内藤新宿を巡りました

紀行文

11月14日(火) 晩秋の内藤新宿を菊薫る新宿御苑まで歩く
担当 (塚田、森、嵯峨山、坂倉、佐藤)
 例年より寒いとの予報であったが、晴れの気持ち良い天気であった。出発は8時59分の始発。さすがに9時近くであり楽に座れたのだが、三鷹駅到着時、「西八王子・八王子間で支障が起き、急ぎの方は総武線・地下鉄線に乗り換えて」とのアナウンス。あわてて乗り換え、荻窪駅で地下鉄丸ノ内線に乗り換えた。
最初の見学地は花園神社。さすがに酉の市の本拠地、驚くほどの提灯の数。幕のかかった露店の隙間から僅かに見える熊手、3日前の酉の日に来たらさぞかし賑やかだったろうと思われた。この神社は牛込区の総鎮守である。南に出て、伊勢丹前に出る。ここは昔追分といわれ、甲州街道と青梅街道の分かれ道だった。この道を東へ5~6分行くと成覚寺・正授院。
成覚寺は内藤新宿の「飯盛り女」(遊女)の投げ込み寺として有名で小さいながら、いかにもという雰囲気がある。遊女と客で心中した男女18人を供養する旭地蔵や子供合祀碑という飯盛り女(宿主は遊女を子供と呼んだ)が病気などで亡くなった者達への供養碑もある。また、寛政の改革を皮肉って自死に追い込まれた黄表紙本の先駆者、恋川春町(本名倉橋格、静岡小島藩年寄本役120石)の墓もある。成覚寺の東隣が正受院。こちらは咳止めに効くと大評判で、お礼の真綿を頭に乗せた脱衣婆や、第二次世界大戦中に供出された当院の釣鐘が、米国に渡り残されており、17年ぶりに返却され、平和の鐘と呼ばれている。隣の寺と違い明るい寺であった。
正受院を出て南へ5分ほど歩くと内藤新宿の名の元となる内藤家(3万3千石)の菩提寺太宗寺である。江戸初期、新宿御苑も含めてこの地に膨大な下屋敷を持っていた内藤家は、太宗寺に8千坪近くの土地を寄進、また甲州街道の一宿目が高井戸で遠いとのことで、新しい宿を1698年に造ることになりこれにも協力した。ところがこの新宿が宿としてではなく遊里として発展、享保の改革で風紀粛正の為一度廃宿となりながら復興し、吉原や品川をしのぐ花街となってしまった。今の新宿も似たような所があり、太宗寺の内藤家の墓石も50数基あったものが今は3基しかなく、本堂が白く洋風で教会に見え、本坊(住職の住むところ)がホテルの様なのも、新宿の生命力なのかなと感心してしまった。
更に南に歩き新宿御苑北側を四谷大木戸へ向かった。この道には横に玉川上水が再現されており小金井橋の流れがここまで来ていたのかと感心。大木戸跡と水道碑を見て一時解散となった。御苑見学、新宿歴史博物館、帰宅と3組に分かれて帰途についた。                 (参加数61名)

2023年11月14日