最近の活動です

活動・見学会報告

ロケで有名な大森邸などを訪れました。

2024年11月12日

渋沢栄一縁の深谷を訪れました。

紀行文

2024年 見学会報告

10月8日(火) 深谷・渋沢栄一ゆかりの地を訪ねる      担当(馬淵、太田(祐)、閑野、白倉)
10月初旬の見学会ということで秋晴れを期待していたが、生憎終日の雨模様となった。参加申込者数は申込締切り時点では募集人員を少し超えていたが、開催日近くになり体調不良や都合が悪くなってのキャンセルが相次ぎ、結局50名の参加者となった。予定通り7時15分に出発。関越自動車道を走り花園ICで下りて深谷市内に入り、最初の見学先である渋沢栄一記念館に9時40分到着。
今回の見学会見学先は一度の収容人員が少なく、2班に分けて見学した。渋沢栄一記念館は、渋沢栄一に関する多種多様の資料が展示されている。また渋沢栄一アンドロイドによる講義室があり論語に関する講義が聴けるが、残念ながら収容人員と時間の関係でパスした。
次に渋沢栄一の生家である「中の家(なかんち)」を見学。現在の「中の家」は、渋沢栄一が育った当時の家ではなく、家を継いだ栄一の妹夫婦によって明治28年に再建されたものである。二階建ての建物で規模が非常に大きい。ここでも渋沢栄一アンドロイドによる渋沢栄一に関する説明があった。1階奥の上座敷は、栄一が帰郷した際に滞在するために造られており、最上級の建材が用いられている。二階は養蚕に使われていた。
昼食は、近くの割烹「若菜」にて、この地の郷土料理である「煮ぼうとう」の定食をいただいた。
午後の最初は、渋沢栄一の従兄で論語をはじめ多くの学問の師である尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)の生家を訪れた。生家は江戸時代末期の商家の建物の趣を残している。尊王攘夷に関する謀議をしたと伝わる2階の部屋は、現在非公開ということで見学できなかった。生家奥の裏庭では藍が育てられていた。
次に、当初世田谷にあった第一銀行の保養・スポーツ施設集会所2棟の建物が取り壊されることになり、2000年に深谷に移築され保存復元された誠之堂(重文)と清風亭を見学した。それぞれ第一銀行頭取であった渋沢栄一と栄一の後を継いで頭取となった佐々木勇之助ゆかりの建物であり、大正時代を代表する建築物として高い評価を得ている。
最後に、かつて深谷では煉瓦が製造されており、その煉瓦を製造した旧煉瓦製造窯跡他を見学した。煉瓦製造の最盛期にはホフマン式輪窯と呼ばれる巨大な窯が6基稼働していたが、現在では1基のみが遺されている(重文)。平日は内部見学ができず、冊の外から見学した。明治28年に、煉瓦を製造施設から深谷駅まで運ぶ引き込み線が引かれ、その際窯跡近くを流れる備前渠に架かる鉄橋が造られ、今も遺されているその鉄橋(備前渠鉄橋(重文))を見学した。
以上で見学を終り帰途についたが、途中高崎線深谷駅を車窓から見学した。深谷の地で製造した煉瓦が東京駅にも使用されたことで、深谷駅は1996年に東京駅を模した橋上駅に改築されている。小金井には予定よりも早い17時30分に無事帰着した。      (参加者50名)

