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令和元年6月

令和元年6月29日                              小金井史談会
  史談会だより (第29巻 第2号)

1. 見学会報告
(1) 4月9日(火) 「常陸桜川と雨引観音、真壁の町並みを巡る」   担当(織壁、関口、曽根、塚田)
前日と翌日が天候不順なのに、この日は快晴、絶好の花見日和となった。朝7時20分に小金井を出発し、首都高速、常磐道を経て予定どおり桜川磯部稲村神社に到着。桜川市ヤマザクラ課の渡邉さんが出迎えてくれ、小金井との桜の交流について話された。「江戸時代に苗木が桜川から隅田川や小金井におくられています。小金井桜のふるさとです」おりしも神社の糸桜が満開、山桜もきれいに咲いていた。宮司さんも話され「紀貫之が和歌に桜川のことを詠み、平安時代から都に知られていました」など由緒を語られた。神社の拝殿と桜を背景に宮司さんと集合写真を撮った。
20分ほどで雨引観音・楽法寺。「一に安産、二に子育て・・」と詠まれる寺。参加者は何を願うか?とにかくお参りした。開祖は飛鳥時代との伝説もあるほど歴史のあるお寺。大きな観音堂、多宝塔、仁王門など多くの建物があり想像していたよりはるかに大きく、一同感心。幸運にも境内にいるといわれる孔雀を見ることができたのは10人ほどだった。真壁の町に入り、歴史的建造物の伊勢屋旅館で田舎料理の昼食。けんちん汁、桜でんぶ飯などを味わう。真壁の町は茨城・石岡から栃木・真岡へ通じる要衝、歴史ある町だ。戦国時代までは真壁氏、江戸時代は浅野氏などが治めた。江戸はじめの町割りが400年も変わっていない。木綿や絹の流通で栄えた。「幕末から明治になると商家などが立派な門を構えました」と真壁のボランティアさん。田舎の三越と呼ばれる「潮田家」や笠間藩御用達「星野家」など国の登録有形文化財を見学。15時に帰途に就き、18時前に小金井帰着。 (参加者59名)

(2) 5月14日(火) 「武蔵国の古代中心地と中世近世の要地を巡る」 担当(馬淵、嵯峨山、中島、岡田)
令和に替わり最初の見学会となった。小雨模様のせいか参加者が少なかった。武蔵小金井駅8時38分発に乗り、西国分寺駅にて下車。最初に訪れたのは「東山道武蔵路遺構再生展示施設」。線路に近い場所に、発掘されたままの姿で保存展示されている。ここから真っすぐに南に伸びる武蔵路跡を歩き、想像していたよりも大きな道路を実感しつつ市立歴史公園「史跡東山道武蔵路跡」を訪れた。ここには、かつてここから見えた東山道武蔵路と武蔵国分寺の景色を描いた絵が掲示されており、鑑賞。その後、「武蔵国分寺伽藍地北辺の溝跡」を見学し史跡の駅に移動。ここでボランティアガイドの方から武蔵国分寺資料館、国分寺、武蔵国分寺七重塔跡・金堂跡・講堂跡の説明をしていただいた。金堂跡では基壇と須弥壇が、講堂跡では基壇がそれぞれ復元されており、着実に史跡の整備が進んでいる。説明の最後に武蔵国分寺資料館に集まり、集合写真を撮った。武蔵国分寺跡から西に歩き武蔵野線の高架下付近にて、このあたりにはかつて東山道武蔵路が通っていたことを確認し武蔵国分尼寺跡に到着。金堂跡の復元整備が進んでおり、金堂基壇(版築)の断面を見学。北府中駅から府中本町へ移動。最近整備が進んでいる駅横の「武蔵国府跡 国司館地区・徳川家康府中御殿跡」を見学。終了後、駅周辺にて各自自由に昼食をとる。
午後はまず「武蔵国府跡 国衙地区」を訪れ、国府官庁街の中心であったことを確認。国府跡から出土した瓦や塼(せん、古代のレンガ)、灰釉陶器などを展示している「ふるさと府中歴史館」を見学。ここで空模様が怪しいため、残念ながら高安寺見学を省略。その後、大國魂神社を参拝し、府中本町から西府駅に移動。「武蔵府中熊野神社古墳」を訪れた。この古墳は7世紀中頃の築造で、下の2段が方形で上段が円形の上円下方墳で非常に珍しい形。最近、古墳全体が石で覆われた築城当時の姿に復元整備され、非常に美しい姿を見せている。展示館ボランティアガイドの方から古墳に関する説明を受けた。古墳見学後、展示館にて出土遺物などを見学。メインは「七曜文(しちようもん)」が刻まれていた鞘尻金具(さやじりかなぐ)である。また、この展示館には復元された石室模型が併設、頭にヘルメットをつけて見学した。展示館敷地内で終了式を行い、解散。武蔵小金井駅には15時50分に帰着した。                                   (参加者 44名)

(3) 5月20日(月)~23日(水) 「島根 松江城、出雲、石見銀山を訪ねる」
担当(塚田、織壁、間島、嵯峨山、佐藤(夕)、馬淵)
史談会初めての飛行機を使っての見学会、出雲と石見を訪ねた。20日朝7時35分発の日航便で出雲縁結び空港に向かい、9時に到着、地元の一畑観光バスが出迎え。空に雲がやや多く、少し波が荒い宍道湖を右に見ながら松江中心部に向かう。途中、斐伊川(ひいかわ)をわたる。「この川はヤマタノオロチの神話の川です」と運転手さん。出雲は神話の国だ。ホテルに荷物を預け松江城に見学に行く。
松江城天守が2015年に国宝に指定されたことから、ボランティアさんの解説にも力が入る。「この城を作った大名は誰でしょう? 堀尾吉晴です。秀吉恩顧の部下で築城に優れていました」城の中に入ると、国宝指定の決定打となった祈祷札は「慶長拾六年…」とあった。1611年に築城されたことが証明された。「この階段は桐材です。火に強く、丈夫です」急な階段を登り天守最上階へ。四方の見晴らしがよい。南には宍道湖が見え、北には武家屋敷が連なる。
松江と言えば小泉八雲、『怪談』などの著作で知られる。旧居には八雲が使った机などがあり、純和風の家だ。「ここで怪談・民話を書きました」「一神教の西欧ではない日本が好きでした」。松江城の「掘川めぐり」ツアーは「橋は背を屈めないと通れません、注意!」と船頭さん。堀から見上げても見えるのは石垣ばかりだが、城の天守も少し見える。小一時間の船旅を終え、ホテルにもどり温泉につかる。この日、松江城山稲荷神社の渡御際ホーランエンヤの期間。10年に一度、約100隻の舟が大橋川と意宇川を舞台に繰り広げる大船行列。渡御の舟を見ることはできなかったが、堀川めぐり事務所で記念の手ぬぐいをタダでいただいた。いい記念だ。夕食は居酒屋で松江名物を味わう。
二日目はホテルを8時に出発、50分ほどで足立美術館に着いた。9時開館前なのにたくさんの観光バス、すでに団体客は入場開始、人気だ。足立美術館の名は聞いているが、創立者の足立全康氏は知らない。貧農に生まれ、丁稚奉公などをへて実業家として成功したとある(ひとことでは言えない)。貧しい時、横山大観の絵にふれ、絵画にめざめた。収集日本画を展示する美術館をつくるにあたって、何よりも庭園に力を入れ、背景の山々も借景にした日本庭園を造った。米国の日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」による庭園ランキングで、16年連続日本一に選ばれている。この日空は真っ青雲一つない、奇跡の晴天。日本庭園の美しいこと。横山大観をはじめとする日本画家の展示に圧倒され、一同感激。
足立美術館を出た後は、宍道湖の水面を見ながら、大田市の石見銀山に向かう。今日は波もおだやか。宍道湖畔で昼食の後、1時間40分で石見銀山駐車場に到着。ここから先は環境保全のため電動自転車を使う。世界遺産・石見銀山ガイドの会のみなさんがお迎え。「この銀山は小金井とも関係が深いのです。川崎平右衛門は江戸中期ここにきて銀山の再興に力を発揮しました。その後3代にわたり代官をつとめました」そこから間歩(坑道)に向かう。山は緑に囲まれウグイスの声が聞こえる。「あれが千の山、山を中心に銀鉱脈があります。戦国時代「灰吹き法」が朝鮮から伝えられ生産が一挙に増えました。大名間の争奪がはげしくなりました」と銀山の歴史と銀製法を説明。電動自転車に慣れ、坂道を上って龍源寺間歩に到着。坑道にはライトがついているが暗い。暗い坑道を味わいながら約40分、鉱脈跡、横穴、立坑、水抜き坑などの解説を受けた。他のグループは熊谷家など石見銀山のお膝元で発展した大森の町並みを訪ねた。
二日目の宿は温泉津(ゆのつ)温泉だ。戦国、江戸時代は銀の積出港として、また温泉地として栄えてきた。温泉津の町は江戸の頃から配置がかわらず、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。「外湯は薬師湯と元湯があります。ぬるいほうは43度、少し熱いのは46~7度でしょうか」と仲居さんの話。えぇっ!これは大変だ。入りに行ったのは数名らしい。
三日目は、さらに青空、雲一つない。出雲大社に向かう。今回は事前に申込、正式参拝となった。特に認められて、神主さんの先導で瑞垣の中、本殿前まで行き拝礼。そして大社についての説明を受ける。「こんな晴れは珍しい。出雲は八雲たつと言われるように雲と湿気が多いのです」と神主さんは開口一番。「大社は正式にはオオヤシロと言います。今年は60年に一回の遷宮。出雲大社は、建物の建て替えではなく、檜皮のふき替えなど補修が中心ですが、檜の皮を集めるだけでも大変。総額百億円以上かかります」「祭神は大国主命です。大黒天とは違います」「朝と晩、新鮮な食事、贄と言いますが毎日お供えします」などと歴史や式年遷宮についての話を聞く。
島根県立古代出雲歴史博物館は、出雲大社を中心とした古代出雲についての展示をしている。主な展示物は、荒神谷遺跡より出土した銅剣358本・銅矛16本、銅鐸6個(以上国宝)、加茂岩倉遺跡より出土した国宝の銅鐸39個、平安時代の出雲大社本殿を再現した10分の1の模型などであり、石見銀山など旧石見国も含めた島根県全体の歴史についての展示もある。中央ロビーには、2000年に出雲大社境内から出土した宇豆柱(うづばしら)。
帰りの羽田便は、残念ながら2グループに分かれた。16時15分発のグループは博物館見学後空港から羽田に向かい、19時25分発のグループは島根半島の西端に位置する日御碕(ひのみさき)神社、古代出雲歴史博物館を見学し羽田に向かった。                  (参加者 23人)

(4) 6月11日(火) 「北口本宮富士浅間神社と忍野八海を巡る」   担当(小林、間島、櫻井、池田)
6月7日の入梅から四日目で、天気予報は雨だったが、幹事の念力が通じたのか、明け方まで降っていた雨は集合時間には上がり、日中は日差しも出て快適な見学会となった。朝8時10分に60人乗りの大型観光バスで小金井を出発。キューピー富士吉田工場には予定時刻10時30分より40分も早い、9時50分に到着。2班に分かれ、1班(29人)は1時間のキューピー工場見学、もう1班(28人)はバスで10分程の北口本宮冨士浅間神社を約1時間見学した。これはキューピー工場の受け入れ人数に制限があった為である。昼食は全員で浅間神社横の茶屋で名物のほうとう鍋を食べ、午後は見学先を入れ替えて見学した。
キューピー富士吉田工場は、さすがに食品工場というに相応しい清潔な工場である。見学通路と工場はガラスで完全に仕切られており、おかゆの製造では、一袋づつ米の投入、水と調味料を混ぜ加熱して粥にし、冷やして後パッキング、段ボール箱への積込みが無人で行なわれる。見学後は、試食室でおかゆ、トロピカルミックス(酢のジュース)などを試食し、最後にドレッシングとおかゆのお土産付きで、皆大いに満足した。
北口本宮冨士浅間神社は、浅間神社の格としては低いが、吉田口登山道の起点であり、平成25年(2013)富士山が世界遺産に登録された時、神社・登山道がその構成資産になったため、大いに羽振りを利かしている。境内の説明はガイドさんにお願いした。面白かったのは本殿の経緯で、始め武田信玄が造営した本殿を豊臣秀吉が横に退けて前よりも大きい本殿を作り、徳川家康がまた退けて更に大きな本殿を造った。そのため本殿の四方にある樹齢千年と言われるご神木が邪魔をしているので屋根を切欠いている。本殿、拝殿などほとんどの建造物が国指定の重要文化財である。鬱蒼とした杉木立の中の神社は荘厳な雰囲気に満ちていた。両班合流して忍野八海へ。
忍野八海とは、富士山の雪解け水が地下の溶岩の間で約20年の歳月を経てろ過され、湧水となって8か所の泉をつくる。古くは信者たちが富士登山前にここで水行を行ったとされるが、その後荒廃していた。天保14年(1843)、長百姓大寄友右衛門が忍野八海、富士講を再興し、各池に守護神の八大龍王を祀り、石碑に和歌を刻み巡礼路を整備した。平成25年世界文化遺産に登録。近年個人が人工の池を作り、多くの観光客がこの人工の池を忍野八海と誤認しているようだ。3班に分かれ、本来の忍野八海をガイドさんの説明で巡った。観光客も少なく池の底から湧水が静かに噴出るのが見えた。
15時30分忍野八海発、17時20分小金井着。                 (参加者57名)

