裏高尾の歴史と梅郷を巡る

紀行文

3月8日(火) 裏高尾の歴史と梅郷を巡る          担当 (垂水、柏倉、櫻井、太田(祐)、白倉)
前日まで春近しを感じていたが、当日はひと月も遡ったような天候であった。しかも、JR中央線は朝の人身事故にて遅延で、参加者が集合場所に来たら順次スタートさせる、車内ではかたまらないなど、会長からのリモート指令が飛んだ。それでも武蔵小金井駅のホームには迷うことなく全員集合し、4,5分ほど遅れてJR高尾行きに乗車、順調に高尾駅で乗り換え京王高尾山口駅に到着した。
いまの甲州街道を高尾山口駅からJR高尾駅方面に案内川沿いを10分ほど下り、小仏川沿いの遊歩道梅林小名路に差し掛かると、梅は一、二分咲き。2月22日の下見では5本の梅の木に1輪の開花ほどだったが、暖かい日が続けば、五分咲きくらいにはなるだろうと思っていたのだが。それでも、「裏高尾の歴史と梅郷を巡る」に誘われた皆さんは、杉の根が張る細道に気をとられて花を見る余裕もなく、大きな不満の声は聞こえてこなかった。高尾天満宮下では「菅原道真」の講釈を静かに聞いて学習した(史談会メニューである)。その後、旧甲州街道(日本橋から下諏訪)を歩いて、「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」、小仏関跡、駒木野宿(日本橋から12番目の宿場)を見学し、高尾駒木野庭園で集合写真をとり、終了した。その後、高尾駒木野庭園で食事をするグループ、高尾山口駅に戻りそこで蕎麦を食べるグループ、そしてJR高尾駅に向かうグループに分かれ、それぞれ帰途についた。帰路中央本線脇の小径では一時小雪も舞った。
梅の花が思うように咲いてくれず、企画者としては「今日はどうでしたか」と聞ける状況ではなかった。したがって、今回は追記で「いのはなトンネル列車銃撃事件」を取り上げたい。
この事件は、あと10日で戦争が終わるという時に起きた。国鉄中央線の列車の運行は3日前の八王子空襲で不通になっていたが、1945年8月5日の朝、全面開通し新宿発長野行き8両編成は、定刻から少し遅れてゆっくりと走り始めた。昼ごろ八王子を過ぎ浅川(高尾)を出た列車はまもなく米軍機に見つかってしまう。そして中央本線「いのはなトンネル」(現「湯の花トンネル」)付近を走行中に襲撃が始まり、2両目の途中がトンネルに入ったところで列車が停止した。後ろの客車が硫黄島から飛来した数機のP51戦闘機の機銃掃射を受けてしまう。現場近くには中島飛行機の倉庫があったが、そこがねらわれたかどうかは、わからない。
いのはなトンネル襲撃事件は、列車襲撃空襲の被害としては国内最大とされるが、被害実態についての調査結果は公表されなかった。事件当時の記録がほとんどないなか、事件発生後40年経過した1985年、八王子市郷土資料館が「八王子の空襲と戦災の記録」を発表して多くの人の知るところとなった。その7年後の1992年、地元浅川町の住民によって今の地に慰霊碑が建立されたが、被災から47年もたっている。
事件当時の資料では、死者52名、負傷者133名となっているが、後日死亡した人を含め、死者は65名以上になった。負傷者の一部は駒木野病院の前身小林病院(現在の高尾駒木野庭園)で手当を受け、それ以外の人は府中など近くの病院に運ばれた。現場に残された遺体は、翌日現場近くの川原で一括して荼毘にふされた。なお、国鉄浅川駅(当時)も5月25日には貨車が被害に合い、7月8日には駅舎が米軍機に襲撃された。今でも高尾駅2番ホームの階段付近の屋根の支柱に弾痕として残っている。

2022年03月08日