を誇る博物館。佐倉城址の北側にあり、広大な敷地には、先史・古代から現代に至るまでの資料がテーマ別に、たくさん展示されています。とても時間がたりませんが、それぞれの興味で見学した後、三時半に現地を出発し帰途につきました。担当 垂水、織壁、白倉、塚田  参加者(45名)

2025年03月11日

日野と高幡不動を訪ねました。

紀行文

令和7年(2025年)2月5日(水)   土方歳三のふるさと日野と高幡不動を訪ねる
今回は、二班に分けて「日野新選組ガイドの会」の4名の方の案内で見学しました。日野宿本陣は名主を務め、土方歳三の義兄で新選組の支援者として知られる佐藤彦五郎の旧宅で、近藤勇、土方歳三、井上源三郎らも訪れた新選組ゆかりの建物です。本陣は宿屋と違って、大名や幕府役人など身分の高い人の宿泊所です。都内に残る唯一の街道の本陣建築で、東京都の史跡に指定されています。
土方歳三資料館は新選組副長である歳三が子供のころに住んでいた家の跡地にあります。歳三が池田屋事件で使用した鎖帷子、八月十八日の政変時に使用した鉢金、土方家伝来十文字槍(銘:助宗)、稽古に用いた天然理心流木刀、京時代使用の鎖帷子、さらに歳三も行商をした土方家の家伝薬である石田散薬に関する史料などを公開しています。館長の土方愛さんの解説で見学しました。その後、石田寺にある土方歳三の墓をたずねました。歳三は明治2年、北海道函館にて戦死。享年35歳でした。
井上源三郎資料館は新選組六番隊組長、井上源三郎の生家。八王子千人同心を代々務めた井上家。源三郎の兄・松五郎は佐藤彦五郎に天然理心流を紹介したと言われています。源三郎は、慶応4年鳥羽伏見での官軍との戦いで銃弾を腹部に受けて戦死、享年40歳。館長の五代目子孫・井上雅雄さんが天然理心流の型を見せてくれました。
高幡不動尊は真言宗智山派別格本山「高幡不動尊金剛寺」で関東三大不動の一つ、高幡不動尊として親しまれています。新選組土方歳三の菩提寺としても知られています。記念写真を撮り、午後1時解散しました。
                      担当(織壁、塚田、森、垂水、間島) 参加者(47名)

2025年02月05日

新年の川崎大師を訪れました

紀行文

厄除けの川崎大師で初詣        令和7年1月14日(火)
 新年はじめての見学会は関東の厄除け三大師の一つである川崎大師での初詣です。川崎大師の正式名は「金剛山 金乗院 平間寺(こんごうさん きんじょういん へいけんじ)」と言います。
 その昔、平間兼乗(ひらま かねのり)が42歳の厄年のとき、夢のお告げに従い海中から引き揚げたお像をお祀りして供養を続けると、兼乗はそのご加護ご利益をいただき自身の厄が除かれました。そして、高野山の尊賢上人とともに平間寺を建立。以来、「厄除けのお大師さま」として全国的に知られ、厄除け、家内安全や交通安全、商売繁盛、健康長寿など諸願成就にご利益があると言われています。
その川崎大師と合わせて訪れたい表参道や仲見世商店街も魅力的です。
今では当たり前の「初詣」ですが、その発祥は川崎大師だという説もあります。三が日の初詣客は全国3位と言われるほどで、1月中は大変混雑するそうで、混雑が予想されることから、今回は川崎大師のみの見学会としました。
 8時30分にイトーヨーカドー前広場に集合し、3班に分かれて立川駅を経由して、JR川崎駅に行き、人数確認をして、京浜急行の川崎駅に向かいました。そこから5分ほど歩くと、京浜急行川崎駅です。電車で3つ目に京浜急行川崎大師駅があります。
川崎大師駅を降りてすぐに『京浜急行発祥の地』の碑がありました。関東で初めて、全国では3番目にできた電気鉄道の創設を記念して作られたものです。京浜急行電鉄が創立70周年を迎えた昭和43年に発祥の地である川崎大師駅に車輪をかたどったモニュメントが建立されました。モニュメントの下部には、開業当時の内容が書かれていました。「明治5年に日本で初めて鉄道が開通してから、新橋~横浜間を蒸気機関車が走り始めました。そこで川崎駅から川崎大師への参拝客の多さに注目した資本家の立川勇次郎が、明治31年に京浜急行の全身である大師電気鉄道を創設しました。開通日は川崎大師平間寺の縁日にあたり、参拝客以外の見物人が大勢押し寄せて、数十人の警官が整理に当たるほどのにぎわいだった」そうです。
この広場は整備されており、「けいきゅん」という京浜急行のマスコットキャラクターの木彫りのモニュメントもあり、ここで、集合写真を撮りました。
混雑を考慮して、ここで解散。それぞれが、川崎大師の初詣を楽しみました。
担当【佐藤(環)・閑野・中島・坂倉・間島】(参加者 33名)

2025年01月14日

港区高輪とその周辺を巡りました

紀行文

冬の寒さが厳しくなった朝、武蔵小金井駅前に早くから集まった元気な史談会会員は、朝の通勤ラッシュにもまれながら四ツ谷駅から白金台駅を目指した。
はじめに訪れたのは江戸時代に中国から伝えられた禅宗・黄檗宗の東京の中心寺院である瑞聖寺。高層マンションが立ち並ぶ都心の一角に大雄宝殿(本殿)が中国風の趣きある佇まいで静かに建っている。国の重要文化財に指定されている。庫裡は2018年に建築家隈研吾氏の設計により再建された。大きな水盤風の池が配され、美術館を思わせる壮麗な空間である。
港区立郷土歴史館は昭和13年に、東大安田講堂を設計した内田祥三による鉄骨・鉄筋コンクリート造。外観はスクラッチタイルで覆われたゴシック調の外観で威風堂々とした建物。旧公衆衛生院であったものを保存・改修し、港区の郷土歴史館として再生された。幕末維新期を中心とした展示物や建物の意匠は見どころ満載で3つの班に分かれて見学。この歴史的建物をバックに、全員で記念撮影。
隣の東京大学医科学研究所の正門を入ると、左に近代医科学記念館がある。レンガ風の建物は血清製造のため、多くの馬を飼育していた。その気高い命と栄光を讃えて当時の厩舎を模した建物となっている。北里柴三郎などの業績や伝染病研究の歴史的資料の保存と紹介をしている。
レストランが併設されて、そこで昼食をとった。事前に注文しておいたイタリアンレストランのカレーは美味しかった。
48人で赤穂義士の墓をお参りした
食後は地下鉄で白金台駅から1駅の白金高輪駅で下車。立行寺にある大久保彦左衛門と一心太助のお墓に詣で、旧細川家下屋敷跡にある大石内蔵助切腹の地を見学し泉岳寺へと向かった。白金・高輪は起伏にとんだ街で坂が多い。途中、高輪区民センターの直通エレベーターを利用して坂を登らず近道をした。このエレベーターは5階までの直通エレベーターで住民の通行路となっている。
泉岳寺で一次解散。帰宅組は先に高輪大木戸跡を見て高輪ゲートウェイ駅に向かった。
泉岳寺の見学組48人は赤穂義士の墓をお参りし、高輪大木戸跡を見て帰路についた。時計は15時半をまわっていた。 (参加者58名)
担当(塚田・白倉・岡田・坂倉・間島)  

2024年12月10日
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