2. 見学会写真展のお知らせ
 下記要領にて写真展の開催を予定しております。会員の皆様には是非ご来場いただきたく、宜しくお願い致します。
  開催日   令和元年7月5日(金)~7月8日(月)
  開催時間  10時~17時  (但し、最終日は10時~15時)
  会場    宮地楽器
ホール(市民ホール)ロビー

31年3月

平成31年3月30日                              小金井史談会
  史談会だより (第29巻 第1号)

1. 総会の報告
1月27日(日) 於 トミンハイム桜並集会所  11時30分開会  参加者 29名
平成30年度実施の事業、会計、監査の報告があり承認可決。次に、平成31年度役員の選出(含任務分担紹介)が行われた。今年度は会長、副会長3名が退任、新しく会長と副会長4名が選任され、体制が大幅に入れ替わった。その後、平成31年度の見学会、見学会展示会(本年も市民交流センターを使用)、講演会、広報について各担当役員より説明があり、異議なく原案通り可決された。
引き続いて行われた懇親会では、新入会員の自己紹介と会員の近況報告があり、出席者の懇談にも花が咲くなかで詩吟も飛び出すなど、和やかな時間が流れ15時頃閉会した。

2. 見学会報告
(1)1月8日(火)「初詣 東海七福神とその周辺を巡る」      担当(小林、織壁、岡田、間島)
快晴だが寒中の季節通りの気温で、特に朝8時10分の三浦屋前広場の集合時には手先がかじかんだ。8時33分の始発に乗り、京急線の新馬場駅に10時10分着。
7班に分かれ、それぞれにガイドさんが付き巡った。点呼後出発。徒歩15分ほどで、まず訪れたのは近代硝子工業発祥の碑である。明治6年(1873) この地に日本最初の近代硝子工業所が設立されたが、経営不振から解散した。碑のみが道端にひっそりと立っている。小道を入り数分で東海寺の大山墓地に着いた。東海寺は徳川家光が沢庵を招聘して創建。幕府による手厚い保護を受けていたが、明治維新後、寺領は新政府に接収され衰退。墓地は残り、沢庵墓(国史跡)、国学者賀茂真淵墓(国史跡)、鉄道の父と言われた井上勝、新しいところでは品川出身の島倉千代子の墓など 多くの有名人の墓がある。
七福神巡りの第一番は、新馬場駅横の丘の上の品川神社(大黒天) である。この神社も徳川家の保護を受けていたが、現在まで生き残って、当日は会社の団体の参詣で賑わっていた。拝殿の奥の方の正面に20cm位の大黒天が鎮座していた。参拝後、社の後ろを回った所に、板垣退助の墓があった。見学後山を下り数分で養願寺(ようがんじ、布袋尊) に着く。天台宗の小さな寺で本尊は虚空蔵菩薩。布袋尊は本堂の賽銭箱のすぐ前に安置されていた。次の一心寺(いっしんじ、寿老人) は養願寺から30mほどの所にあり、同じような小さな寺で本尊は不動明王。寿老人は同じように前面の見やすい場所に安置されていた。次の聖蹟公園は品川宿本陣跡という石碑のみ見て通過。5分ほどの荏原神社(恵比寿) は、和銅2年(709) の創建で、現在でも府中の大國魂神社の神職は例祭のくらやみ祭りに際し荏原神社に参詣し禊を行うほどの由緒ある神社である。残念ながら拝殿の扉は締切ってあり、恵比寿は何処に祀ってあるのか全くわからなかった。また歩いて20分程で品川寺(ほんせんじ、毘沙門天) に着いた。真言宗醍醐派の別格本山で、本尊は水月(みづき)観音だが秘仏のため前立として通常は聖観音が置かれている。が当日は聖観音の代わりに毘沙門天が置いてあった。12時半だったのでガイドさんはここで終了。付近で各自自由に昼食をとった。
午後は京急線で立会川まで乗車。駅そばの天祖諏訪神社(福禄寿) に詣でる。1mほどの福禄寿の木像は、拝殿の中ではなく横の事務所の一部を改造し置いてある。拝んだ後その頭を撫でるとご利益がありますと札が下がっていて、皆撫でていた。また京急線に1駅乗り大森海岸駅そばの最後の七福神、磐井神社(いわいじんじゃ、弁財天) に着く。この神社は平安時代に編纂された延喜式神明牒に記載されている古社。社殿の左の池の中に弁天島が作られており、小さな社の扉は開かれ、中に琵琶を持った弁財天が祀られていた。境内の一廓で終了行事を行い、14時30分現地解散した。(参加者59名)

(2)2月19日(火)「千葉 房総のむらと加曾利貝塚を訪れる」    担当(塚田、桜井、島田、織壁)
小金井を8時15分に出発。早春の小雨が降る中、バスで3時間ほどかけて印旛郡「房総のむら」に到着。ここは千葉県有数の規模を誇る龍角寺古墳群がある。まず岩屋古墳。ボランティアガイドさん「地山(じやま)を利用、三段作りで一辺108mの大きな方墳を作りました。周囲に二重の堀があります」。「石室が見えます。それで岩屋と名付けられました」。次に明治32年建築の旧学習院初等科正堂を見る。重要文化財。隣村に三里塚御料牧場があった縁で譲り受け、小学校講堂として使っていたそうだ。101号古墳は小さな古墳だが、埴輪が再現・陳列されていて見ごたえがある。ここで発掘された埴輪の実物が風土記の丘博物館に展示されている。博物館には古墳の石室や鉄剣、鏃、古代寺院・龍角寺の瓦などを展示。「霞ケ浦周辺は古代に栄えた時代があったのです」と。また房総のむらには江戸時代の武家屋敷、大きな農家や佐原市などの古い商家を16棟再現した町並みがある。小学生たちが遠足にきていた。商家の町並みで集合写真。農家レストランで二色カレーセットの昼食。うまい!と評判だった。
午後、1時間ほどで加曾利貝塚に着く。待ち受けた学芸員が「国の特別史跡です。物でいえば国宝です」と誇らしく話す。ボランティアガイドさんの解説でまわる。「全国2400の貝塚の三分の一が東京湾沿岸です。この地域は数だけでなく規模が群を抜いています」。博物館には貝類、土器、土偶、装飾品などを展示。土器は加曾利式の名にもなった。貝類だけでなく、人骨、獣骨なども出土。「犬の骨はそろって出土、大切に狩りにつれていったようです」。140mと190mの環状の南・北貝塚は東京ドーム2個ほどある。貝塚断面観覧施設がある。イボカサゴ、ハマグリ、アサリなどの貝類、犬の骨も見える。貝殻のカルシュウムで土壌が中和され、動物の骨が良好な状態で保存されているのが特色。「ここは住宅地などになる危機があり、保存運動が行われたことも知ってください」と話す。雨も上がって3時半出発、5時半過に小金井に帰着。      (参加者58名)

(3)3月12日(火)「杉並の南部を巡る」            担当(馬淵、森、柏倉、佐藤(夕))
急に暖かくなり好天に恵まれ、絶好の春の見学会日和となった。天候が良かったせいか多くの方の参加を得た。武蔵小金井駅8時42分の上り始発に乗車し、吉祥寺経由で井の頭線永福町にて下車。
最初に訪れたのは杉並区立郷土博物館。若い学芸員の方から常設展示と庭の移築古民家について、丁寧な説明をしていただいた。杉並区は、善福寺川や神田川など多くの河川が東流していることから、古代から中世、近世、近現代まで人々の営みが継続しており旧跡が多いが、説明を聞いてよく理解できた。この付近一帯は善福寺川両岸に広がる広大な和田堀公園となっており、博物館を出た後に公園内の各所を訪れた。松ノ木遺跡は、非常に多くの縄文時代から古墳時代の住居跡が埋まっているが、現在は松ノ木中学校などが建っており遺跡の雰囲気はないものの、復元住居が展示されている。残念ながらコンクリート製であった。その後、バードウォッチングが出来る和田堀池をゆっくりと一周し、大宮遺跡を訪れた。ここは高台にあり当時から神聖な祭祀域であり、時を経て大宮八幡宮の境内と重なっている。隣の大宮八幡宮は広大な境内を有し、社殿も非常に立派である。八幡宮を出た後は西永福駅まで歩き吉祥寺経由で荻窪駅へ移動、12時10分着。駅周辺で各自昼食をとっていただいた。
午後は13時20分に再開。先ず明治天皇荻窪御小休所を訪れた。明治天皇は何度かここを利用されたが、明治16年4月23日観桜のために小金井へ行幸された折もここで休息されており、小金井とは縁のあるところである。
次に訪れたのは大田黒公園。音楽評論家であった大田黒元雄氏の邸跡で、広い日本庭園が保存・維持されておりゆっくり散策できた。池には小千谷市から贈られた立派な錦鯉が泳いでいる。レンガ色の瀟洒な記念館の前で集合写真を撮った。公園敷地の隣では現在3階建ではあるがマンション建設中で、景観の面で少し残念である。歩いて5分ほどで角川庭園に到着。ここは角川書店の創始者である角川源義氏の旧宅を杉並区が寄贈を受けて改修し公開している。職員の方から庭園について詳細な説明をしていただいた。庭に実っていたキンカンを「皆さんどうぞ食べてください」と言われビックリ。おいしくいただいた。庭の片隅にある水琴窟は、雅な音色を出していた。
その次に訪れたのは荻外荘である。ここは、首相を3度務めた近衛文麿が昭和12年から住み始め、多くの重要な政治会談を行った場所で、政治に関する遺跡として国の史跡に指定されている。邸の周りは残念ながら金網の柵で囲われておりそばには近づけない。当時の客間や応接部分を含む邸宅の一部は、現在豊島区に移築されているが近い将来再移築し、元の姿に復元する計画が進んでいるようである。邸の南側には当時大きな池があったが、今は子供が遊ぶ芝生となっている。
(皆さんかなり歩いて疲れていたため、この後予定していた与謝野公園はパス)
最後に訪れたのは光明院。この寺の辺りは、昔は「荻」が生い茂っており荻寺と呼ばれ荻窪の名の由来になったといわれている。現在は残念ながら荻寺の面影はない。境内で終了式を行い、荻窪駅で解散。武蔵小金井駅には16時20分頃帰着。                  (参加者 61人)

3. 見学会写真展のお知らせ(予告)
 下記要領で写真展の開催を予定しております。その節はご来場の程、宜しくお願い致します。
  平成30年7月5日(金)~7月8日(月)
  会場  宮地楽器ホール(市民ホール)ロビー

30年12月

平成30年12月23日                             小金井史談会
   史談会だより  (第28巻 第4号)

1、見学会報告
(1)10月9日(火)稲城市の寺社を巡る         担当(坂本、佐藤(環)、中島、閑野)
JR武蔵小金井駅を8時32分に出発。西国分寺で武蔵野線に、府中本町で南武線に乗り換え、矢野口駅に9時過ぎに到着、下車し点呼。ボランティアガイドさん2名の歓迎を受ける。今回の見学会は全工程をこの2名のガイドさんにガイドして頂いた。感謝。9時20分出発。
先ず駅の北側にある14基の馬頭観音像、矢野口渡し跡を見学。南に転じて、穴澤神社へ向かう。急峻な男坂とやや緩やかな女坂と二つの道がある。44名の参加者中約10名が勇気を奮って男坂へ。女坂組とは頂上のお社で合流した。延喜式にある武蔵国多磨郡穴澤神社に当たると言われている古社だ。下りは男坂組も女坂を選んで下りた。途中に「東京の名湧水57選」にも選ばれた湧水と小さな洞窟があった。京王相模原線の高架を潜って、妙覚寺へ向かう。ここでも本堂までは踏み込みの広い階段が続く。境内には筆塚と板碑、鐘楼があった。板碑は緑泥片岩製で享徳3年(1454)の銘があり相当古いモノだった。少し歩いて京王相模原線の京王よみうりランド駅から1駅乗車し稲城駅で下車。天台宗妙見寺と妙見尊は明治以降も神仏習合を続けている珍しい状態で、妙見尊を妙見寺が今でも別当寺として管理している。妙見寺から急な階段を登って、11時55分に妙見尊に辿り着く。妙見尊の星祭りは有名。境内にある星供養百年祭記念碑(大正10年(1921)の銘)には小金井村からの3名、手水石(明治11年(1878)の銘)には1名の名を確認できた。多摩川を越えた交流の跡を示しており、この地が小金井からの信仰の対象となっていたことがわかる。大分お腹も空いてきたが、お昼の前に訪れたのが「常楽寺」。阿弥陀堂外陣の鏡天井には、江戸時代中期の絵師、相沢五流による飛天図が描かれており、稲城市観光課長の協力と寺側の好意で史談会一行に公開された。
午後1時前に稲城市役所に到着。地下の職員食堂で観光課長からの歓迎の挨拶を受けながら、お昼をいただく。約1時間の休憩の後、延喜式内社の一つとも言われる青渭神社は向かう。途中、漢学者の窪全亮が明治13年(1880)に設立した私塾「奚義塾」跡に建つ頌徳碑も見学した。10分ほどでJR稲城駅に到着。14時45分現地解散。解散後、駅横の売店でてんでに名物の梨のアイスクリームや土産物を買う姿が目立った。約16000歩。よく歩いた。      (参加者44名)