2024年10月08日

奥多摩・日原を訪れました

紀行文

奥多摩町・日原をたずねる 9月10日(火)
9月に入っても猛暑が続く中、涼を求めて東京都の西の端、奥多摩町日原をたずねた。
下見に行った際、窓口で「鍾乳洞内は急な階段が多く高齢者は転倒のリスクがある。けがをしても救急車が来るには50分以上かかる」と釘を刺されたので、見学案内に、足腰に自信のある方!と厳しく書いた。この為か参加者は47名だった。
予定より一本早い武蔵小金井8時27発青梅行で出発。青梅で奥多摩行に乗り換え、10時7分奥多摩駅に到着。鍾乳洞行のバスの追加をお願いしてあったので10時15分発の2台に分乗して鍾乳洞へ向かった。日原川沿いの道路を曲がりくねりながら10時45分に鍾乳洞到着。奥深い山を背景に記念撮影して、500m先の鍾乳洞入口に向かった。
日原鍾乳洞は関東でも最大級。総延長1,270m、高低差134m。洞内は年間を通じて気温11度で上着を着ても、真夏から真冬になった感覚、涼しいより寒いほど。天井が低く頭がつかえるところを通り奥へと進む。石灰岩が長い年月を経てつくり出した自然の造形に驚きを覚えた。昭和37年に発見された新洞は高低差と急階段があり健脚の方のみ挑戦、約40分の洞窟見学を終えた。
そして鍾乳洞上の洞門沿いのコンクリートに並んで昼食。目の前の小川谷の渓流や木々を眺めながらそれぞれ弁当に舌鼓を打った。12時10分からは近くの巨岩、梵天岩、燕岩、籠岩を見て、約2キロ先の森林館まで山々を眺めながら歩いた。途中の稲村岩は、高さ300mの巨岩で姿が美しい。
森林館には12時50分に着いたが、帰りの東日原バス発車時刻が13時15分なので駆け足の見学となった。奥多摩町は日本一巨樹が多い町だ。館内には、ミズナラの巨木のレプリカ、巨樹の写真や絵画などが展示されている。時間が無くてじっくり見学できなかったのが残念だ。2台のバスで東日原から奥多摩駅まで全員無事に戻った。温泉・もえぎの湯に行く人、ワサビを買いに行く人以外は、13時55分の電車で帰路についた。
評判が良かったのはトイレがきれいだった事。これは7年前に「オクタマ・ピカピカ・トイレ(OPT)」が発足、3名のクリーンキーパーが20ヶ所あるトイレを清掃しているとのこと。奥多摩町は自然もトイレも日本一美しく何度も来たくなる町だと思った。新規入会者2名、非会員2名 (参加者47名)
担当(森、太田義、太田祐、福崎)

2024年09月10日

館山を巡りました

紀行文

2024年08月27日  里見八犬伝の地・館山・南房総を訪ねる
愛犬八房の気を感じて懐妊した伏姫の数珠から「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八の玉が飛び出し、里見家を守る八犬士の若者となる。江戸時代の伝奇作家・曲亭馬琴が書いた「南総里見八犬伝」舞台の館山を訪ねた。
東京湾アクアラインから、館山道をとおり鶴ケ谷八幡宮に到着。この神社はかつての安房国の総社。拝殿の向拝には安房を代表する彫物大工後藤義光の彫刻がある。特に天井にある「百体の龍」は義光の代表作だ。
館山城は戦国武将里見氏の居城。里見氏は上野国の出で、15世紀末に安房を本拠とした。上杉管領、後北条氏などが入り乱れる戦国時代を戦い抜き徳川幕府の大名となったが、鳥取・倉吉へ国替えとなり、その後改易となった。
館山城八犬伝博物館へは、急な坂道を15分ほど登る。「滝沢馬琴とは本人は言っていません。曲亭馬琴です…」などと学芸員さんの案内で、展示を見る。天守を模した建物の最上階から館山湾、東京湾の絶景が見晴らせる。
海岸におりて、日本一長い「夕日桟橋」に向かう。豪華客船も寄港するという。先まで歩くと10分近くかかる。海風が心地よい。昼食は、漁師料理たてやまで海鮮料理を堪能した。
数日前から台風10号が来るぞとの予報があり、実施できるか心配した。思ったより「鈍足・迷走台風」で、影響がないことがわかった。アクアラインも桟橋も波はおだやかで予定通りの見学となった。
担当(垂水、閑野、織壁、桜井、間島) 参加者(45名)

