活動報告

バスで行く千葉・勝浦の海と由緒ある鴨川の寺を訪ねる

紀行文

七夕の早朝、いつもの三浦屋広場には5、6名の参加者が待っていた。本来の集合時間は7時。それより40分以上も早い。貸切りバスの「席とり」の都合もあるのだろう。全体として、参加登録や集金作業は順調に進んだ。7時15分の予定通りに「海ほたる」へ向け出発。今回は特に、参加者が多いため、窮屈な補助席を活用した。
往路は約3時間少しと長丁場が予想されたため、通常の「しおり」に加えて、参考資料の「房総半島という地」と「地球・日本・房総・富士火山帯 地学の話」を用意した。説明に参加者は熱心に耳を傾けた。
 10時半頃、最初の訪問地の『誕生寺』(鴨川市小湊)に到着。「日蓮大聖人ご生誕の地」という。入口の「総門」をくぐり、120~130基はあろう、長い石灯篭が林立する参道を歩いて、「仁王門」を越える。その先にそびえる「祖師堂」「本堂殿宝塔」「本堂」「客殿」などを拝観時に見学した。
誕生寺を11時過ぎに立ち、11時45分ごろ昼食場所の「道の駅 オーシャンパーク鴨川」(鴨川市江見太夫崎)に着いた。注文しておいた「刺身定食」「ミックスフライ」「天ざるそばセット」に各々舌鼓を打った。「瓶ビール」の他「ソフトクリーム」「あんみつ」に手を延ばす参加者もいた。
昼食後、水産物関連販売の『おさかな村』(勝浦市浜行川)に立ち寄る。先ほどの道の駅に続いて、お土産を吟味しながら、買い求める参加者が目立った。30分ほど滞在し、最終見学地の『海中展望塔・海の博物館』(勝浦市吉尾)を目指す。
海に突き出た展望塔までトンネルを抜け、海の上に建てられた桟橋を渡っていくと、潮騒の音や潮の香りがする。桟橋の下を覗くと波で削られた岩肌や生け簀跡が見える。眼玉の海中展望塔はこの一帯の勝浦海域公園の中心になる施設で、高さ24.4m、水深8m。ここで96段の螺旋階段を降りると、季節ごとに沢山の魚や海底の様子を窓ガラス越しに見ることが出来る。童謡 浦島太郎の歌詞にある「鯛やヒラメの舞い踊り」はこのような光景かなと、思う。螺旋の登りはすこし息が切れた。「博物館」を観た後、14時40分頃出発した。
「海ほたる」経由で小金井を目指す。途中、渋滞に巻き込まれたものの、予定到着時間の18時10分少し前にヨーカ堂西側へ滑り込む。当日の全行程は302㌔㍍(往復走行距離)に達した。(参加者53名)  
(担当 垂水、藤井、佐藤、閑野、立川)   

2026年07月07日

敦賀と若狭路をバス2泊3日で訪ねました

紀行文

1日目(6月21日)
予定通り7:15に出発。今回の交通機関は、鉄道ではなく小金井からの往復バスで実施。走行距離が長いので、安全確保のため運転手2人体制で運行した。移動経路は、中央自動車道~圏央道~新東名~名神~北陸自動車道にて敦賀まで走行。途中、足柄SAで休憩し、岡崎SAで昼食休憩をとった。
最初の見学地である「気比(けひ)の松原」には予定時刻より少し早い14:00ころ到着。日本三大松原の一つである松原の素晴らしさはもとよりであったが、松原に面している日本海の景色に感激した参加者が多かった。「気比(けひ)神社」を当日最後の見学先に予定していたが、17:00に閉門とのことで急遽、先に気比神社に移動。気比神社は越後国一宮であったので格式のある神社である。入り口の大鳥居は重文で、「日本三大木造鳥居」に数えられており大変立派である。その後、敦賀ムゼウムまでバスで移動。
「敦賀ムゼウム」・「赤レンガ倉庫」・「敦賀鉄道資料館」の3か所を現地ボランティアガイドの案内で見学した。「敦賀ムゼウム」は、杉浦千畝のビザ発行にて敦賀港に上陸し命を救われたユダヤ人に関する内容などを展示しており、「赤レンガ倉庫」2棟は、元はニューヨークスタンダード石油会社の石油貯蔵倉庫で、現在は、北棟が昭和初期の敦賀を再現したジオラマ館となっている。「敦賀鉄道資料館」は、欧亜国際連絡列車の発着駅であったころの敦賀港駅の駅舎を再現しており、鉄道に関する各種資料が展示されている。
以上で、当日の見学が終了。宿泊ホテルは敦賀駅前の「敦賀マンテンホテル駅前」。ここはビジネスホテルなので、夕食はホテル近くの地魚料理「まるさん屋」にていただいた。

