紀行文
10月8日(火) 深谷・渋沢栄一ゆかりの地を訪ねる 担当(馬淵、太田(祐)、閑野、白倉)
10月初旬の見学会ということで秋晴れを期待していたが、生憎終日の雨模様となった。参加申込者数は申込締切り時点では募集人員を少し超えていたが、開催日近くになり体調不良や都合が悪くなってのキャンセルが相次ぎ、結局50名の参加者となった。予定通り7時15分に出発。関越自動車道を走り花園ICで下りて深谷市内に入り、最初の見学先である渋沢栄一記念館に9時40分到着。
今回の見学会見学先は一度の収容人員が少なく、2班に分けて見学した。渋沢栄一記念館は、渋沢栄一に関する多種多様の資料が展示されている。また渋沢栄一アンドロイドによる講義室があり論語に関する講義が聴けるが、残念ながら収容人員と時間の関係でパスした。
次に渋沢栄一の生家である「中の家(なかんち)」を見学。現在の「中の家」は、渋沢栄一が育った当時の家ではなく、家を継いだ栄一の妹夫婦によって明治28年に再建されたものである。二階建ての建物で規模が非常に大きい。ここでも渋沢栄一アンドロイドによる渋沢栄一に関する説明があった。1階奥の上座敷は、栄一が帰郷した際に滞在するために造られており、最上級の建材が用いられている。二階は養蚕に使われていた。
昼食は、近くの割烹「若菜」にて、この地の郷土料理である「煮ぼうとう」の定食をいただいた。
午後の最初は、渋沢栄一の従兄で論語をはじめ多くの学問の師である尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)の生家を訪れた。生家は江戸時代末期の商家の建物の趣を残している。尊王攘夷に関する謀議をしたと伝わる2階の部屋は、現在非公開ということで見学できなかった。生家奥の裏庭では藍が育てられていた。
次に、当初世田谷にあった第一銀行の保養・スポーツ施設集会所2棟の建物が取り壊されることになり、2000年に深谷に移築され保存復元された誠之堂(重文)と清風亭を見学した。それぞれ第一銀行頭取であった渋沢栄一と栄一の後を継いで頭取となった佐々木勇之助ゆかりの建物であり、大正時代を代表する建築物として高い評価を得ている。
最後に、かつて深谷では煉瓦が製造されており、その煉瓦を製造した旧煉瓦製造窯跡他を見学した。煉瓦製造の最盛期にはホフマン式輪窯と呼ばれる巨大な窯が6基稼働していたが、現在では1基のみが遺されている(重文)。平日は内部見学ができず、冊の外から見学した。明治28年に、煉瓦を製造施設から深谷駅まで運ぶ引き込み線が引かれ、その際窯跡近くを流れる備前渠に架かる鉄橋が造られ、今も遺されているその鉄橋(備前渠鉄橋(重文))を見学した。
以上で見学を終り帰途についたが、途中高崎線深谷駅を車窓から見学した。深谷の地で製造した煉瓦が東京駅にも使用されたことで、深谷駅は1996年に東京駅を模した橋上駅に改築されている。小金井には予定よりも早い17時30分に無事帰着した。
(参加者50名)