2024年08月27日

上野・お茶の水博物館を訪ねました

紀行文

見学会紀行文
7月9日 上野とお茶の水の博物館等を訪ねる 担当(島田、塚田、垂水、太田(義)、白倉)
前々日は梅雨中での記録的猛暑になり、府中は40℃近くを記録し危険アラートが出た。そのため『参加者は少ないのではないか』と危惧したが嬉しいことに48名参加で、皆さん好奇心旺盛・会話を楽しむ。これらは日頃健康でなければできない。史談会々員は元気者ばかりと改めて感心した。今回は暑さ対策のために上野、お茶の水の博物館を訪ねた。
上野駅改札を出ると目の前が既に公園で、私事になるが、上野といえば西郷さん銅像、を想像する。周辺整備で隔世の感がした。小道を少し歩き日本最初の国立音楽教育を先導した奏楽堂(入り口横に滝廉太郎像)、その近くに西洋絵画の技法を広範囲に指導した黒田記念館(黒田清輝)。日本の黎明期で先駆者の努力が偲ばれる。
ここから徒歩10分程で東京国立博物館を見学する。入場は70才以上の証明証(健康保険証、マイカードなど)を提示すれば無料となり終日見学できる、国内外の美術品が網羅されていて、とても一日見学では困難なほどの展示がなされている。海外旅行者と思われる団体、家族の見学も多く、興味津々で日本文化に触れ神妙な気分で思案する姿が見られた。この建物前で集合写真撮影を行う。少し気温も上昇しはじめ、次のお茶の水へ向かう。
明治大学博物館では朝ドラの【虎に翼】展を開催していた。大学卒業生で52年前、史上初めて法曹の世界に飛び込んだ一人の女性三淵壽子が男世界の困難に立ち向かい道を切り開いた姿を描く。 他には恐ろしい犯罪・拷問道具、考古学の展示などガイドさんの説明を受けた。昼食時となり校舎の高層ビル・リバテイタワー17階でスカイラウンジの気分で学食を頂だき高揚感満点だった。
その後徒歩10分程にあるロシア正教会ニコライ堂で敬虔な説明を受け清楚な気分で現地解散した。小金井着4時半、天気予報の小雨には幸い会わなかった。                 (参加者48名)

2024年07月09日

講演会を行いました

講演

小金井史談会歴史講演会

小金井史談会写真展の最終日7月1日、小金井宮地楽器ホール小ホールで10時より定期講演会を開催。演題「赤穂浪士の討入りと国学者荷田春満(かだのあずままろ)」。やや地味な内容で少し心配したが来場者は80名(会員45名、非会員35名)の募集定員ちょうど。國學院大學名誉教授根岸茂夫様を講師に迎え、100分の熱演でした。
荷田春満は筆名で本名は羽倉斎(はくらいつき)。赤穂浪士討入りの元禄十五年十二月十四日吉良邸での茶会開催情報をもたらしたのは春満、という今までの概念を覆す内容でした。元禄十五年十二月十三日大石三平宛の荷田春満の書状が赤穂大石神社蔵に保存されており、その写しが当日資料として提供されました。映画・ドラマ・小説の「赤穂浪士・忠臣蔵」は大高源吾が茶人山田宗偏から得た情報を基に大石良雄が討入りを決断、十五日未明に吉良義央の首級を獲る、というのが通説でした。講演では、荷田春満の歌人・国学者の人生や徳川吉宗の享保改革にも参画した業績に触れ、その人となりを勉強しました。
講師の根岸先生は今年3月國學院大學を退任されたこともあるのか、語り口調が柔らかく、独自の仮説を聴くことが出来ました。例えば、赤穂浪士は47人ではなく120人位だった(目的達成のため第2、第3弾の組織があったのでは)とか討入り当日は47人以上だったなど。これらを纏められて世に出されることを願います。 (参加者数 80人)