(2)11月14日(水)多摩の酒造会社を訪ねる          担当(間島、馬淵、嵯峨山、柏倉)
この見学会は、日本酒を飲まない方、特に女性の参加者は少ないかなと少し心配していたが、お酒が飲めない方でも十分楽しめますとの企画と宣伝が功を奏したのか、結果的に多くの女性含め46名の参加を得た。当日は晩秋の見学会にふさわしい絶好の日和に恵まれ、快適な一日を過ごすことが出来た。朝8時15分に集合、8:44分発の青梅行きに乗車し、拝島駅で下車。ゆっくりと多摩川方面に歩き、約15分で石川酒造に到着。
石川酒造の正門を入って正面の杉玉が吊るしてある酒蔵の前でまず集合写真を撮った。その後、石川酒造の職員の方から敷地内の建造物や酒蔵内で丁寧な説明を受けた。酒蔵では、「三段仕込み」の理由や作業内容、「大吟醸」はお米の外側を削る精米の割合が50%以上、等々いろいろな詳しい説明を受けた。説明後は皆さんが楽しみにしていた試飲となった。新酒の他、日本酒で造った梅酒もいただけた。今回の昼食は、全員が一緒に食事できるようにとの間島幹事の企画を、石川酒造さんの特別の計らいで、国の登録有形文化財建造物(「向蔵ビール工房」の二階)を使用させていただいた。この二階は落着いた雰囲気のある非常に大きな広間となっており、予約していた仕出し弁当の素材も味も良く、大変好評であった。食前酒には、一階ビール工房の出来立て地ビールや「多満自慢」の新酒を飲むことが出来た。
石川酒造から徒歩で拝島駅に戻り、羽村駅まで青梅線で移動。羽村駅に到着する直前に塚田役員から、羽村駅北口にある「まいまいず井戸」見学の飛び入り提案がなされ、急遽見学。その後、駅南口に移動し多摩川を目指して歩いた。羽村取水堰は、多摩川の河口から54kmのところにある玉川上水の取り入れ口である。玉川上水は1653年に完成したといわれ、取り入れ口のほとりには開削に尽力した玉川兄弟の像が立っている。ここから玉川上水に沿って歩くと、ほどなく第三水門と羽村導水ポンプ所が見えてきた。ここで山口貯水池と村山貯水池への導水と玉川上水とに配分しているので、ここからの玉川上水は急に狭くなる。その後、非常に静かで緑豊かな上水沿いの小道を、途中休憩をとりながら25分ほど歩き、ようやく煉瓦煙突が見えてきた時には歓声が上がった。田村酒造に到着である。田村酒造の酒蔵には、かつての酒蔵のシンボルである「煉瓦煙突」が残っており、大変美しい姿を見せている。ここでは、酒蔵見学の他、敷地内見学で田村分水の取り入れ口も見学できた。田村分水は玉川上水からの数少ない個人分水であり、当時は敷地内にあった水車で、精米や発電に利用していたそうである。田村酒造見学の最後も、皆さんが楽しみにしていた試飲で締めくくった。併せて多くの方が「嘉泉」の新酒を購入していた。
最後に、田村酒造から徒歩5分の所にある「旧ヤマジュウ田村家住宅」を訪問。事前に小金井史談会の名前で団体予約をいれていたが、見学人数が約50人とのことから福生市教育委員会文化財係長以下4名の方から非常に親切丁寧な説明をいただいたので見学予定時間をだいぶ超え、武蔵小金井駅帰着は17時半となった。                      (参加者46名)
                   
(3)12月11日(火)師走の神奈川県大磯町を歩く      担当(関口、島田、塚田、佐藤(環))
気温が今季最低水準だった朝。2台のバスに分乗して、中町のリサイクルセンターを午前8時に出発。10時15分過ぎにJR大磯駅のロータリーに到着した。67名の大所帯のため、A,Bの2班に分かれて見学を始める。A班は、まず島崎藤村の墓に向かう。承和4年(837) の創建と伝えられる地福寺の境内にあり、梅の古木に囲まれて静かに眠るその傍らには妻の静子さんの墓も。墓碑は文化勲章の受章者で建築家の谷口吉郎博士の設計になるもので、簡素なものだった。曇天の中、新島襄の終焉の地へ歩みを進める。石碑は愛弟子の徳富蘇峰の筆によるもので、熱心に見入る参加者もいた。そこから数分の鴫立庵へ。西行法師の歌で名高い「鴫立沢(しぎたつさわ)」に、寛文4年(1664)小田原の崇雪という人が草庵を結んだことが始まり。京都の落柿舎(らくししゃ)、滋賀の無名庵と共に日本三大俳諧道場と言われる。ここまでに1時間を要した。B 班と合流すべくJR大磯駅や澤田美喜記念館に向かう。ちなみに、B班は澤田美喜記念館を最初に見学して、地福寺、新島襄終焉の地、鴫立庵へと回っている。三菱財閥初代総帥・岩崎彌太郎の孫である澤田美喜は、戦後、混血児教育に情熱を傾けた。生前の遺思を引き継ぎ、この記念館は開設された。戦前・戦後の40年に亘って同氏が蒐集した江戸時代の隠れキリシタンの遺物や関連資料などの貴重な資料ばかりで、参加者は西田館長の説明に熱心に聞き入っていた。この後、バスに分乗、大磯港にある駐車場へ。寒さの中、参加者はバスの中で持参した昼食を済ませた。
午後は12時50分、明治記念大磯邸園の見学から始まった。明治維新150年記念として一般公開を始めた旧大隈重信邸や旧陸奥宗光邸の邸園などを参観した。公開は今年末までで、以後の公開は未定という。貴重な機会だった。次の県立大磯城山公園にある旧吉田茂邸は吉田茂首相の養父が建てた別荘が始まり。平成21年に焼失したが、平成28年に再建された。和風建築の粋を集めた造作には素晴らしいものがあった。また、次の旧三井邸城山荘をモチーフにした郷土資料館は健脚組のみが見学した。吉田邸の見学あたりから細かい雨が降り出す。朝からではなく、見学会終盤で助かった。雨の小金井に帰着したのは5時半過ぎだった。             (参加者67名)

2、昭和の小金井写真展(小金井市協働事業)の報告 
  本写真展は、小金井市の平成30年度小金井市提案型協働事業の募集に対し、史談会として「市
制60周年記念事業 市報で見る昭和の小金井写真展」を提案したところ、協働事業として受理さ
れ実施に至ったものである。           担当(閑野、中島、柏倉、馬淵、佐藤(環))
  日時 平成30年10月20日(土)~24日(水)  10:00~18:00(最終日15時まで)
場所 宮地楽器ホール ロビー
展示  小パネル14枚を使用し、26題の題目ごとに写真(市報に掲載されたもの)と説明文を貼り付ける。26題とは、
   1:市制施行前の小金井  2:ゴミ収集  3:市制施行記念写真
   4:庶民金融としての公益質屋  5:ドブ掃除  6:電車庫の完成
7:あかずの踏切  8:武蔵小金井駅の混雑  9:公会堂の完成
10 :煙草消費税とキャンペーン  11:道路の舗装化
12:オリンピック聖火ランナー  13:本町2丁目の洪水
14:アメリカシロヒトリの駆除  15:市立全小・中学校にプール、体育館が完成
16:東小金井駅開業  17:五日市街道・玉川上水歩道橋の完成
18:3億円事件逃走車両本町住宅で発見  -:光化学スモッグ
     19:小金井最後の水田  20:中学校で学校給食始まる  21:野川・仙川の汚染
22:三宅島友好都市締結  23:放置自転車対策  24:玉川上水の変遷
25:江戸東京たてもの園の開園  
資料  各題目の写真と説明文を印刷した30ページのパンフレットを来場者に配布した。
 なお5日間の来場者は約1500名だった。

3、講演会の報告(1)
 小金井市公民館三者合同研修会の講師の依頼が当会にあり、織壁、塚田両氏が今回の研修会のテーマ「小金井市の魅力と市民活動」に沿って講演を行った。ただしこれはあくまで公民館の運営審議会委員、企画実行委員、職員を対象としたもので、一般募集は行わなかった。
 日時 平成30年10月2日(火) 午後2時~4時  場所 公民館本館学習室B
① 「近代の小金井(明治期を中心に)」 講師 織壁氏
 維新期の上、下小金井村、貫井村、新田の様子、人口の推移。新税制に対する不満から起きた御門訴事件。廃藩置県。寺子屋から学校の設置など。
② 「玉川上水の歴史の中で江戸・小金井を考える」 講師 塚田氏
 玉川上水は1653年(承応2)、羽村取水口から四谷大木戸まで庄右衛門・清右衛門兄弟によって掘られたといわれているが、その工法など疑問点も多い。現在までの種々な経緯。
③ 「小金井史談会の紹介」 講師 織壁氏
 小金井史談会の歴史、活動(見学会、地域活動、郷土史研究、市共同事業など)の紹介。
なお、資料を必要とされる方は、地区役員または小林までご連絡ください。

4、講演会の報告(2)
 府中の矢崎小の4年生に授業をした。ゲストティーチャーだ。
テーマは「川崎平右衛門・武蔵野の歌が聞こえる」
テレビ画面に劇の写真を映して
「背景が赤くなってるね、なあーんだ?」
「ハイ!ハイ! 富士山が噴火しています・・・・」 なかなかよく勉強している。
「そうだね! 300年前に噴火したんだね。府中にも火山灰が積もったよ」
「さあ!私たち二人で、歌を歌います、小金井橋へという歌ですよ! 」
「いそげや、いそげ♪♪ 新田村の皆の衆!見捨てはせぬぞ♪♪ 御救い米を届けるぞ・・」
とおじさん二人が声を張り上げる。子どもたちはポカン(*_*)
「なんで御救い米を届けるのかな?」「・・・?」
「昔はお米がとれない年が続いて、食べるものに困ったのだよ、お米を分けてあげたんだ」
「平右衛門さんは、みんなを集めて、協力して作物が取れるように指導したえらい人だよ」
「ここ武蔵野の開発がいちだんらくして次に美濃へ行った。美濃ってわかるかな?」
「・・・ハイ! 岐阜県のことです。 」しっかりした子どもがいる。
「ここには大きな川が流れていて、いつも洪水を起こしていたんだ。なんという川かな?」
「ハイ!木曽川です。 」担任の先生もびっくり!
こんな話しをしながら楽しい時間をすごした。
矢崎小の4年生は11月22、23日の学芸会でこの劇を上演した。この日は練習日。
11月13日、矢崎小を塚田、織壁二人で訪れました。

5、会報「黄金井」への投稿のお願い
すでにチラシをお配りしましたので、ご承知の事と思いますが、第46号会報「黄金井」への投稿を受け付けております。締め切りは、来年1月27日(日)総会当日ですが、早めの準備方お願いします。原稿は「長文原稿」、「短歌」、「俳句」、「川柳」、「会員だより」、何れでも結構です。
地区委員にお渡しください。


6、総会のお知らせ
  別紙にてご案内の通り、平成31年総会を下記日程で開催します。皆様のご出席をお待ち申し上げます。
日時 平成31年1月27日(日) 11時30分~14時30分 (懇親会を含む)
場所 桜並集会所 トミンハイム1階東端

7、小金井市功労者の表彰のお知らせ
  小金井市制60周年を記念して、市政功労者の表彰が行われ、史談会会員の下記の方々が表彰されました。おめでとうございます。
   中島康夫氏  森廣美氏  嵯峨山康夫氏
 いずれも公民館企画実行委員として市の発展に功績があったと認められたためです。