2日目
08:10にホテルを出発。三方五湖の周囲を巡るレインボーラインを走り、展望台駐車場にて下車。ケーブルカーで山頂公園に登った。当日は生憎霧がかかり、五つの湖が同時に見えなかったのが残念であった。しかし、年縞(湖底の地層)の存在で世界的に有名な水月湖はなんとか見ることが出来た。
その後、三方湖のほとりにある「福井県年縞博物館」を見学。7万年分の長さ45mに及ぶ年縞を保存処理して、水平に展示している姿は圧巻であった。学芸員の方からの説明を受けた後、各自でじっくりと見学した。その後は、同じ敷地に隣接している「若狭三方縄文博物館」を見学。ここは、主に鳥浜貝塚の縄文土器、ユリ遺跡の丸木舟などの出土品が展示されており、縄文人の暮らしがよみがえる。
次に、若狭町の重要伝統的建造物保存地区「若狭町熊川宿」に移動。ここの道の駅で昼食をとり、熊川宿を見学。熊川宿は、江戸時代に小浜と京都を結ぶ若狭街道(鯖街道の一つ)の物資流通の中継拠点として繁栄し、現在も歴史的な街並み景観を伝えているが、開業している店が少なくやや寂しいたたずまいを見せていた。
その後、若狭国分寺跡を見学。創建時は、南大門・中門・金堂・講堂が一直線に配置され、中門の東側に塔が建てられていた。見学は、先ず南大門跡と中門跡の位置を確認し、塔跡を見学。その後金堂跡の礎石位置を確認。金堂跡と同じ場所に、後継寺院である現在の若狭国分寺の規模の小さな金堂が建っている。金堂跡の北側あった講堂跡は現在農地になっており、残念ながら確認できなった。
次に、当日最後の見学先である小浜市の重要伝統的建造物保存地区「小浜市小浜西組」に移動し、現地ボランティアガイドの案内で見学した。小浜西組は、京極家や酒井家にまつわる寺院エリア、元商家町の町屋エリア、茶屋町の三丁町(さんちょうまち)エリアの3つから構成されているが、全てを見学する時間はなかったので、三丁町の茶屋町の風情が残る多くの建物を見学した。

3日目(6月23日)最終日
ホテルを08:10に出発。最初の見学先の明通寺(高野山真言宗)は、806年に坂上田村麻呂の創建と伝わる古刹で、鎌倉時代に再建された国宝の本堂と三重塔は建物の配置が素晴らしく、非常に落ち着いたたたずまいを見せている。本堂では僧侶の説明を受けた。珍しいことに内陣まで入ることが出来て、重文の本尊と脇侍を間近に拝むことができた。
次に、萬徳寺(真言宗御室派)に移動。枯山水庭園が名勝に指定されている。1307年頃の創建と伝わるが、1634年に酒井家が小浜藩主となった以後も代々の祈願所となり、庭園は1677年に作庭されている。見学したこの時期は新緑が非常に映えた庭園であった。
その後、「福井県立若狭歴史博物館」を見学。学芸員の方から概要説明を受けた後、各自で見学した。若狭を代表する仏像や祭り文化、若狭から奈良・京都への道など、多方面の若狭の歴史を展示している。杉田玄白は小浜藩の藩医であった関係から、解体新書の初版本が展示されていた。
以上で、全ての見学を終了し、道の駅「若狭おばま」にて昼食をとり、往路と同じ高速道を通り帰途についた。途中、東郷PA(愛知県日進市)と沼津SAにて休憩し、予定より少し早い20:00に無事小金井に帰着。   (参加者数 34名)