2024年07月01日

会津方面一泊で訪問しました

紀行文

6月16日(日)~17日(月) 会津若松方面の歴史と文化財を訪ねる  担当(織壁、馬淵、佐藤、垂水)
1日目
今回は、小金井からバスでの往復の見学会。朝7時15分、予定通りに出発することができて一安心。日曜日で道路は空いている。東北自動車道を順調に走行。最初の予定より1時間ほど早まったので、「大内宿」の前にサプライズとして用意していた「塔のへつり」を見学することができた。短時間ではあったが、阿賀川の浸食作用により生み出された塔が並び立つような奇観を、吊り橋を渡りながら眺めた。皆さんは到着直前に案内したので、おおよろこび。
その後、最初の見学先である重要伝統的建造物群保存地区「大内宿」を見学。現地下郷町観光公社のガイドに案内してもらう。明治期の鉄道開通により街道はさびれたが、「半農半宿の宿場」であったため宿場はすたれず、よく整備された茅葺屋根の家屋が立ち並んでいる。宿場の奥の見晴台から眺める宿場の眺めは絶景であった。昼食は、多くの人がこの地域で有名な「ネギそば」を食した。店の人から「どんぶりを顔に近づけてネギで食べてください」と言われた。
会津若松市に移動し、三時半に予約していた鶴ヶ城を見学。城は戊辰戦争で大きな被害を受け、当時の建造物はほとんど残っていないが、濠や石垣は立派である。本丸跡に土居晩翠の「荒城の月碑」が建っていたので、皆で「荒城の月」を合唱した。そして昭和40年に再建された天守に登り博物館となっている内部を見学。
初日の見学を終え、宿泊ホテルへ。休憩後、会津迎賓館で夕食をとり懇親を深めた。
2日目
朝8時15分にホテルを出発。最初に、白虎隊の若き隊士が自刃した飯盛山にむかった。隊士の墓は飯盛山の中腹にある。きつい坂を上る必要があるが、スロープコンベアがあり皆さん安心して登ることができた。墓近くに、隊士自刃の地があり、ここで隊士たちが最後に望んだ鶴ヶ城の天守を眺めることができた。
次に、白虎隊士の墓のそばにある「さざえ堂」を見学。ここは、旧正宗寺の観音堂で、今は個人所有となっている。さざえ堂の階段は、「二重らせん構造」で、上りから下りまで一方通行で、人とすれちがうことなく見学できる。近くの白虎隊記念館は希望者が見学した。
次の見学先は会津武家屋敷で、団体は見学と食事がセットになっており割安感がある。敷地は7千坪と広大。その中でも再建された家老西郷頼母邸は非常に立派であった。部屋数は28もあり、藩主を迎える書院造の「御成の間」もしつらえられている。
会津武家屋で昼食をとり、最後の見学先である猪苗代湖畔にある野口英世記念館を訪れた。以前は野口英世の生家だけであったが、現在は生家のそばに立派な本館がある。さらに感染症ミュージアムも併設。生家では、幼名清作が「てんぼう」といわれた左手に大火傷を負った囲炉裏が印象的。本館には子供の頃の成績やその後苦学して米国に渡り医学研究者として大成する過程が展示されている。
二時に野口記念館を出発し、帰途についた。その後バスは順調に走っていたが、東北自動車道は事故渋滞で、1時間近くノロノロ運転が続いた。小金井帰着は予定をやや過ぎ7時近くとなった。(参加者数 26名)