30年9月

平成30年9月28日                             小金井史談会
   史談会だより  (第28巻 第3号)
1、小金井史談会歴史見学写真展            担当(塚田、関口、佐藤(夕)、曽根、宮崎、松下)
昨年に引き続き、本年も、駅前の宮地楽器ホールのロビー(マルチパーパススペース)で、小金井史談会歴史見学会写真展として、
下記日程にて開催した。 7月13日(金)~7月16日(月) 10時~17時(16日は16時終了)  4日間展示パネル(パネルボード 9枚使用)
・小金井史談会の紹介および平成30年見学予定表 大 1 パネル
・見学会写真(平成29年6月~平成30年6月) 小 8 パネル来場者数 754名 (1日平均189名/日、内記帳者 81 名)、期間中の入会者 6名。
(前年来場者数 570名)。PRのため、「7月1日号 市報こがねい」の催し・講座欄に写真展実施の予告文を掲載して貰った。
また、市内の市広報掲示板にポスターを貼って貰った。前年に比べて来場者が多かったのは、4日間の会期中、3日が土・日・祭で
あった為かと思われる。また4日間とも高温注意報が出続けの酷暑であったが、無事に終わり6名の入会者を得て成功裏に終わったと思われる。

2、見学会報告
(1)6月19日(火)~20日(水) 浜松方面・浜名湖周辺めぐり  担当(塚田、嵯峨山、織壁、佐藤(夕))                       
朝7時半出発、東名高速を名古屋方面に向かって走ったころは青空となっていた。おぉ、富士山が真正面だ! ビューポイントの富士川SAで
最初の休憩。11時過ぎに浜松インターに到着。浜松といえば鰻でしょ! となるが昨今は御存じの高値であるが、思い切って駅前の「うな炭亭」
を予約。三回美味いというひつまぶし定食を注文。まずは三分の一を鰻丼、その後は鰻をご飯に混ぜて、最後は鰻茶漬け。うまかったこと。
鰻の資源問題に思いを巡らせつつ。最初の見学地の浜松城に向かう。ボランティアのガイドさん「家康が29~45歳の時、浜松城で戦い、
その後の天下盗りに進みました」「この城の北、三方ヶ原で武田軍と戦い、敗戦ともいえる大打撃をうけました」「徳川時代は、
この城から多くの城主が老中になるなど出世城と言われました」などと説明を受け、城内の家康像の前で集合写真を撮る。
航空自衛隊浜松基地にある「エアーパーク」では、ブルーインパルスF86が展示、内部では主力機F1などを見て、
シュミレータでパイロット体験をした。続いて有名な「うなぎパイ工場」を見学、一同お土産を買いあさる。ここから舘山寺温泉に向かい宿泊。
翌朝は、予報通りの雨天、浜名湖めぐりは渋い雨の遊覧となった。これもまた良い。遊覧のあと浜名湖の奥から海近くの新居宿へ。
「1854年の大地震・津波で壊れ、この建物は安政2年のもの、現存する国内唯一の関所です」「入り鉄砲と出女、江戸に武器が入らない、
大名の奥方たちが出ないように目を光らせました」「男か女かは“改め婆”があるとこを見ました。ハハハ!」など関所のエピソードを
ボランティアさんから聞く。新居関所は今切関所とも言われ、地震、津波などで何度も移転したが常に浜名湖の岸にあり渡し場があり
舞阪と往復していた。渡し場には多くの渡し船があった。そのためこの宿は大いに賑わったという。宿場の旅籠「紀伊国屋」は紀州藩の
御用宿となってこの屋号を許されたという。江戸風情が味わえる。昭和30年代まで250年も旅館業を続けたという。芸者置屋の小松楼は
明治から昭和に栄え、華やかな芸者遊びが思い浮かぶが、東北、北海道からの女性が多かったとか、考えさせられる。
宿場をあとに中田島砂丘の「まつり会館」へ。有名な浜松まつりを再現展示してある。大凧上げに御殿屋台引き回しは170万人の人出、
170もの町内が参加している。展示もさすが。参加者で長年浜松市に在住していたTさんの説明で見学、毎年まつりに参加していたとか。
浜松インターから東名高速、途中の焼津お魚センターで昼食、小金井には5時半ごろ帰着した。 (参加者18名)

(2)7月10日(火) 袖ケ浦・木更津方面を巡る         担当(中林、小林、櫻井、間島)
例年より10日も早く梅雨明けし、朝から猛暑の中、8時過ぎには参加者が全員集合し、8時20
分リサイクルセンターをみどり号で出発。調布ITより中央高速に入り、海ほたるでトイレ休憩、10時40分最初の見学地の袖ケ浦市郷土博物館に到着。
この博物館の目玉は、上総掘り機の櫓の実物と道具類の展示である。明治20年ごろ、大村安之助氏ほかの人たちにより、鉄管の先に刃を付け、
鉄管の重さを利用して、これを垂直に地面に叩きつけることにより、地面に穴を開ける技術が開発された。竹の弾性を利用して鉄管を持ち上げるため、
人力のみで井戸が掘れる。学芸員の説明はビデオを交えて行われ良く理解できた。なおビデオ中のナレーションは当会会員の佐藤(夕)さんの亡き夫君
によるものであった。現在では発電機により、簡単に電力が得られるため、その使命は終えているが、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
約1時間の見学後、バスで30分ほどのイオンモール木更津で各自昼食。13時20分イオンモールを出発、15分ほどで金鈴塚古墳の横の弁当店の駐車場に
バスを止めさせてもらい、古墳を見学する。墳丘長90mと推定される、六世紀末(古墳時代後期)に造られたと考えられる前方後円墳で、
発掘調査時に開けた穴から、石室内に置かれた箱型石棺を見学できる。石棺内には金鈴ほか多数の馬具、大刀(いずれも重要文化財)
が盗掘を免れて発見され、これらはバスで15分ほどのところにある木更津市郷土博物館に一括展示されている。古墳見学後木更津市郷土博物館に
向かう。博物館は太田山(標高46m)の上にあり、バスの駐車場は無かったが、博物館のそばにあるホテルの駐車場が借りられホッと一息。
おまけに暑さの中、山登りもしなくて済んだ。博物館では学芸員の方の、金鈴塚古墳の出土品を中心にした説明が非常に良かった。また
太平洋戦争中、木更津には海軍航空隊の基地が置かれ、玉音放送後の八月十九日、停戦協定のための重光外相を乗せた飛行機(模型展示)は、
木更津から沖縄伊江島に向け飛び立ったとのエピソードも紹介された。帰りは海ほたるで小休憩をとり、5時少し過ぎ小金井に帰る。                                  (参加者43名)                        

(3)8月7日(火) 小金井市内歴史散歩 金蔵院から小金井神社を訪ねる
            担当(閑野、中島、柏倉、本田)
今年の夏は、統計を取り始めて以来の猛暑日が続くなか、会員の体調も考え、15時より2時間のみの見学会とした。当日は台風に伴う雨の予報で
心配したが、曇天で風も弱く、出発時間には30名が集まった。イトーヨーカドー・三浦屋前を出発、質屋坂を下り小金井街道・薬師道交差点の
トンネルを見学。戦後進駐軍があっという間に道幅を広げたそうな。次に金蔵院に向かった。寺域内で江戸期の石造物として2つの供養塔と
六地蔵を見学。また明治期以降の物として、合同供養塔(明治23年(1890) 尋常小学校の訓導で若くして病死した森田猪三郎氏と、たき火の
火が移り不慮の死を遂げた学童との合同慰霊碑)と、鶏供養塔(昭和26年 日米講和条約が結ばれた年に平和を喜び、実験研究にも使われた鶏を
供養する為、小金井愛鶏会が建立した珍しい供養碑)を見学した。次の鴨下・関家墓地では、地蔵庚申塔(寛文6年(1666) 小金井では滄浪泉園に
有る地蔵庚申塔に次いで2番目に古い)を見学。そして、小金井小次郎の墓石(明治14年(1881) 220名の氏名が有り東京・神奈川以外にも
栃木・茨城・群馬の名も有る)と、追悼碑(明治35年(1902))、ならびに、鴨下製糸創始者の鴨下玉松氏の墓を見学した。その後、小金井神社に
移動。石段上の狛犬(明治13年 (1880)小金井小次郎が亡くなる前の年に奉納)、鳥居(天保14年(1843))、力石(天保9年(1838))を見学後、
神職の方の案内で拝殿に上がらせていただき正式参拝をした。参拝後、茅の輪の説明、拝殿内の3つの奉納額の説明をしていただいた後、外に出て
御神木の話や、境内社3社の話を伺い、社殿前で記念写真を撮り17時に現地散会した。小金井神社での貴重なお話と同時に、小金井の石造物調査
(担当 中島・閑野)の一端を理解していただけたと思う。      (参加者30名)

(4)9月11日(火) 大谷石資料館と宇都宮周辺を訪ねる       担当(織壁、閑野、宮崎、松下)           
 この見学会は大人気、定員以上の申込みがあったが最終的には59名。前日までの猛暑が一転涼しくなったこの日、補助席いっぱいで
7時半出発、宇都宮へバスで3時間。大谷資料館は宇都宮近郊にある。「大谷石は火山から噴出した火山灰が海水中に沈殿して固まったものです」
「ここは地下30メートルです、深いとこで60メートル、そこまで行ったら帰ってこられません、ハハハ!」ボランティアさんは楽しそうだ。
「石一本の大きさは90×30㎝、75㎏あります、昔は人が背負って運び出しました、重労働です。」いつか陥没したことがありますね?と聞くと
「思い出させたくありません、ハハハ! 今は、市がセンサーつけて常時監視しています」とのこと。大正時代からはじまり昭和40年頃まで採掘。
今は、資料館だが、映画の撮影や音楽イベントに使われている。「音を出すと響きます、ほら、パーーン!」この日の構内気温は14度、
ひんやりと気持ちよかった。
大谷寺の縁起は平安時代と言われ「この岩山には、平安時代初めに掘られた千手観音がおられます。岩面に掘られ、最初は金箔で輝いていました。
日本のシルクロード仏と言われています。」ご住職が説明。釈迦如来像、薬師如来、阿弥陀三尊もある。「薬師様のお腹がでているのは心の豊かさの
象徴、ハハハ!」と楽しい説教。またこの場所には縄文時代の遺跡もあり人骨も出土、展示されている。また大谷寺境内と地続きの宇都宮市立公園には、
今回の大戦の戦死者の供養と世界平和を祈って、高さ27mの平和観音が彫像されている。
市内中心の二荒山神社はかつて宇都宮氏が社家をつとめ、下野一之宮だ。4~50段もある階段がきつい。神社前の〝ドンキー〟の地下には宇都宮の
たくさんの餃子屋が一堂に会してる。ウィークデーなのに意外に混んで、総勢60人が食べるのに一苦労。一同「うまかった、たくさん食べられた!」
と満足。宇都宮城跡では「この城は天守閣もなく、石垣でなく土塁でした。それは本多正純が幕府に気兼ねしたためです。有名な『
宇都宮釣り天井の話』は作り話です。」「戊辰戦争の時、土方歳三など幕軍に焼かれました」 関東七名城であったそうだが、面影はないが、
ボランティアさんの話しで昔を偲ぶ。復元された土塁、櫓、門は全てコンクリート製で、堀は水深20cm程で底のコンクリートが見えるのは
ちょっと味気なかった。
午後3時前に宇都宮インターから帰途に、5時半小金井に帰着。       (参加者59名)

3、昭和の小金井写真展開催のお知らせ(予告)  
市制60周年記念事業として、史談会と小金井市の市民共同事業として、昭和の小金井写真展の開催を予定しております。
その節はご来場の程宜しくお願い致します。

   日時  平成30年10月20日(土)~24日(水)       
場所  宮地楽器ホールマルチパーパススペース
開催にあたり、会員の皆様がお持ちの昭和期小金井の写真を募集します。昭和期以前の写真、資料でも結構です。
お持ちの方は、地区委員までご連絡ください。