2026年06月21日

林望先生の講演会が開かれました

講演会開催の苦労

前日より降っていた雨も9時過ぎには止み、9時半には開場しました。講演会参加者は
スムーズに受付をして会場へ。小ホールの150席がほぼ満席の142名の参加者でした。
その中に16組のご夫婦が参加され、今回の講演会の特色でもありました。
10時に「リンボウ先生」の名で親しまれている林望氏が登壇。武蔵野市から18歳で小金井に移り住んで60年を自分史として軽妙な口調と映像を交えながらの90分でした。
 このプロジェクトは昨年11月15日和菓子屋三陽の女将からの電話で始まりました。
「リンボウ先生ご夫妻が店に来られたので、講演会講師を依頼したいそうですよ、と伝えました」と。背中を押されました。もう一人リンボウ先生とは家族ぐるみのお付き合いされている愛媛大学のS名誉教授に日程・時間などかなりハードルの高い条件を依頼して全てクリアしていただきました。その後ご自宅訪問の運びとなりました。
聴衆のご感想を紹介しましょう。「林先生ならではの小金井愛溢れる非常に興味深い内容で、もっともっとお聞きしたいと思いました。シリーズ化も期待しております。」「林望先生のソフトな話術に引き込まれて、あっという間の90分でした。」
 林望先生の講演会等にはほとんど出席されない林望夫人そして娘さんご一家も参加されて、いつもの講演会にはない和やかな雰囲気を感じました。これもリンボウ効果でしょうか。
 今回の講演会を聞いて、長くお住まいの方・最近住所を移された方など、小金井を再度
見つめ直す機会になれば幸いです。                     以 上

2026年06月15日

野川を散策しながら近藤勇の生家跡等を訪れました。

紀行文

国分寺崖線と野川を散策
6月10日(水)
こんなに近いところに「今日行く=教育」、「今日用=教養」がある。野川公園である。小金井公園と同じように、好きなときに散歩に行って芝生で寝ころんだり読書をしたり、花を摘んだりできる。
朝、靴を履きかけた途端、時ならぬ雨に急襲された。雨はすぐに上がったが、このところの天気は予断がゆるされない。いつもの集合場所では人影は少なく19名。日和見とはこのことをいうのか。次の集合場所の二枚橋に着いてみると、東町などの方がこぞって参加して合計で32名となった。
新撰組、水車、ワサビ田、どれも江戸・明治のことで、むかしの世界だ。
近藤勇は大農家に生まれだ。大きな土地持ちで、野川公園の一部も領地であったと想像する。中島飛行機が入手する前は誰のものだったのか。鉄道はなく人見街道しかないので、もちろん江戸には歩いて行ったはずだ。
水車小屋は、小グループに分かれて樹陰での解説と水車のメカニズムの見学。これまでの「水車」の想像を超えた直径4.6mもある水車が、回り続けていた。何年か前までは現役であったのだ。かつては米、小麦を一日中搗精・精製した。これを臼と杵用いて人力で行うことはたいへんだ。
ワサビ田の古民家の座敷からは木々があるので直接は見えないが、国分寺崖線の向かいの壁面に掘られた横穴墓がある。昔の人が眠っている。美しく衣装を整え、先に亡くなったひとの横に寝かされた。土中に埋葬せず、あとから亡くなった人が同じ室に埋葬された。当時のひとの死者に対する思いが伝わる。追葬という。
近藤勇、水車小屋、復元家屋とも、歩きながらの皆さんの感想が耳に入ってきていて、満足したようだ。雨後のこともあり崖の中程にある横穴墓は、希望者の参加とした。(参加32名)
担当(太田祐治 森 閑野 立川)

2026年06月13日