2024年06月16日

東京湾唯一の自然島、猿島を訪れました

紀行文

6月11日(火)東京湾にある無人島「猿島探検記」 担当(太田祐、桜井、藤井、小林,閑野)
いまは無人島であるが、むかしの縄文・弥生時代には人が住んでいたという。三浦半島の付け根、横須賀から1.7kmに位置し、東北から南西に長く、全長約500m。広さは55ha、小金井公園の約2/3の面積である。  
横須賀の新三笠桟橋から280人乗りの船で10分、砂岩の崩れかけた岸壁に到着する。海底に堆積した砂泥がいつしか隆起し39mもの高みになった。そこからの東京湾を見渡す景観と、まったく「無傷」の戦争遺跡を見ることができる。
島の地理的特徴が、江戸、東京を防御する適地と認識され、備えはペリー来訪時には始まり、明治・大正と続いた。この太平洋戦争で島に軍指令部を設置し、要所に高射砲を10数台据え付けた。弾薬庫をつくって大量貯蔵し、その補給路を敵に察知されないようにトンネルや切り通しで確保し、発電設備も設けた。それらのすべてをレンガで表装し万全であった。しかし、その機能が果たされることはなかった。米軍機は島の東を素通りして東京に向かい、一度も爆撃されることもなく、島の高射砲は一度も発することがなかった。米軍の情報収集力は優れており、この島を攻撃の対象とせず「素通りせよ」という指令を発したのであろう。残念であったのか、よかったのか。いまその無傷の戦争遺跡を見ることができるのである。
猿島という島の名について。鎌倉中期、日蓮聖人が千葉の上総から小舟で三浦半島に渡る途中、暗雲垂れ込められ方向を見失った。その時ここで白い猿に出会い、島の中央まで導かれたという。その上陸地点は当地に明示されているが、「危険」なので近づけない。今、島内には猿は一匹もいない。
小金井で58名が集合して武蔵小金井駅で乗車し、朝の雑踏時の新宿駅で乗り換えて品川駅に到着、京浜急行に乗って横須賀中央駅で再集結した。そこで参加者10人を加えて20分歩く。出発してから約3時間、一人の欠落もなく目的の新三笠桟橋に到着した。島内では自由行動で1時間、全員定刻までに帰着して船に乗り横須賀へ戻った。
終了後の自由参加の「軍港巡り」は秀逸であった。イージス艦を何艘も見た。(参加者68名)

2024年06月11日

牧野記念庭園、石神井公園を訪れました

紀行文

5月15日(水)牧野記念庭園・石神井公園を巡る 担当(森、嵯峨山、太田〔義〕、白倉)
五月晴れの中、牧野記念庭園、石神井公園を訪れた。参加人数は75名。約1万歩と案内していたので、参加者数は多くても60名と考え、念のため70部用意していたが、資料が足りなくなった。昨年のNHK朝ドラ牧野富太郎を主人公とした「らんまん」の効果は絶大であった。今回は、ご夫妻での参加が5組、非会員の参加が10名もあった。
練馬区立牧野記念庭園は、西武池袋線の大泉学園駅から約10分の地にあるが、武蔵小金井駅からは、西国分寺で武蔵野線に乗車して新秋津駅下車、約7分歩いて西武池袋線秋津駅へ行き、更に大泉学園駅へと、距離的には近い割に何度も乗り換えが必要であった。
大泉学園駅から歩いて10時前に牧野記念庭園に到着。入口には牧野博士が植えられた栴檀(せんだん)の花が見ごろで、我々を迎えてくれた。牧野博士の銅像前で記念写真を撮り、3組に分かれて、約1時間職員の案内でビデオ鑑賞、展示室、庭園を見学した。牧野博士の偉業を実感できた。
牧野記念庭園のみの方約10名とはここでお別れし、約25分歩いて練馬区立石神井公園ふるさと文化館分館へ到着。練馬区の文化人壇一雄などの展示や五味康祐の愛用したオーディオ機器などを見学した。続いて石神井公園に入り、豊島氏が太田道灌に敗れて自害した照姫を祀った姫塚を見学、塚にはシラカシの大木があった。三宝寺池は、三宝寺池沼沢植物群落として国の天然記念物に指定されており、カキツバタが咲いており、ゴイサギ、アオサギ、シラサギ、カイツブリなど水鳥も多数いて自然の豊かさを感じさせた。池の畔に石神井城址の碑があり、かつて石神井城を築きこの地域を支配した豊島氏を偲んだ。
12時45分から公園内のベンチで昼食。新緑の木陰の下で持参した弁当に舌鼓を打った。腹ごしらえした後は石神井公園に隣接する道場寺と三宝寺を見学。道場寺は南北朝時代の1372年豊島氏の菩提寺として創建。唐招提寺の金堂風の本堂、三重塔、鐘楼そしてサルスベリ、クロマツ、アカマツの巨木などがあり禅寺らしい静かな佇まいの寺であった。隣接する三宝寺は三宝寺池の名前の由来になっている寺で、豊島氏の祈願寺として創建された真言宗の寺院。午後2時15分頃ここで解散して根本大塔、平和大観音像、四国八十八霊場碑などを自由見学。三々五々JAあおばバス停から荻窪に向かった。(参加者75名)