30年6月

平成30年6月25日                             小金井史談会
   史談会だより  (第28巻 第2号)
1、見学会報告
(1)3月20日(火)夢の島公園と葛西臨海公園を巡る    担当(島田、奥村、佐藤(夕)、米山)
 彼岸の中日で、当然その日は、春の陽気と思って計画したのに、真反対の冬日の気温と冷たい雨。(但し、一日違いの翌21日は、
東京では32年ぶり降雪真冬日で運が良いのか悪いのか迷う)。当日38名の参加で一安心、予定通り8時42分の始発で小金井を出発。
東京駅地下ホームから京葉線新木場駅で下車。第五福竜丸展示館までは寒い雨の中徒歩10分、待機していたガイドさんの説明を受ける。
昭和29年(1947)、木造のマグロはえ縄漁船第五福竜丸はビキニ環礁付近で操業中、乗組員38人全員が米国の水爆実験の放射能の灰を浴び、
無線長の久保山愛吉さんが亡くなられた。昭和51年(1977)この地に廃船になった第五福竜丸の船体、漁具類、久保山さんの船員手帳などが
展示されている。約45分の見学後、次の植物館に向かう。雨の中を歩いて来たので温室植物館に入りホット一息入れる。館長さんの温室内の
暖房は夢の島内のゴミの焼却場からの熱を利用しているとの説明と植えてある熱帯植物の簡単な解説があり、自由に約50分見学した。椰子、
バナナ、マンゴー、カカオ、パンノキなどの大木が植えられ実をつけていた。また水性植物、食虫植物、小笠原諸島の固有種も面白かった。
すぐ隣のBumB(ぶんぶ、文武の意という。都営スポーツセンター)内のレストランで昼食。食後の満腹感で体力・気力も回復して、
次の一駅先の葛西臨海公園に向かう。水族館入口で写真撮影。水族館は久し振り童心にかえり皆さんかなり真剣な表情で 泳ぎ回るシュモクザメ、
エイ、カツオ、マグロなどの群れに見入っていた。1年半ほど前クロマグロなど160匹が水槽内で全滅した。現在はその後追加投入された魚達が
元気に泳ぎ回っていた。丁度餌を与える時間にぶつかり、水槽の上からアジ、イカ、イカナゴなどの餌が投入されマグロが食べるシーンが
見物できた。約90分の見学後退館。15時現地解散する。希望者はクリスタルビューから東京湾を展望した。寒さと雨の中、大変思い出に
残る見学会となった。     (参加者38名)

(2)4月10日(火) 小田原方面、大雄山最乗寺と小田原城周辺を巡る 
   担当(塚田、馬淵、桜井、嵯峨山)
当日は晴天となり、春らしい絶好の見学会日和に恵まれた。リサイクルセンターを8時15分にバス2台を連ねて出発。中央道-圏央道-東名高速を
走り、東名中井PAにてトイレ休憩し大井松田IC経由で、最初に大雄山最乗寺に向かった。最乗寺では、ボランティアガイドの方がいらしたので、
急遽ガイドをお願いした。バス駐車場からの参道はかなりの急坂であったので、登坂が無理な方は無料の移動車両を利用いただいた。老杉が
生い茂る参道を登り、多くの堂舎に関する解説を聞き、最後に有名な赤色の「世界一の大下駄」を見学したが、ガイドの丁寧な解説により
予定見学時間を大幅に超えてしまった。
小田原漁港に移動し、各自自由に新鮮な魚介類の昼食をとった。昼食後は、石垣山一夜城を見学。かなり急坂なところもあり、健脚コース組と
平坦コース組に分かれて歩いた。健脚コースでは、西曲輪跡、天守台跡、本丸跡、物見台、二の丸跡、井戸曲輪跡を見学。物見台では
小田原市内、特に小田原城天守閣や小田原漁港などが遠望できたが、皆さん小田原城天守閣を見つけるのに一生懸命であった。一夜城は、
野面積(のづらづ)み石垣を含め築城当時の姿がかなり残っており、小田原城はよく行くが一夜城は初めてという方が多く、想像していたよりも
遥かに規模が大きく立派であった、との感想が多かった。
最後に小田原城址公園を見学。ボランティアガイドを予約していたが、予定時間に大きく遅れていたため40分程度での短縮解説をお願いした。
銅門、常盤木門を通り抜け、本丸内の天守閣前広場にて集合写真を撮影。その後、天守閣に登り足早に展示資料を見学し、最後に最上階から
小田原市内、相模湾を360°遠望した。今回の見学会では3カ所を巡ったが、どこも非常に見ごたえのある場所であったこと、また帰途の中央道にて
事故渋滞に遭遇するなどして、予定時間を大幅に超えて18時15分に小金井帰着。                       (参加人員63人)                   

(3)5月8日(火) 新緑の世田谷・次太夫堀公園、静嘉堂文庫を訪ねる              担当(織壁、門川、小林、米山)
明け方まで激しく降っていた雨は、幸運にも集合時間の8時15分には止んで見学会中は傘を使わないで済んだ。武蔵小金井駅を8時42分に出発、
井の頭線、小田急線と乗り継いで成城学園前駅で下車、点呼後10時から歩き始め、約30分で最初の見学地次太夫堀民家園に到着。本園は
昭和63年(1988) 世田谷区立として野川沿いのこの地に開園した。名主屋敷(主屋1棟、土蔵2棟)、民家2棟、表門、消防小屋などを復元し、
公園内の次太夫堀や水田とあわせて、江戸時代後期から明治時代初期にかけての農村風景を再現している。ボランティアガイドさんの2班に分けた
丁寧な説明があった。各自軽い昼食後11時45分出発。野川の川岸を25分歩き永安寺へ。この寺は室町時代、第4代鎌倉公方足利持氏の家臣、
二階堂信濃守の子孫清仙大和尚により、延徳2年(1490) 開基(実際は再興)した。この寺で感心したのは、本堂の障子が1mほど開けてあり、
薄暗い中に本尊千手観音菩薩が電光に照らされくっきりと浮かんでいた。次に約10分で大蔵氷川神社へ。祭神は大己責命(おおなむちのみこと)、
素戔嗚尊(すさのおのみこと)。大蔵町の鎮守である。また10分で岡本公園民家園へ。世田谷区の有形文化財第1号に指定された旧長崎家主屋と
土蔵1棟、椀木門(うでぎもん)を復元し江戸後期の典型的な農家の家屋を再現している。急坂を数分上り13時頃最後の見学地静嘉堂文庫美術館に
着いた。三菱財閥の創始者岩崎彌之助、息子の岩崎小彌太が収集した国宝7点、重要文化財84点を含む、およそ20万冊の古典籍と6,500点の
東洋古美術品を収蔵する美術館。当日は「酒器の美に酔う」という企画展が催されていたが、特別に国宝「曜変天目(稲葉天目)」が出品されていた。
鑑賞時間は個々に異なるため、入場前に解散式を行い、鑑賞後は自由に退場帰宅とした。14時頃には大部分は退場した模様。   
                                          (参加者42名)

(4)6月12日(火) 江の島の見どころを巡る        担当(小林、門川、宮崎、柳澤、佐藤(環))
 明け方まで台風の影響を受け雨が降っていたが、三浦屋前広場に集まった時は曇り空になっていた。混雑する新宿での乗り換え時間を考慮し、
8時に集合、8時19分の始発に乗った。新宿で下車、混雑する地下道でトイレと点呼を行い、9時30分発の小田急藤沢行に乗車。電車は
ガラガラでホット一息ついた。10時42分片瀬江ノ島着。江の島の見どころ巡りの出発。先ず橋長389mの弁天橋を渡る。急に道幅が狭くなり
両側に土産物店が並ぶ弁財天仲見世通りを抜けると、大きな朱塗りの鳥居があり、江島神社の辺津宮(へつみや)への入口であった。ここで
集合写真を撮る。辺津宮へはここから相当数の階段を上るのであるが、最近はエスカーと称するエスカレーターが造られていて今回はこれを
利用した。辺津宮の祭神は宗像三女神の三女の田寸津比賣命(たきつひめのみこと)。本殿の左横に小さな奉安殿が建てられていて、
そのなかにかの有名な裸弁財天(本当の名は妙音弁財天)と八臂弁財天が祀られている。江戸時代には弁財天を本尊とする寺であったが、
明治維新後の神仏分離により寺は壊され、神社が前面に出て、弁財天は脇役となった。参拝後、またエスカーに乗り中津宮に着く。
祭神は宗像三女神の二女の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)。またエスカーに乗り、島の頂上にあるサムエル・コッキング苑に入場する。
明治期アイルランド人サムエル・コッキングが造った庭園を戦後藤沢市が買収し公開した。苑内には展望台があり、丁度その頃は快晴となり
上ると四方が見渡せた。退場後、三々五々昼食。13時30分奥津宮に集合し、参拝。2~3分歩いた所で健脚組と非健脚組に分かれ、健脚組は
白波が立ち岩礁に覆われた稚児ヶ淵に向けて急峻な階段を下る。突然、100m以上も続くオープン・スペースが視界に入る。晴れた日には
富士山が望めるそうだが、この日は雲が厚く見えない。ただただ、潮騒の音が響いていた。そのまま、歩いて第一岩屋の入り口に着く。
これは波によって浸食され造られた洞窟で、足元を照らす蝋燭を借りる(無料)。内部は年間を通じて摂氏15~18度で、ヒンヤリとした空気。
第一を出て、長さがほぼ三分の一の第二岩屋に回る。帰りの階段の登りは流石にきつく、息も絶え絶えに集合場所に辿り着いた。
非健脚組は平坦な道を歩き龍恋の鐘を見物した。帰りはダラダラとした下り坂を歩き、弁天橋のたもとで15時少し前に現地解散した。 (参加者49名)

2、歴史見学写真展について(予告)
下記要領で写真展の開催を予定しております。その節はご来場の程宜しくお願い致します。
   平成30年7月13日(金)~7月16日(月)
  各日共 10時~17時  (初日は13時~)
    会場  宮地楽器ホール(市民ホール)ロビー

3、史談会ホームページの再開
  この度関係者のご努力により、ホームページを再開しました。毎月の見学会を中心に、写真を多く取り入れ、見学記も入って見やすくなっています。
パソコンをお持ちの方は、ぜひご覧ください。  アドレスは  http://koganei-sidankai.com/index.html です。
なお、スマホ、携帯でもパソコンと同様のアドレスで開く事ができます。ホームページについてのお問い合わせは、 
織壁役員 orikabetti@nifty.com  まで。

30年3月

平成30年3月23日                             小金井史談会
   史談会だより  (第28巻 第1号)

1、総会の報告
1月30日(火) 於 トミンハイム桜並集会所  11時30分開会     参加者 29名
平成29年度実施の事業、会計、監査の報告について承認可決。平成30年度役員の選出(含任務分担紹介)が為された。平成30年度の見学会、
展示会(本年も市民交流センターを使用)、広報について、担当役員より説明があり、何時になく活発な議論があり、原案通り可決。
引き続いて行われた懇親会では、新入会員を中心として自己紹介、会員同士の懇談にも花が咲き余興(詩吟、古民謡)も飛び出し、
和気藹々のうち15時30分頃閉会した。

2、見学会報告
(1)1月16日(火)世田谷八幡宮初詣と豪徳寺、ボロ市を訪ねる 担当(小林、織壁、中林、宮崎)
  当日は、寒中なれど3月の陽気で、しかも快晴で今までになく多数の80名の参加があった。いつもの通り8時42分の始発で
武蔵小金井を出発。吉祥寺、明大前、下高井戸と乗り継ぎ、東急世田谷線の宮の坂駅で下車するまで、途中のホームの狭いこともあり、
点呼をとることができなかった。しかし宮の坂駅横の世田谷区民センターでトイレ休憩と点呼をしてみると、1人の落ちこぼれもなく、
幹事一同、役員および参加会員の協力に感謝した次第。10時に区民センターを出発。5分ほどで世田谷八幡宮に到着。世田谷八幡宮は源義家が
奥州征伐の戦勝御礼に宇佐八幡宮より分霊を勧請したと伝えられている。初詣の参拝と集合写真を撮る。ボロ市の最終日で混み合っているかと
思ったら、ガラガラだった。宮司はボロ市に行っているので、本日の祈祷受付はありませんの張り紙には笑ってしまった。つぎに10分ほどで
豪徳寺へ。この寺は後北条氏の家臣吉良氏により建立されたが、秀吉の小田原攻めによる北条氏の滅亡とともに吉良氏も滅亡。のち家康の
家臣彦根藩井伊直孝の所領菩提寺になった。招き猫発祥の地と言われる猫塚、井伊家墓地には井伊直孝、井伊直弼はじめ歴代の藩主、内室の
墓碑が林立している。次にまた10分で世田谷城址公園へ。土塁、堀跡を残すのみ。15分でボロ市が開催されている通称ボロ市通りの中ほどに
ある世田谷代官屋敷・世田谷区立郷土資料館に12時到着。資料館の玄関前広場で形ばかりの解散式を行い、ボロ市の見学は各自でということにした。
ボロ市は、400年以上の歴史を有し、骨董品、布地、硝子製品、日用雑貨、古本や中古ゲームソフトなど約700の露店に20万人の人が群がる。
資料館からボロ市通りに出ると、忽ち各会員の姿は見えなくなった。(参加者80名)

(2)2月14日(水)明治・大正の二大文豪記念館を巡る     担当(馬淵、嵯峨山、岡田、松島)
気温の低い日が続き天気が心配されたが、当日は晴天で温かくなり絶好の見学会日和に恵まれた。8時42分武蔵小金井駅始発に乗車、
東西線早稲田駅にて下車。最初に穴八幡宮へ向かった。何故穴八幡宮を訪れるのか、との質問があったとのことで、漱石の癇癪持ちが少しでも
和らぐようにと鏡子夫人が「蟲封じ」の御参りをしたといわれる、文豪に関係する場所である、と説明。その後、漱石誕生の地の石碑を見学し、
漱石山房通りを歩き昨年9月に開館したばかりの漱石山房記念館を訪れた。ここは、漱石が没するまでの9年間を過ごした住居(漱石山房)跡である。
漱石山房は、戦災で焼失した。庭園を散策し、漱石像を囲み集合写真を撮った。入館後、この記念館の目玉である再現された書斎の前で
ボランティアガイドの説明を受けた。当時撮った写真にそっくりにできている。記念館見学後は神楽坂駅まで歩き、駅周辺で分散して昼食。
昼食後、東西線・千代田線で根津駅へ移動し、漱石・鷗外両文豪ゆかりの根津神社を訪れ、両文豪が腰掛けたという「文豪憩いの石」、
「鷗外の石」と称する水飲み場などを見学した。その後、近代文学史上重要な史跡といわれている、鷗外と漱石が時期を前後して住んだ住居跡の
石碑を見学。そして緩やかな上り坂である薮下通りを歩き、鷗外が30歳から亡くなるまでの30年間を過ごした住居である「観潮楼」跡に建つ
森鷗外記念館を訪れた。記念館の方より「観潮楼」と展示資料に関する説明を受け、庭園も散策。当時のまま残る数少ない遺物である
「三人冗語の石」も見学。鷗外が住んでいた頃はここから品川沖が見えたとのことであるが、現在はビルの間からスカイツリーが見える。
記念館を出た後は、団子坂を下り谷中界隈を歩き、岡倉天心記念公園にて終了式を行った。その後全員で谷中銀座まで歩き、
ここで午後3時ごろ解散した。                          (参加者52名)

3、見学会写真展のお知らせ(予告)
  下記要領で写真展の開催を予定しております。その節はご来場の程宜しくお願い致します。
   平成30年7月13日(金)~7月16日(月)
    会場  宮地楽器ホール(市民ホール)ロビー

29年12月

平成29年12月23日                             小金井史談会
   史談会だより  (第27巻 第4号)

1、見学会報告
(1)10月10日(火)鹿島神宮・鹿島宇宙センターを訪ねる   担当(櫻井、塚田、米山、関口)
補助席の若い会員数名の方にはご不自由おかけしたが、晴天の小金井を7時30分大型バスで出発。首都高の調布から新宿の間、多少の混雑はあったものの、湾岸・東関東道を経由、霞ヶ浦の東に位置する湖・北浦に架かる神宮橋を渡り、水中に建つ鹿島神宮赤色の一之鳥居を車窓から見学、10時50分先ずは戦国時代の剣士・兵法家の塚原卜傳(1489~1571)の銅像前でバスを降りた。卜傳は鹿島氏家老卜部覚賢(うらべあさかた)の次男として生まれ、後に父の剣友塚原新右衛門の養子となった。仕合19度、戦場に37度一度も負けを知らず、剣聖と言われた。銅像を後に鹿島神宮へ。鹿島神宮は、奈良時代の養老5年(721)に成立した常陸国風土記によれば、36代孝徳天皇の大化5年(649)神社の郡(こほり)が定められ、38代天智朝の時代に社屋が造営されたと伝えられる。2班に分かれボランティアガイドの案内で境内に入り、大鳥居をくぐる。鳥居は以前は石造りだったが、東北大震災で倒壊したため、平成23年木造で再建された。高さ10.2m、幅14.6m。続いて楼門。これは寛永11年(1634)水戸初代藩主徳川頼房公の奉納によるもので日本三大楼門に数えられている。いかにも荘厳な門であった。奥参道を経て奥宮は慶長10年(1605)家康公が本殿として奉納したもの、安永5年銘の石塔を見学。宝物館にて国宝の「直刀・黒漆平文太刀拵(くろうるしひょうもんたちごしらえ)・附刀唐櫃」を見学。門前にある新仲屋にて昼食。
午後はバスにて鹿島宇宙技術センターへ。すでにビデオ見学部屋には資料とタオルがお土産として各席の椅子に用意されていた。同センターは、我が小金井市にある独立行政法人情報通信機構の所属施設で、衛星通信や宇宙サイバネティクス、宇宙電波応用などの情報通信と宇宙科学の研究開発を行っている。昭和39年(1964)に開催された東京オリンピックの国際衛星TV中継を行ったり、昭和60年(1985)直径34mの巨大アンテナを完成、太平洋プレートの運動を初めて実測、日本の地震予防に大きく貢献している。34mのパラポラアンテナを背景にして集合写真を取り全員満足して帰路に就く。17時頃無事小金井に帰着した。        (参加者53名)

(2)11月14日(火)多摩南大沢・絹の道から片倉城址を歩く  担当(奥村、岡田、米山、門川)
武蔵小金井駅8時35分発で八王子駅経由、横浜線の片倉駅から歩き開始。この日の工程は歩
く距離が長く坂道が続くため参加が少ないことが懸念されたが、会員36名の参加に、健脚の女性6名の特別参加があり、42名の見学会となった。先ず片倉駅近くの片倉城址公園に立寄る。急坂を登り30mほどの高台の城址に上がった。西側からの丘陵頂部は真っ平であるが、東・北・南は急崖の地形を生かした中世の山城である。空堀の状況から三の丸まで在った直線連郭式城郭だったらしい。築城時期、廃城時期、使用者共に不明であるが、小田原北条氏が使用し、秀吉の小田原攻めで廃城になったものと考えられる。城を下り、途中の住吉神社に参拝し、下りきった所で国道16号線を渡り、新しく開発された広大な住宅団地内の坂道を歩き、さらに150段の急階段を上がって、「絹の道」が残っている丘陵頂部へたどり着いたのが11時。息が切れたがここからは、歩いてきた道、片倉城址そして八王子市街が一望である。さらに50段ほど上がった道了尊(室町時代の修験僧、怪力で死後天狗になったという)のお堂跡の広場(標高約230m、二等三角点あり)で軽い昼食をとった。ここからは八王子市から派遣されたガイドさんから「歴史の道百選」に選ばれた「絹の道」に関する歴史、鑓水(やりみず)という集落の状況、現存する石造物の説明を受けた。また生糸商人・八木下家(やぎしたけ)屋敷を改造した資料館で養蚕・生糸に関する説明を聞いた。多摩地方はもとより群馬、山梨からも八王子に集められた貴重な輸出品・絹が運ばれた道が当時のまま保存されている。日本の近代化の一翼を担ったこの道も横浜と八王子を結ぶ鉄道の開通でその役目を終わり、隆盛を誇った鑓水の絹商人たちも没落して、資料館としてその館を残すのみである。資料館を出たところで、一部の者はバスを利用して京王線南大沢駅に先行し、健脚組はさらに明治初期の養蚕農家の小泉家屋敷を外から見学し、緩やかな登り道を約40分歩き南大沢駅には予定通り14時に到着。ここで解散。歩行計は16500歩。三々五々遅い昼食をとった。なかには駅前の首都大学東京の学食を利用した人も。瞬間的に降雨あれど支障なかった。
                              (参加者42名)
                   
(3)12月12日(火)両国・蔵前・本所を巡る           担当(門川、茂木、森、間島)
武蔵小金井駅南口の『三浦屋』前の広場に8時15分集合。42分の始発に乗り、四谷駅で総武
線に乗換え、飯田橋駅で東京メトロ有楽町線に乗換え、護国寺駅にて下車。地上に上がった所に
都心線雑司谷駅まで幹事が案内した。                   (参加者59名)

2、講演会の報告  
  本講演会は、来年市政60周年を迎える小金井市が、改めてこのまちのあしあとを見つめたいとの趣旨で、公民館本館企画の「まちづくり講座」の一環として行われた。  
  日時  平成29年11月12日(日)  10:00~12:00
場所  公民館本館 学習室B
演題  近代小金井のあしあと「地域の学校と神社~寺子屋から始まった学校のあゆみ」
講師  小金井史談会副会長  織壁 哲夫氏
小金井の私塾・寺子屋は江戸時代末期の文政11年(1828)の記録が残されている。江戸時代は
経済活動の発展にともなって、農村にも文化の風が吹き込み、各地に寺子屋・私塾が誕生した。明治5年(1872) 明治政府は学制を頒布。明治6年(1873)金蔵院に尚絅(しょうけい)学舎ができ、これが現在の小金井第一小学校である。その他の小学校8校、中学校5校の歴史・推移を表を使って、また高校、大学についても経緯の説明があった。神社については、時間が無くなり、殆ど説明は無かったが、小金井市内の全神社・仏閣についての資料が揃っている。必要な方は地区役員に申し出ください。





3、会報「黄金井」への投稿のお願い
すでにチラシをお配りしましたので、ご承知の事と思いますが、第45号会報「黄金井」への投稿を受け付けております。締め切りは、来年1月30日(火)総会当日ですが、早めの準備方お願いします。原稿は「長文原稿」、「短歌」、「俳句」、「川柳」、「会員だより」、何れでも結構です。
地区委員にお渡しください。

4、総会のお知らせ
  別紙にてご案内の通り、平成29年総会を下記日程で開催します。皆様のご出席をお待ち申し上げます。
日時 平成30年1月30日(火) 11時30分~14時30分 (懇親会を含む)
場所 桜並集会所 トミンハイム1階東端

29年9月

平成29年9月29日                             小金井史談会
   史談会だより  (第27巻 第3号)
1、小金井史談会歴史見学写真展              担当(塚田、関口、佐藤、松下、曽根、宮崎)
昨年に引き続き、本年も、駅前の宮地楽器ホールのロビー(マルチパーパススペース)で、小金井史談会歴史見学会写真展として、下記日程にて開催した。    
  6月30日(金)~7月3日(月) 10時~17時  4日間
 展示パネル(パネルボード 12枚使用)
 ・小金井史談会の紹介および平成29年見学予定表        大 2 パネル
 ・見学会写真(平成28年6月~平成29年6月)      小9 パネル           
 ・大石 学 先生(東京学芸大学副学長・教授) 講演会
「享保の改革と小金井―将軍吉宗・大岡越前・川崎平右衛門」
・現代座「武蔵野の歌が聞こえる」 小1 パネル
 来場者数 570名 (内記帳者 117 名、期間中の入会者 9名) (前年来場者数 647名)
PRのため、「市報こがねい」の催し・講座欄に実施の予告文を掲載して貰った。また、市内の市広報掲示板にポスターを貼って貰った。前年に比べて来場者が少ないのは、会期が4日間の所為と思われる。1日当たりの入場者数は今回は143人/日。前年は129人/日。今回の特徴は、期間中の入会者 が9名あった事。PR効果があったと思われる。

2、見学会報告
(1)6月19日(月)~21日(水) おおさか・浪速の歴史史跡を巡る
                       担当(織壁、嵯峨山、池田、岡田、佐藤、曽根)
小金井史談会宿泊見学会は、初の「おおさか」「コテコテ大阪」。6月19日天気はまずまず、朝9時過ぎ、武蔵小金井駅前に24名揃う。
東京駅で弁当・飲物を買い11時発の新幹線のぞみ号に乗り込む。13時半新大阪駅に到着後、大阪駅前の大阪第一ホテルで荷物を預ける。
地下鉄御堂筋線に乗り、難波駅で南海高野線に乗り換え堺東へ。駅から徒歩5分の堺市役所21F展望ロビーに直行。360度の視界から南方には
大仙陵古墳(仁徳天皇陵とも)を代表とする百舌鳥(もず)古墳群、西には大阪湾を展望。約1時間過ごし難波駅に向かう。
織田作之助「夫婦善哉」でお馴染みの法善寺横丁の石畳路地を散策後、夕食の「づぼらや」へ。河豚セットで軽く宴会。道頓堀筋は月曜の
夜にも拘らず人混み、その中で集合写真。なんば花月など道頓堀川界隈を散策し地下鉄でホテルに直帰。
  2日目、9時20分ホテルロビー集合。東梅田駅から地下鉄谷町線で四天王寺前夕陽ヶ丘駅下車。四天王寺・石の鳥居前でボランティアガイド
協議会会長山口和子さんと待ち合わせ、3組に分かれて四天王寺境内(寺域1万坪)を1時間半のガイドをお願いする。推古天皇元年(593)難波の荒陵
(あらはか)に聖徳太子によって創建された四天王寺の中心伽藍は、昭和38年の再建で飛鳥時代のままに再現している。南大門・中門(ちゅうもん、
仁王門とも)・五重塔・金堂・講堂が一直線に南北に並び、回廊で囲む配置を「四天王寺式」と呼ぶ。石の鳥居、石舞台、六時堂(ろくじどう)、
元三(がんざん)大師堂など国指定重要文化財ほか見応えのある建造物多数あり、ジョークを交えた上手い解説に皆さん得心顔。ここで一旦
ボランティアガイドさんとはお別れ。
昼食はこれぞ「コテコテおおさか」の真髄、ジャンジャン横丁で串カツのお店へ。ソース二度づけ禁止の串カツに皆さん興奮気味。食後、
大阪スカイツリー「通天閣」へ。二代目通天閣の再建は昭和31年(1956)、87.5mの展望台から大阪市街を一望。黄金のビリケン神殿に相応しい金髪の
三代目ビリケンさんにお会いする。その後ジャンジャン横丁を散策。天王寺公園前でボランティアガイドさん達と再会。大坂冬の陣で家康の本陣となり、
夏の陣では幸村が布陣し激戦となった茶臼山に登頂。四天王寺七宮(しちみや)の一つ堀越神社、法然上人が開基し、「お骨仏さま」庶民の寺として
親しまれている一心寺を参拝。一心寺は、法然上人が西に沈む太陽を見て西方極楽浄土を想い念仏を唱えた「日想観(じっそうかん)」の遺跡という。
幸村終焉の地と伝えられ戦死跡の碑が残る安居(やすい)神社などを巡り、四天王寺夕陽ヶ丘駅前でボランティアガイドと別れる。皆さん暑さと疲労で
ぐったりのご様子、一路ホテルへ。
夕食は「粉もの文化圏」のおおさか、といえばお好み焼。店を貸し切って飲み食いした。一同ホテルへ戻るも、ほぼ半数の方は会長ご友人の馴染みの
北新地へ。店を借り切って大いに飲んで歌って大阪文化を満喫した夜であった。
最終日は朝から本降りの雨、中之島で日本銀行大阪支店、大阪市中央公会堂など大阪を代表する近代建築群の見学予定を変更し、大阪歴史博物館に直行。
コインロッカーに荷を預け、10F古代展示から中近世紀、近現代等7Fまでの見学、そして地下の難波宮遺跡探訪ツアーに参加した。昼食時スマホに
NHKからの情報を受信、豪雨で東海道新幹線運転見合わせの報が入り急ぎ新大阪へ。ここで翌日京都行きの12名と別れ、予定の新幹線より早めに乗車。
自由席の為、12名バラバラではあったが無事東京に18時到着。              (参加者24名)