2024年05月15日

吉見の百穴などを巡りました。

紀行文

4月2日(火) 埼玉・聖(せい)天宮(てんきゅう)、吉見百(ひゃく)穴(あな)、妻沼(めぬま)聖(しょう)天山(でんざん)見学            担当(織壁、島田、佐藤、藤森)
久しぶりの晴天に恵まれ、バスによる見学会が開催された。最初の見学地は埼玉県坂戸市にある国内最大級の道教のお寺、聖(せい)天宮(てんきゅう)。バスは圏央道坂戸インターを降り田園地帯を約1.5km走る。突然、車窓から黄色い屋根瓦と色鮮やかな龍の飾りが見えると参加者から歓声が上がった。聖(せい)天宮(てんきゅう)である。拝観開始時刻より早く到着したので、聖天宮入口前で依頼していたガイドさんを待つ。
聖天宮は台湾出身の康國典(大法師)が台湾から宮大工を呼び寄せ十五年の歳月をかけ平成七年(1995年)に建立した寺である。龍を主体とした彫刻、釘を使わずに楠材を組んで作った螺旋天井、楠の一枚板の扉の彫刻等、一見の価値あるものばかり。龍尽くしの装飾に彩られた聖天宮は辰年の今年にふさわしい見学会の場所であった。
次に向かったのは、今から百一年前の大正十二年(1923年)に国の史跡に指定された吉見百(ひゃく)穴(あな)。古墳時代末期(六世紀末から七世紀後半)の横穴墓である。太平洋戦争末期には、航空機エンジンの部品を製造する地下軍需工場が造られ、巨大なトンネルが数多く掘られたため、十数基の横穴墓が壊された歴史を持つ。ここでは、横穴墓、地下軍需工場のトンネル入口と横穴墓の一部に自生している国指定天然記念物のヒカリゴケをガイドの説明を聞きながら見学した。百穴と命名されているが、実際には二百十九基の横穴墓がある。
 最後に熊谷市妻沼にある妻沼(めぬま)聖(しょう)天山(でんざん)歓喜院(かんぎいん)を訪ねた。二班に分かれてガイドの案内で見学した。宝暦十年(1760年)に再建された本殿「歓喜院聖天堂」は、平成十五年(2003年)から八年かけて行った平成の大修理により、傷みや剥落した色彩が甦り、平成二十四年(2012年)七月九日に国宝に指定された。日光東照宮を彷彿させる本格的装飾建築である。この本殿「歓喜院聖天堂」は、庶民の浄財によってできていることもあり、羽目彫刻には七福神、象、麒麟、龍、鳳凰、猿などの動物、四季折々の遊びに興じている子供等、平和な世の中での姿がモチーフとなっている。また技術的にも漆を何度も塗り重ねて精巧な表現がされていることにも目を奪われた。約一時間の見学を終えて、東松山インターから一路武蔵小金井に戻った。
 今回は、第一級の芸術作品を鑑賞できた一方で、文化財や天然記念物を今以上に失ってはならないと再認識した見学会でもあった。                 (参加者58名)

2024年04月02日
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