(2)7月11日(火) 川崎平右衛門の陣屋跡・三富新田・滝の城等を巡る  担当(塚田、大堀、閑野)
 朝から猛暑の中、8時過ぎには参加者が全員集合し、予定時間を15分早く8時15分出発。バスは朝の道路混雑を避けるためか、府中街道から所沢市内を
経て浦・所バイパスから関越所沢ICへ入り、最初の見学地、鶴ヶ島の川崎平右衛門北の陣屋跡へ向かう。10時に鶴ヶ島中学校に到着―同校構内に
バスを特別に駐車させてもらった―既に説明してくれる市教育委員会の学芸員と副校長が待っていた。北の陣屋跡で、学芸員さん、こんなに多くの方が
来てくれたのは初めてですと感激しながら説明をしてくれた。ここで陣屋跡の石祠を入れて集合写真を撮ると、学芸員さんも市の広報のHPに載せたいので
と記念写真を撮る。こんなに歓迎してくれてかえって恐縮した次第です。次に11時05分三芳町立歴史民俗資料館着。ここで、川越藩主柳沢吉保が開いた
三富新田(さんとみしんでん)の概要を、航空写真や、村絵図、さらには農民の屋敷畑の地割の模型を見ながら説明を受ける。サツマイモこそ水不足と
痩せたこの土地に合った作物で、大生産地帯になったが、残念なことに、ここは川越藩なので「上富(かみとめ)いも」でなく「川越いも」として江戸で
評判になったという。そこからバスは上富新田のメイーンストリートの六間通りに入り、12時10分昼食の「かどや」へ到着。50分の昼食時間も終わり
炎天下、ケヤキ並木の下を約5分歩いて旧島田家住宅へ。約200年前の上富新田の農家。庭に地割りの碑が建つ。次は2時05分に富士見市立
難波田(なんばた)城資料館へ到着。3班に分かれガイドさんの説明を受けながら、復元された城を見学。3時15分最後の見学地滝の城へ到着。
空濠などが発掘復元された中世の城。保存会長の方が城の立地地形、伝説、存在する横穴古墳の存在などを説明された後、空濠、などを案内され、
この城は従来の大石氏の築城ではなく太田道灌の築城であることを長い発掘の経験から強調されたのには感動した。4時、バスに全員集合、
5時少し過ぎ無事小金井に帰る。                          
                                  (参加者46名)

(3)8月8日(火) 信仰の山・伊勢原大山を訪ねる         担当(中島、嵯峨山、織壁)
 前日から台風の進路を心配しながらも予定通り7時半出発した頃には雨は上がっていた。決行を決めた担当幹事の勘の良さに脱帽。八王子を過ぎたあたりの
高尾の山は湧き上がる雲が山水画のようだ。高速道路は観光に向かう車は少なめ、順調に大山バス終点に10時に到着した。観光客は我々だけ(笑)。
まだ朝早いのか台風のためか参道入口の店のシャッターは閉まったまま。大山ケーブル駅まで20分ほどの階段・こま参道には、名物の大山とうふや
蕎麦などの食事処、土産物屋、大山こまの工房などが軒を連ねている。何故か一軒の食事処では冷水を人数分持ってお迎え、そうか下見の時に行く
日を教えていた店だ。一息ついて大山ケーブル駅に到着、他の観光客は数人、定員70人ほどのケーブルに全員乗り込んで阿夫利神社駅に向かう。
下社は標高700m。霊山・大山阿夫利神社は江戸時代から庶民の信仰を集め、小金井からも講を組んで参拝した。小金井市内に大山講中が造立したと
思われる石燈籠がある。境内で40人ほどの木遣りの団体に出会った。境内に着いた頃には青空が広がり、駿河湾や江の島を望む。参拝をすませ、
大山の名水をいただき、ふたたびケーブルで下がり大山寺駅に到着。雨降山(あぶりさん)大山寺(おおやまでら)は関東三大不動のひとつ、東大寺を
開いた良弁が天平勝宝7年(755)に開山。この日は八の日・本尊不動明王の御開帳の日であった。ここでも先程の木遣りの団体と一緒になった。
本堂の隣に木遣りの碑が建っていて、そこで木遣り唄を披露していた。聞く所によると、彼等は江戸火消しの流れをくむ江戸消防団の人々で、
年に一回8月8日に参詣に来るという。こま参道に戻り、先ほどの食事処で昼食。名物の大山とうふ、蕎麦を食べる。酒飲みはビールと冷酒で大山参りの
シメをした。午後4時半ごろ小金井到着。「雨降山台風去って豆腐かな」          (参加者51名)

(4)9月12日(火) 中山道の宿場蕨の街並みと河鍋暁斎館を訪ねる
           担当(織壁、森、曽根、宮崎)
  蕨市は、全国の市で最も面積が狭い。こんなところに何か見る所はあるのか(蕨市のみなさんごめんなさい)という声もあったが、中山道の宿場
であるといことで計画した。
8時15分集合の時はまだ天気は持っていたが、武蔵小金井から西国分寺、南浦和を経由して蕨駅に到着した頃には雨空となった。まずは、
古刹の金亀山極楽寺・三学院に向かった。江戸時代には関東七ヶ寺の一つとして僧侶の教育機関であったという。見上げるほど大きな本堂であった。
境内にある目疾(めやみ)地蔵は、その目に味噌をぬって願掛けをすると眼病が治るといわれ多くの人々の信仰を集めているという。横に、
味噌は沢山ぬらないでくださいという立札が立っていた。そこからに南に歩くと旧中山道に着いた。蕨宿は江戸から来ると板橋宿の次の宿場である。
その昔、すぐそばが戸田の渡しであったので宿は栄えたという。面影を少し残す町並みを歩いて、途中せんべい屋で一休みしながら、蕨宿本陣跡に
建てられた蕨市立歴史民俗資料館を見学した。立派な二階建ての建物だが見物客が少ないせいか、管理人も居らず自由見学。そこから蕨駅にもどる方向
に蕨城跡(堀の跡という小さな池のみ)、和楽備神社(明治末、近隣の18社を合祀した神社)があった。昼食は駅前の大きな寿司屋で昼食。
河鍋暁斎(かわなべきょうさい)記念美術館は駅からかなり離れているので、タクシーに分乗して向かった。幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、
日本画家で奇才と言われていた。かのイギリスの建築家コンドルは暁斎に入門し絵を学んだ。美術館では学芸員の方の説明やビデオ上映で展示されている
原画・下絵を鑑賞した。ほとんどの参加者が河鍋暁斎は初めて知ったと言う。西川口駅へ歩き、JR線で4時頃武蔵小金井駅に帰着した。           (参加者48名)

3、講演会のお知らせ(予告)  
下記要領で講演会の開催を予定しております。その節はご来場の程宜しくお願い致します。
  猶、本講演会は、本町公民館の企画で申込制です。市報(10/15)などで確認ください。
   日時  平成29年11月12日(日)
       10:00~12:00 
場所  公民館本館 学習室B(予定)
演題  近代小金井のあしあと「地域の学校と神社」(仮称)
講師  小金井史談会副会長  織壁 哲夫氏

29年6月

平成29年6月27日                             小金井史談会
   史談会だより  (第27巻 第2号)
1、見学会報告
(1)4月5日(水) 高麗神社・聖天院・巾着田を訪ねる      担当(小林、織壁、岡田、松下)
前々日は最高気温が10度以下の真冬の寒さで、桜の開花状況が気になっていたが、当日は最高気温が20度を超え、
天気は快晴で春の一日を満喫できた。8時30分武蔵小金井駅発の下りに乗り、八王子で八高線に乗換え9時59分高麗川駅に着く。
トイレと点呼。1人の欠けも無く幹事はホッとした。駅前に「ひだかの会 観光ガイド」の日詰氏他2名が待機していて下さり、
挨拶と日高市の紹介があった。駅前を10時20分出発。白木蓮、桜の花が咲く田舎道を約30分歩くと、山際に突如高麗神社が現れた。
この神社の由来は、紀元前1世紀中国東北部に興り、平壌を都とした高句麗は、天智天皇7年(668)唐・新羅に滅ぼされ多くの遺民が
日本に渡ってきた。元正天皇の霊亀2年(716)、朝廷は彼らをまとめてこの地に高麗郡を作り 、高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)を
郡長に任命し治めさせた。若光が亡くなると、群民はその徳を偲んで若光を祭神とする神社を建てた。神社の宮司は代々若光の子孫が務めている。
また説明文は日本語とハングルの併用である。参拝後神社の裏手の高麗家住宅(宮司の居宅、国指定重文)を見学した。10分程で聖天院へ。
亡くなった若光の菩提を弔うため、侍念僧勝楽が若光の守護佛聖天像(歓喜天)を本尊として一寺を造った。本堂は150段の階段を上がった
場所にあるため、桜も咲いており絶好の眺めであった。山門の右脇に若光の墓がある。高麗川沿いの道を約45分歩き13時15分巾着田の
「ふれあい広場」に到着。遅い弁当をつかった。巾着田の桜は6~7分咲きというところか。一方菜の花は全然咲いていなかった。午後は
徒歩10分で高麗郷古民家を見学。江戸時代末期高麗本郷村の名主であった新井家の住宅で、約1万2700㎡(3800坪)の敷地に母屋、客殿、
南・北土蔵などが建っている。見学後、14時25分現地解散。徒歩20分で西武線高麗駅着。飯能、所沢と乗継ぎ武蔵小金井に16時頃帰着。
                                   (参加者43名)                    

(2)5月9日(火) 新緑の狭山緑地を歩く         担当(坂本、佐藤、宮崎、奥村)
武蔵小金井駅南口8時30分に集合。国分寺駅で西武多摩湖線に乗り換え、武蔵大和駅で下車。
快晴ではないが、雨の心配のない爽やかな気候の下、総勢55名が徒歩での散策を開始。今回のコースには重厚な建造物・史跡などが存在しないので、担当幹事の手作りの軽い案内だけで見学会を進めた。先ずは日本画の吉岡堅二画伯の旧宅へ。ご家族の許しを得て庭に入った。東京芸大の教授を勤められ、ここは亡くなるまでアトリエ兼住まいだったところである。次いで多摩湖の建設に伴い湖底に沈んだ二つの神社を合祀して建てられた清水神社を訪問。この辺りにはこの種の寺や神社が点在する。三百戸くらいの農家も田畑と共に沈んだ。「湖底の故郷」という流行歌の詩が想い出される。都立東大和公園へ上がる坂の途中に大きな鐘楼門を構えた、荘厳で、美しい庭園の整備された真言宗の円乗院がある。鎌倉時代の古刹であるが、詳しい創建は不明。境内を回って、寺の裏門から東大和公園に入った。ここは都としての最初の丘陵公園で起伏に富んだ地形でコナラなどの雑木林で覆われている。新緑の下を、落ち葉の残る心地よい細道を進む。住宅地に隣接しながらも、深山のような静寂である。公園を出る前に新緑の下で小休憩。住宅の並ぶ坂道を上って多摩湖自転車道に辿り着く。この自転車・歩行者専用道を左に新緑、所々に顔を出す湖面を見ながら村山貯水池下(しも)の堰堤へ向かう。この堰堤は昭和2年完成。戦中の耐弾層の建設、平成21年の強化工事を経て、今日の状態になっている。第一取水塔、余水吐け、堰堤親柱などに特徴がある。湖岸に建つ「掬水亭」の展望レストランで中華の昼食。13時30分レストラン横で現地解散。草臥れた10数人は近くの西武遊園地駅から乗車して帰宅。メインは堰堤下の都立狭山公園を散策しながら武蔵大和駅まで歩いて乗車、帰宅した。                     (参加者55名)

(3)6月13日(火) 結城の里と、 利根川と江戸川の分岐点関宿とその周辺を訪ねる
     担当(織壁、関口、米戸、間島)
 例年通りの梅雨入りとなったこの日、朝方こそ雨が降ったが、次第に上がった。7時半60人乗り
大型バスにて出発、圏央道を通り、新たに開通した境古河ICを経由して結城市に10時すぎ到着、
ボランティアガイドさんの出迎えを受けた。結城は言わずと知れたつむぎの里である。繭を湯の中
で袋状にした真綿から糸をつむぐ。その糸に染色し、地機(じばた)織機で反物に織り上げる。すべ
てが手作業の伝統工芸で重要無形文化財、ユネスコ無形文化遺産である。ボランティアさんの案内
で街なか散策、結城の歴史と文化を展示した見世蔵造りの蔵美館(くらびかん)では、初代藩主結城
秀康の画や槍、明治38年(1905)この地で大演習が行われた際の大本営の資料展示を見た。問屋街
には重要文化財つむぎや問屋などが保存されかつての賑わいを思い起こさせる。街の西側には古い
造り酒屋があり、その先の古刹弘経(ぐぎょう)寺に向かった。結城秀康の夭折した娘松姫を弔うた
めに文禄5年(1695)創建された寺で一度も焼失していないという。与謝野蕪村ゆかりの寺で襖絵が
あるという。境内の石の地蔵は「のんべえ地蔵」夜な夜な徳利で買った豆腐をさかなにザルで酒を
飲んだ愉快な伝説がある。ウナギで有名な高級料理店で昼食弁当を食べ一同満足(ウナギはなかっ
たが)。午後からは結城市伝統工芸館で結城紬の展示と実演を組合長さんの説明で見学した。次に
バスで40分ほどの関宿へ、終戦時の総理大臣だった鈴木貫太郎記念館を見学した。関宿城博物館
はそこから5分程、利根川と江戸川の分岐点に建つ。学芸員さんの案内で、舟運華やかな頃の江戸
時代、蒸気船が走った明治以降の説明を聞く。二階ではこの地域を治めた関宿藩と久世氏の話を聞
き、城最上階の展望台から利根川と江戸川の分岐点や関東平野を眺めた。帰りは圏央道から八王子
経由、きわめてスムーズに5時15分ごろ帰着した。             (参加者59名)

2、見学会記録の展示会について(予告)
下記要領で写真展の開催を予定しております。その節はご来場の程宜しくお願い致します。
   平成29年6月30日(金)~7月3日(火)
  各日共 10時~17時  (初日は13時~)
    会場  宮地楽器ホール(市民ホール)ロビー

3、史談会ホームページの再開
  この度関係者のご努力により、ホームページを再開しました。毎月の見学会を中心に、写真を多く取り入れ、
見学記も入って見やすくなっています。パソコンをお持ちの方は、ぜひご覧ください。  
アドレスは  http://koganei-sidankai.com/index.html です。
なお、スマホ、携帯でもパソコンと同様のアドレスで開く事ができます。
ホームページについてのお問い合わせは、 織壁役員 orikabetti@nifty.com  まで。

29年3月

平成29年3月18日                             小金井史談会
   史談会だより  (第27巻 第1号)

1、総会の報告
1月24日(火) 於 トミンハイム桜並集会所  11時30分開会     参加者 34名
   平成28年度実施の事業、会計、監査の報告について承認可決。平成29年度役員の選出(含任務分担紹介)が為された。
平成29年度の見学会、展示会(本年も市民交流センターを使用)、広報について、担当役員より説明があり、原案通り可決。
引き続いて行われた懇親会では、新入会員を中心として自己紹介、会員同士の懇談にも花が咲き余興(詩吟)も飛び出し、
和気藹々のうち14時頃閉会した。

2、見学会報告
(1)1月6日(金)初詣 下谷七福神めぐり          担当(茂木、小林、関口、宮崎)
  前年は谷中七福神を巡ったので、本年は谷中七福神のすぐ東側の下谷七福神をめぐることに
した。谷中七福神は江戸時代に始まり現在まで続いているが、こちらは昭和52年の開創である
ので谷中に比べると見劣りがするので、巡りの経路から外れた弁天院を除き、下谷七福神のまた
すぐ東側にある浅草七福神の二神を加え、八神を巡った。また一葉記念館も巡った。晴天だった
が寒中の気温は10度を下回る寒い一日であった。この寒さの中70名を超える参加者があり、幹
事は嬉しい悲鳴をあげる羽目となった。
武蔵小金井駅8時42分の始発に乗り、御茶ノ水駅、秋葉原駅で乗換え、東京メトロ三ノ輪駅
に9時50分ごろ到着。歩き始め数分で寿永寺(布袋尊)に着く。布袋尊は石像で本堂脇に露座
で祀られていた。人出もほどほどという感じ。つぎに一葉記念館へ。記念館前の「たけくらべ」
の一節を刻んだ石碑を入れて集合写真を撮る。次に飛不動(恵比寿)へ。次に浅草七福神の大鷲
(おおとり)神社(寿老人)へ。お酉様で有名だが本殿内の左手に小さな寿老人が祀られていた。
次に同じく浅草七福神の吉原弁財天へ。敷地内の堂に弁財天が祀られておりその周辺に遊女を悼
む石碑、関東大震災時の死者を悼む石碑が多数建っていた。15分程歩き、東京メトロ入谷駅入口
の交差点付近で自由昼食。13時再集合し数分で法昌寺(毘沙門天)へ。毘沙門天は本堂脇の小堂
に祀られていた。次にまた数分で英信寺(大黒天)へ。ここも別堂宇に祀られている。この大黒
天は石像で右に弁財天、左に毘沙門天の三つの顔を持つ珍しい像。次にまた数分で入谷鬼子母神
(福禄寿)へ。ここも別堂宇。10分で最後の七福神の元三島神社(寿老人)に着く。ここは大鷲
神社と同じで本殿内の左手に小さな寿老人が祀られていた。14時頃、神社の入口付近で会長挨拶
などの解散行事をおこなって後、幹事がJR鶯谷駅まで案内した。     (参加者 71名)

(2)2月14日(火)池上本門寺と馬込文士村を巡る      担当(小林、柳澤、佐藤、曽根)
早春とはいえ真冬の寒さ、快晴だが吹く風の冷たい一日だった。武蔵小金井駅8時42分の始
発に乗り、新宿駅で点呼とトイレ後、山手線に乗換え、五反田駅から東急池上線で池上駅下車本
門寺へ向かう。10時30分総門に到着。総門は元禄年間の欅(けやき)造り。これをくぐり、加藤
清正が築いたという96段の石段を上り、大堂(だいどう、祖師堂)で参拝、集合写真を撮る。その
後、6班に分かれガイドさんによる境内の建物の説明をうける。五重塔は、戦災で焼け残った数
少ない建造物の一つで将軍秀忠の乳母(めのと)・岡部局(おかべのつぼね)が秀忠の病気平癒を祈願
して発願、慶長13年(1608)に完成した関東最古の五重塔で国の重要文化財。鐘楼は、戦災を受
け、戦後かの小佐野賢治氏が寄進した。墓では力道山が有名。11時40分午前の見学終了。大堂
横のレストラン「お休処」で昼食。12時20分出発。多宝塔(日蓮上人の遺体を荼毘に付した所)、
大坊本行寺(だいぼうほんぎょうじ、日蓮上人が入滅した池上氏の屋敷)を通り、大田区立池上梅園
で六分咲きの梅を鑑賞する。約20分歩いて龍子記念館に着く。大正末期から昭和初期にかけて
多数の文人・芸術家がこの辺一帯に居住した。大田区は一帯を馬込文化村と称し、記念館、案内
板などを設置し、散策コースを設定している。龍子記念館もその一つ。当日は、「仏と画業」と
題し自邸の持仏堂内の《十一面観音》、《不動尊》等のほか、《波切不動》、《水雷神》などの大作
が展示されていた。次に10分ほどで熊谷恒子記念館に着く。熊谷恒子は昭和期の女流かな書家
の第一人者。皇太子妃時の美智子様への書道の御進講者。当日は「春を詠む」と題し、万葉集、
古今集、新古今集などの和歌20点が展示されていた。記念館前で2時35分解散式。徒歩10分
ほどの地下鉄西馬込駅まで幹事が案内した。                (参加者56名)
                   
(3)3月14日(火)三鷹を巡る                担当(茂木、塚田、森、池田)
武蔵小金井駅南口の『三浦屋』前の広場に8時30分集合した時は、傘を挿すほどの雨で、昨
年の9月以来の雨の見学会と思われたが、三鷹駅南口に集合し出発した時には雨はあがり、寒の
戻りで寒いが曇天の一日だった。駅前に「みたか観光ガイド協会」の6人が待っていて、各班7
~8人の6班に分かれ、山本有三記念館、太宰治旧宅などの足跡を巡った。各班が重ならないよ
うに配慮され、あまりせかされることもなく見事な案内であった。主な見学箇所は、①山本有三
記念館(大正15年(1926)建築の洋館。山本有三は昭和11年(1936)から昭和21年(1946)進駐軍
に接収されるまで住んだ)。②太宰治旧宅(昭和14年(1939)から 昭和23年(1948)まで住んだ3
間の借家。妻と3人の子供が居り、執筆は別に仕事場を求め行った。今は建替えられている)。
③井心亭(三鷹市の和風文化施設。太宰の旧居より作品「おさん」に登場する『さるすべりの木』
が移植された)。④入水場所(太宰治が入水したと推定される場所。玉川上水の反対側歩道に太
宰の故郷金木町産の「玉鹿石」が置かれている)。⑤旧千草跡(太宰が通った飲み屋。2階を仕事
場にした。現在はマンション)。⑥山崎富枝下宿跡(この2階に山崎富枝が下宿し太宰が仕事場
として使用していた。現在はマンションで永塚葬儀社)。⑦太宰治文学サロン(太宰がよく訪れ
た伊勢元酒店跡に平成20年、三鷹市が太宰治生誕100年記念として開設した。「走れメロス」「斜
陽」「人間失格」などの作品展示、略年譜、太宰を取り巻く女性の関係図などが壁に掲げられて
いる)⑧田辺肉店跡(太宰の仕事場の一。現在はマンション)。⑨中鉢家跡(太宰の仕事場の一。
現在はマンション)。11時30分駅前に戻り自由昼食。12時30分再集合し禅林寺(ぜんりんじ)へ。
徒歩約20分。黄檗宗。境内には玉川上水に入水した太宰治の墓があり、毎年6月19日には太宰
を偲んで桜桃忌が開かれるので有名。太宰の墓の向かいには森鴎外の墓があり、太宰は鴎外の墓
の傍に葬られることを強く希望したという。両方の墓に参って、14時現地解散。
               (参加者42名)
3、講演会の報告
  平成29年3月6日(月)
       14.00~16.00 (開場13.45)
会場  宮地楽器小ホール        参加者 椅子席 150名
立席   42名
演題  「享保の改革と小金井―将軍吉宗・大岡越前・川崎平右衛門-」
講師  東京学芸大学副学長・教授  大石 学 先生

 当日午後より雨との予報にて参加の人数が心配されたが、さすがに大石教授の人気は高く、椅子
席150はすぐに埋まり、立見も多数出てしまい、なお入場できずお断りの方10名以上という有
様だった。先生の講義はいつもの通りユーモアのある語りで楽しく聞け、わが町小金井の話でも
あったので、たいへん好評であり予定時間を10分オーバーして終了した。
《大石先生講義後のメールの紹介》
 お世話になりました。(中略)真剣に聞いてくださったので、とても話しやすい会でした。小
金井市のレベルの高さがうかがえました。皆さんの運営も見事でした。また機会がありました
らお声がけください。地元ですから。

4、見学会写真展のお知らせ(予告)
  下記要領で写真展の開催を予定しております。その節はご来場の程宜しくお願い致します。
   平成29年6月30日(金)~7月2日(月)
    会場  宮地楽器ホール(市民ホール)ロビー